事件記録アーカイブ 一覧 (全 8 件中 1〜8 件)

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昭和32年 ビニール袋殺人事件「電気器具」として列車に載せられた男 福岡市の吉塚駅 500円(税込)

昭和32年 ビニール袋殺人事件「電気器具」として列車に載せられた男 福岡市の吉塚駅

昭和32年(1957年)5月2日。 福岡市の国鉄吉塚駅で、誰も受け取りに来ない一つの大型貨物から、強い異臭が漂っていた。 送り主に連絡はつかない。 受取人にも連絡はつかない。 荷札に書かれていた会社を調べても、そんな会社は存在しなかった。 不審に思った日本通運の係員が警察へ連絡。 警察官立会いのもと、厳重な梱包が解かれていく。 縄。 布団。 そして、その内側にあったビニール製の洋服カバー。 そこから現れたのは、「電気器具」でも商品でもなかった。 身体を折り曲げるようにして押し込められた、一人の若い男性の遺体だった。 後に「ビニール袋殺人事件」「布団詰め死体駅送事件」などと呼ばれる事件である。 遺体はすでに激しく腐敗しており、顔から身元を判断することは困難だった。 しかも、この“貨物”は福岡から来たものではない。 東京から名古屋へ。 名古屋で一度受け取られ、荷札を交換。 そして再び福岡へ送られていた。 犯人は、死体をできるだけ犯行現場から遠ざけようとしていた。 殺害されたのは、洋服生地の外交員として働いていた若い男性・万代正人。 そして捜査線上へ浮かんだのが、同じ洋服生地関係の仕事をしていた若い男、坂本だった。 昭和32年3月5日。 万代は下宿を出る際、 「坂本のところへ行く」 という趣旨の言葉を残していた。 その日を境に万代は行方不明となる。 後に坂本が認めたところによれば、二人は商売上の金銭をめぐって口論となり、坂本は棒状の物で万代を殴り、死亡させた。 さらに万代が所持していた約50万円を奪ったとされる。 しかし、この事件を異様なものにしたのは殺害後だった。 坂本は、万代本人が書いたように見せかけた手紙を用意する。 「急に引っ越すことになった」 そう周囲に信じ込ませ、正規の運送業者を使って万代の下宿に残されていた家財道具まで運び出した。 これによって、 「万代は殺されたのではなく、自分の意思でどこかへ引っ越した」 という物語を作ろうとしたのである。 さらに万代の恋人には、 「彼は金を持っている」 「あなたを大切にしていない」 という趣旨の嘘を話し、万代がどこかで生きているように装った。 そして最後に残ったのが遺体だった。 坂本は遺体を布団とビニール製の洋服カバーで包み、大型貨物に偽装。 貨物駅では中身を、 「電気器具です」 と申告した。 送り主は偽名。 受取人も偽名。 会社名も架空。 東京から名古屋へ発送し、自ら名古屋で受け取った後、荷札を交換して福岡へ送り直す。 東京で発見されれば自分へ捜査が近づく。 ならば、できるだけ遠くへ送ってしまえばいい。 坂本はそう考えたとされる。 しかし完全犯罪を狙った工作は、逆に証拠を増やしていった。 剥がし忘れた古い荷札。 死体を包んでいたビニール製洋服カバー。 鉄道貨物の発送記録。 運送業者の記憶。 下宿人の証言。 そして恋人の証言。 特に捜査員は、ビニール製洋服カバーの製造元から卸、問屋、販売店へと流通経路を逆にたどり、やがて坂本の存在へ到達した。 昭和32年5月21日。 坂本は岡山方面の親族宅で逮捕。 取り調べの中で、万代殺害、約50万円の奪取、死体の梱包、名古屋を経由した福岡への発送などを認めていった。 検察は死刑を求刑。 しかし東京地方裁判所が言い渡したのは無期懲役だった。 翌年、控訴も退けられ、無期懲役が確定したとされる。 一人の男を殺し、その遺体を「電気器具」として列車へ載せ、さらに本人が生きているように周囲へ嘘を重ねる。 犯人は、被害者の身体だけでなく、 「この人間が殺されたという事実」 そのものを消そうとした。 昭和犯罪史に残る「ビニール袋殺人事件」。 殺害から死体の鉄道輸送、引っ越し偽装、恋人への虚偽、ビニールカバーから犯人へ迫った捜査、逮捕、裁判、無期懲役判決まで、その全貌を詳しくたどる。

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大正14年 ピス健事件 太田愛次郎、ピストルと変装で全国の警察を翻弄した男 800円(税込)

大正14年 ピス健事件 太田愛次郎、ピストルと変装で全国の警察を翻弄した男

大正14年(1925年)。 東京、横浜、大阪、京都、神戸――。 複数の都市を渡り歩き、ピストルと短刀を手に強盗を重ねながら、警察へ手紙を送り、偽名と変装を使って逃亡を続けた男がいた。 その名は、太田愛次郎。 世間からは「ピス健」と呼ばれた。 「ピストルの健次」を縮めたこの異名は、新聞によって全国へ広まり、太田は大正犯罪史を代表する逃亡犯の一人となっていく。 太田は一つの名前だけで生きた男ではなかった。 森神健次、守神健次、大西性次郎、本田俊一、高山仁三郎――。 偽名を使い分け、服装を変え、中国人風の姿になり、最後には女装までして警察の目を欺いた。 しかし、その逃亡劇の裏では人が死んでいた。 1925年11月9日未明。 東京府南品川浅間台の小学校校長宅へ強盗に入った太田は、校長を助けようと飛びかかった教員・神田進吉をピストルで撃った。 神田は死亡。 その約30分後、品川駅付近。 太田を追跡した請願巡査・酒井万治に対し、太田は弾切れとなったピストルに代えて短刀を使用する。 酒井巡査も死亡した。 教員射殺から、わずか約30分。 今度は巡査刺殺。 それでも太田は捕まらなかった。 東京から神奈川へ逃れ、さらに関西へ移動。 11月14日には大阪府茨木町の飲食店「喜楽亭」へ侵入し、異変に気づいた女性従業員・畑野あきを銃撃。 畑野も死亡した。 一連の犯行で、少なくとも3人の命が奪われた。 一方、太田は逃亡中にも警察へ手紙を送り、「朝鮮や満州方面へ向かう」と思わせる情報を流した。 他人に遠隔地から手紙を投函させ、消印を利用して捜査を撹乱する。 実際に大陸へ渡った後には、中国人風の服装とサングラス、偽名を使って日本へ戻った。 京都でも強盗を繰り返し、最後に向かったのは神戸だった。 1925年12月12日未明。 神戸・北長狭通。 太田は女装姿で潜伏していた。 周囲には多数の警察官。 突入役として選ばれた刑事は12人。 太田は布団から起き上がるとピストルを向けた。 刑事の一人が外套を頭からかぶせて視界を奪い、その瞬間、12人が一斉に飛びかかった。 激しい格闘の末、「ピス健」はついに逮捕された。 しかし太田愛次郎の犯罪歴は、この事件から始まったものではない。 少年期から窃盗を繰り返し、「森神健次」の名で強盗を重ね、警察や新聞社へ挑戦的な手紙を送った過去があった。 一度は無期徒刑となりながら、恩赦によって出所。 その後は結婚し、子どもをもうけ、会社員として働いた。 犯罪から離れた生活を送る時期もあった。 ところが過去が妻に知られ、家庭が崩れると、太田は再び犯罪へ戻っていく。 そして最後には、教員、巡査、飲食店従業員という、自身の境遇とは直接関係のない三人の命を奪った。 1926年9月25日。 大阪地方裁判所は太田愛次郎に死刑を言い渡した。 太田は控訴せず、同年12月6日に死刑執行。 39歳だった。 ピストル、短刀、偽名、警察への挑戦状、大陸逃亡、中国人への変装、そして最後の女装。 あまりにも劇的な逃亡劇によって「ピス健」という名ばかりが残った。 しかし、その裏にあったのは三人の死と、残された家族の人生だった。 大正時代の日本中を騒がせた「ピス健事件」。太田愛次郎の生い立ちから過去の強盗歴、連続犯行、警察との追跡戦、変装と逃亡、逮捕、裁判、死刑執行までを詳しくたどる。

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明治15年 ピストル強盗・清水定吉 按摩を装い、東京を震え上がらせた「日本最初期の拳銃強盗」 800円(税込)

明治15年 ピストル強盗・清水定吉 按摩を装い、東京を震え上がらせた「日本最初期の拳銃強盗」

明治15年(1882年)ごろ。 近代化が進み始めた東京に、それまでの強盗とは異なる恐怖が現れた。 覆面をした男が商家へ押し入り、手にした西洋式の拳銃を突きつける。 「金を出せ」 「騒げば撃つぞ」 そして抵抗されれば、本当に引き金を引いた。 その男の名は、清水定吉。 後世、「日本最初のピストル強盗」として知られることになる人物である。 資料によれば、清水によるとされる拳銃強盗は明治15年ごろから数年間にわたって東京各地で続き、被害は80件以上、死者は5人に及んだとする記録も残されている。 しかし、警察はなかなか犯人を捕まえることができなかった。 その理由の一つが、清水の異様な二重生活だった。 昼間の清水は、「太田清幸」という偽名を使う按摩だった。 客の家を訪れ、肩や腰を揉み、世間話をする。 家族構成。 商売。 金がありそうか。 夜に誰が家にいるのか。 按摩として自然に家へ入り込める立場を利用し、そこで得た情報を犯行に使ったとされる。 さらに皮肉なことに、清水は警察関係者とも顔見知りだった。 刑事から、 「最近のピストル強盗について何か知らないか」 と聞かれながら、犯人本人が平然と、 「何か分かったら知らせます」 と答えていたという。 昼は人当たりのよい按摩。 夜は覆面をした拳銃強盗。 この生活は数年間続いた。 しかし明治19年(1886年)12月3日、ついに終わりが訪れる。 夜明け前の日本橋・馬喰町。 清水は一軒の商家へ押し入り、拳銃で家人を脅した。 ところが雇人が抵抗し、助けを求めて声を上げる。 清水は発砲。 弾丸は雇人の右腿を貫いた。 銃声が周囲に響き、清水は十分な金品を奪うこともできないまま逃走する。 その直後、久松警察署の24歳の巡査・大河幸太郎が、一人の按摩姿の男に目を止めた。 男は夜明け前にもかかわらず妙に急いでいる。 しかも片手を懐へ入れたままだった。 大河巡査は命じる。 「その手を出せ」 次の瞬間、清水は懐から短刀を抜いた。 路上で激しい格闘が始まる。 短刀。 拳銃。 発砲。 逃走。 追跡。 大河巡査は傷を負いながらも清水を追い続け、ついに取り押さえた。 東京を何年も震え上がらせた「ピストル強盗」の正体が明らかになった瞬間だった。 しかし、大河巡査もその後、負傷が原因で容体を悪化させ、わずか24歳で死亡した。 逮捕された清水定吉には死刑判決が下され、明治20年に刑が執行されたとする記録が残る。 だが、清水の名前は死後も消えなかった。 講談、浪曲、芝居、犯罪読み物へと姿を変え、1899年には『ピストル強盗清水定吉』として映画化。 日本最初期の劇映画の題材にもなった。 江戸の盗賊から、近代東京の武装強盗へ。 拳銃という新しい武器を犯罪へ取り入れ、按摩という表の顔で警察さえ欺いた清水定吉。 その生い立ち、二重生活、連続強盗、逮捕劇、若い巡査との死闘、死刑、そして犯罪者が「物語」へ変わっていった過程までを詳しくたどる。

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昭和33年 デパート「そごう」宿直員殺し一人勤務の夜を狙った社員・森中斗志 500円(税込)

昭和33年 デパート「そごう」宿直員殺し一人勤務の夜を狙った社員・森中斗志

昭和33年(1958年)5月11日夜。 東京・築地にあった、そごう百貨店の配送部で、一人の宿直員が殺害された。 被害者は43歳の高橋正雄。 その夜、高橋は配送部で一人、宿直勤務についていた。 午後9時半過ぎ。 「運送屋の者ですが、届け物があります」 そう名乗る男が配送部を訪れた。 高橋は仕事上の訪問だと思い、男を中へ入れた。 しかし、その男は運送業者ではなかった。 同じ「そごう」に勤務する28歳の社員、森中斗志だった。 森中は会社関係の金約5万円を使い込み、その他の金銭問題も合わせて約20万円を必要としていた。 追い詰められた森中は、問題を会社へ打ち明けるのではなく、強盗によって金を作ろうと考える。 90円で刃渡り10センチ余りのナイフを購入。 当初は大丸有楽町店を狙うつもりだった。 しかし途中で考えを変える。 「そごうの配送部なら、宿直員が一人だ」 自分が働いている会社だからこそ知っていた内部情報。 夜間の人員。 配送部の場所。 一人勤務になる時間。 本来は業務のための知識が、犯罪計画へ利用された。 森中が配送部へ入ると、高橋は次第に男の様子を不審に思う。 すると森中はナイフを抜き、高橋を襲った。 高橋も必死に抵抗し、激しい格闘となる。 途中でナイフが折れるほどだった。 それでも森中は犯行をやめなかった。 高橋は死亡。 犯行後、森中はすぐに逃げるのではなく、現場や自分の衣類、靴、レインコートなどに付着した血液の痕跡を洗い、犯行に結びつく物を川へ捨てるなど証拠隠滅を図った。 そして何食わぬ顔で日常へ戻ろうとする。 警察に対しても、 「何も知りません」 と否認した。 しかも捜査当初、森中を殺人へ直接結びつける決定的な物的証拠はほとんどなかった。 それでも警察は、事件直後に森中が取った休暇、会社の金の使い込み、古物商への品物の売却、事件当日の行動、アリバイの矛盾など、小さな事実を一つずつ積み上げていく。 やがて森中の説明は崩壊した。 「……私がやりました」 森中は犯行を自白。 昭和33年7月6日、強盗殺人罪で起訴された。 検察は死刑を求刑したが、裁判所が言い渡した刑は無期懲役だった。 犯人と被害者の間に、長年の恨みがあったわけではない。 高橋が森中の使い込みを告発したわけでもない。 彼が標的となった理由は、あまりにも単純だった。 「その夜、一人で宿直していたから」 華やかな百貨店の裏側で起きた、同僚による強盗殺人事件。 森中斗志はなぜ自分の勤務先を襲撃先に選んだのか。決定的物証の乏しい中、警察はいかにして犯人へ迫ったのか。 事件発生から犯行計画、証拠隠滅、捜査、自白、裁判、無期懲役判決までを詳しくたどる。

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明治30年 お茶の水裸女殺人事件 顔と名前を奪おうとした男 500円(税込)

明治30年 お茶の水裸女殺人事件 顔と名前を奪おうとした男

明治30年(1897年)4月27日早朝。 東京・お茶の水付近を流れる神田川沿いの崖下で、一人の女性の遺体が発見された。 女性は衣服を身につけておらず、髪は切られ、顔面には刃物による多数の傷が残されていた。 犯人は、ただ女性を殺害しただけではなかった。 衣服を奪い、髪を切り、顔を傷つけることで、 「この女性が誰なのか分からなくする」 ことまで狙ったとみられた。 後に「お茶の水裸女殺人事件」と呼ばれる、明治犯罪史に残る異様な事件である。 当時はDNA鑑定も防犯カメラもなく、全国的な身元照会システムも存在しない。 顔が分からず、衣服も所持品もない女性。 警察が最初に解かなければならなかったのは、「犯人は誰なのか」ではなく、「この女性は誰なのか」という問題だった。 警察は東京の家々を一軒ずつ訪ね歩き、最近姿を消した女性や、激しい夫婦喧嘩があった家庭について聞き込みを続ける。 その地道な戸口調査から浮上したのが、牛込区若宮町で暮らしていた40歳の女性だった。 そして彼女と夫婦同然に暮らしていた男――松平紀義。 しかし「松平紀義」という名前すら本名ではなかった。 男は名門を思わせる松平姓を名乗り、三つ葉葵の紋を身につけながら、高利貸しなどで生活していた。 二人の間には、女性が蓄えた約300円をめぐる金銭問題と、激しい口論があった。 予審では、松平が事件のおよそ一か月前から殺害を考え、一度は実行しかけていたと認定された。 そして4月26日。 女性は自宅で死亡する。 その後、衣服を脱がされ、髪を切られ、顔を傷つけられ、深夜のお茶の水へ運ばれた。 松平は長く犯行を否認した。 一審では死刑を求刑されながら無期徒刑。 さらに控訴審では、起訴状に犯人の氏名が記載されていなかったことを理由に、起訴そのものが無効とされる異例の展開を迎える。 そして裁判のやり直しとなった宮城控訴院で、松平は突然犯行を認めた。 ただし、「計画的に殺したのではなく、夫婦喧嘩の末に死なせた」と主張する。 計画殺人だったのか。 それとも突発的な殺人だったのか。 最後まで完全には埋まらない謎を残した。 さらに事件から約20年後、出獄した松平本人が寄席の舞台に立ち、自らこの事件を観客へ語るという異様な後日談まで残されている。 明治東京を騒然とさせた「お茶の水裸女殺人事件」。 女性の身元を消そうとした証拠隠滅、足で犯人へ迫った明治警察の捜査、新聞による熱狂的報道、異例の裁判、そして犯人本人による事件の語りまで、その全貌を詳しくたどる。

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昭和28年 アプレ三人組の部長夫人殺し 白昼の下北沢で起きた強盗殺人 500円(税込)

昭和28年 アプレ三人組の部長夫人殺し 白昼の下北沢で起きた強盗殺人

昭和28年(1953年)7月1日。 東京・世田谷区下北沢の住宅街で、白昼、一人の主婦が自宅で殺害された。 被害者は、会社で部長職を務める夫を持つ45歳の川原静子。 その朝、夫と長男はいつものように仕事へ出かけ、静子だけが家に残っていた。 午前11時前後。 そこへ複数の男たちが入り込み、静子を襲って命を奪ったうえ、室内を物色。カメラ、16ミリ映写機、腕時計、預貯金通帳など、換金できそうな金品を持ち去った。 犯人たちは偶然この家を選んだわけではなかった。 「家には金がある」 「夫と息子は昼間いない」 「奥さん一人になる」 そうした川原家の生活事情を事前に知ったうえで、犯行日時まで決めていたとみられた。 捜査線上に浮かんだのは、吉田、田村、渡辺英一の三人。 吉田と田村は、かつて巣鴨拘置所で知り合い、「外へ出たら大きいのを一発やる」と強盗計画について話していたとされる。 出所後、そこへ渡辺英一が加わった。 三人は昭和28年6月末に何度も会い、7月1日の午前、成人男性が家を留守にする時間を狙って川原家へ向かった。 犯行後、三人は新宿のビヤホールへ入り、酒を飲んだとされる。 しかし、彼らが利益になると考えて持ち去った盗品が、やがて自分たちを追い詰めていく。 売却されたカメラ。 吉田の周囲で目撃された腕時計。 事件直前まで極端な金欠状態だった吉田が、事件後に突然金を持つようになったという証言。 そして三人が犯行前から何度も接触していた事実。 警察は川原家に出入りした212人もの関係者を調べ、地道な聞き込みを重ねながら、少しずつ三人へ迫っていった。 当時、彼らは戦後の享楽的な若者を指す流行語から「アプレ三人組」と呼ばれ、この事件は「アプレ三人組の部長夫人殺し」として大きく報じられた。 しかし事件の本質は、時代を象徴する派手な呼び名ではない。 金を得るために、犯人たちとはほとんど無関係だった一人の女性が、自宅に一人でいるというだけで標的にされたことである。 昭和28年の下北沢で起きた白昼の強盗殺人事件。その計画から犯行、盗品処分、捜査、三人の関係、そして事件が当時「アプレ犯罪」として語られた背景までを詳しくたどる。

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大正15年 龍野六人斬り 妻を犯人に仕立て、自分だけ生き残ろうとした高見次夫 遺書 自殺 一家惨殺 遺産目当て 800円(税込)

大正15年 龍野六人斬り 妻を犯人に仕立て、自分だけ生き残ろうとした高見次夫 遺書 自殺 一家惨殺 遺産目当て

大正15年(1926年)5月16日未明、兵庫県揖保郡龍野町、現在の兵庫県たつの市で、後に「龍野六人斬り」と呼ばれる一家大量殺人事件が発生した。 現場は、十数代続く老舗麹屋「半田屋」を営む高見家。 一夜のうちに、母親、姪二人、そして幼い子ども三人――計六人が殺害された。さらに犯人の妻も自ら命を絶ち、家の中には七人の死者が残された。 たった一人、生き残ったのが高見次夫だった。 次夫は警察に対し、「妻が姑を恨み、一家六人を殺して自殺した」と説明する。 実際、妻と姑の関係が悪かったことは周囲にも知られていた。遺書も残され、犯行に使われた五寸釘も妻が用意したように見えた。 警察も新聞も、この筋書きを信じた。 事件翌日、亡くなった妻は「一家六人を殺した鬼嫁」として全国に報道される。 しかし、数日後からその物語は崩れ始めた。 妻が生前、兄へ送っていた一通の手紙。 そこには、夫・高見次夫が「一家を皆殺しにする」と話していることへの恐怖が書かれていた。 さらに遺書には、すでに殺されていたはずの子どもについて「立派に育ててください」という趣旨の文章が残されていた。 なぜ、自分で殺した子どもを「育ててほしい」と書くのか。 隣家が聞いた妻の助けを求める声、五寸釘の購入経緯、筆跡、遺書への不自然な加筆。 小さな矛盾が積み重なり、やがて捜査は完全に逆転する。 真犯人とされたのは、生き残った夫・高見次夫だった。 財産と家督を手に入れるために家族を殺し、妻へ罪を着せ、妻まで死なせ、自分だけが悲劇の生存者として残ろうとした――。 「死人に口なし」を利用しようとした男の計画は、死んだ妻が生前に残した手紙によって崩壊した。 大正末期の日本を震撼させた「龍野六人斬り」。事件発生から偽装工作、誤報、真犯人発覚、裁判、死刑執行まで、その異様な全貌を詳しくたどる。

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大正4年 小石川七人斬り惨劇 東京電燈小石川出張所大量殺傷事件 800円(税込)

大正4年 小石川七人斬り惨劇 東京電燈小石川出張所大量殺傷事件

大正4年(1915年)3月15日未明、東京府東京市小石川区表町にあった東京電燈株式会社小石川出張所で、後に「小石川七人斬り」と呼ばれる凄惨な大量殺傷事件が発生した。 一階で眠っていた作業員4人と、二階で暮らしていた主任一家が次々と襲われ、7人が負傷。そのうち作業員4人と主任の妻、合わせて5人が死亡した。 犯人は、前科を持つ大岩寅次郎と香取彦次郎。二人が知り合った場所は監獄だった。東京電燈で働いた経験のあった香取は、出張所に金庫があることを知っており、大岩とともに強盗を計画。便所の窓から建物へ侵入した。 しかし、二人が狙った金庫は最後まで開かなかった。 大金を手にすることもないまま、七人が襲われ、五人の命が奪われた。 しかも事件現場は、警察署のほぼ目の前だった。 犯人たちはなぜ、これほど大胆な犯行に及んだのか。そして半年近く捕まらなかった二人を、警察はいかにして追い詰めたのか。 大正時代の東京を震撼させた「小石川七人斬り」の発生から捜査、逮捕、裁判、死刑執行までを、当時の記録をもとに詳しくたどる。

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