昭和33年 デパート「そごう」宿直員殺し一人勤務の夜を狙った社員・森中斗志
東京都中央区築地東一丁目。
そごう百貨店の配送部。
昭和33年 1958年5月11日
【事件概要】
昭和三十三年 一九五八年五月十一日。
東京・築地。
戦後復興の熱気がまだ街に残り、百貨店という存在が、人々にとって豊かさや新しい生活の象徴でもあった時代だった。
ショーウインドーには商品が並び、売り場には買い物客が訪れ、店員たちは華やかな表舞台を支えていた。
しかし百貨店は、売り場だけで動いているわけではない。
商品を受け取り、仕分け、保管し、発送する。
客からは見えない場所で、多くの人間が働いていた。
事件が起きたのは、そうした「裏側」だった。
中央区築地東一丁目にあった「そごう百貨店」の配送部。
五月十一日午後九時半過ぎ。
そこでは四十三歳の宿直員が、一人で夜勤についていた。
高橋正雄。
その夜も高橋は、いつもと同じように勤務を終えるはずだった。
翌朝になれば家へ帰る。
家族と顔を合わせる。
また次の仕事へ向かう。
そんな当たり前の一日になるはずだった。
しかし、夜の配送部へ一人の男が現れた。
「運送屋の者ですが、届け物があります」
そういう趣旨の言葉を使い、男は中へ入った。
その男は、外部の強盗ではなかった。
同じ「そごう」に勤務する社員だった。
総務関係に勤務していた二十八歳の男。
森中斗志。
森中は会社内部の事情を知っていた。
夜の配送部。
宿直。
人の少ない時間。
そして、
「一人で勤務する日がある」
ことも知っていた。
森中は金に困っていた。
会社関係の金から約五万円を使い込んでいた。
さらに別の金銭問題もあり、資料では合計すると約二十万円を必要としていたとされる。
二十八歳の会社員にとって、簡単に用意できる金額ではない。
森中は、その問題を正直に告白する道を選ばなかった。
借金を整理する道でもない。
処分を受ける道でもない。
彼が選んだのは、
犯罪だった。
しかも、そのために刃渡り十センチ余りのナイフを九十円で購入した。
最初は大丸の有楽町デパートを襲うことを考えた。
だが途中で考えを変える。
「そごうの配送部なら、宿直員が一人だ」
自分が知っている会社。
自分が知っている勤務体制。
その内部情報を、森中は犯罪へ転用した。
高橋は森中から恨まれていたわけではなかった。
森中の使い込みに関係していたわけでもない。
森中の人生を壊した人間でもない。
その夜、
「一人でいた」
それだけだった。
森中が配送部へ入った後、高橋は男の様子を不審に思った。
空気が変わる。
森中はナイフを抜いた。
高橋の胸付近へ刃物を突き出す。
「アッ!」
高橋が叫んだ。
しかし、すぐには倒れなかった。
襲われた高橋は森中へつかみかかり、抵抗した。
配送部の中で激しい格闘になる。
森中は刃物を振るう。
高橋は逃げようとする。
抵抗する。
途中でナイフが折れた。
それでも森中は犯行をやめなかった。
高橋は最終的に動けなくなり、死亡した。
その後。
森中は逃げる前に、現場で血液などの痕跡を消そうとした。
手。
足。
衣類。
レインコート。
靴。
血の付着が疑われる物を洗い、現場の一部を拭き取った。
さらに犯行と結びつきかねない物を包み、川へ捨てたと供述した。
殺人を犯した直後、その場で「掃除」を始めたのである。
その後、森中は何食わぬ顔で日常へ戻ろうとした。
警察から聞かれても、
「何も知りません」
と否認。
しかも当初、警察には森中を殺人へ直接結びつける決定的な物的証拠がほとんどなかった。
それでも捜査員は、
事件後の休暇。
金銭問題。
古物商への品物の持ち込み。
事件当日の行動。
アリバイ。
関係者の証言。
森中自身の説明。
それらを一つずつ積み上げた。
やがて森中の話は崩れる。
そして、ついに自白。
「……私がやりました」
七月六日。
森中斗志は強盗殺人罪で起訴された。
検察側は死刑を求刑。
しかし裁判所が言い渡した刑は、
無期懲役。
一人の会社員が、自分自身の金銭問題を隠すため、同じ会社で働く一人の宿直員を殺した事件。
しかも被害者が選ばれた最大の理由は、
「一人だったから」
という、あまりにも理不尽なものだった。
【いつ・どこで起きたか】
事件は昭和三十三年、一九五八年五月十一日に起きた。
場所は東京都中央区築地東一丁目。
そごう百貨店の配送部。
現在、多くの人が「百貨店」と聞いて思い浮かべるのは売り場だろう。
化粧品。
衣料品。
食料品。
贈答品。
ショーウインドー。
エレベーター。
店員。
買い物客。
だが、巨大な百貨店を動かすためには物流部門が必要だった。
配送部は商品の流れを支える裏方の施設である。
昼間は人の出入りがある。
しかし夜になると状況は変わる。
人が減る。
勤務者も限られる。
事件当夜。
高橋正雄は一人で宿直していた。
それを森中は知っていた。
社員だったからである。
午後九時半過ぎ。
配送部で高橋が倒れているのが発見された。
「人が倒れています」
「宿直の者です。様子がおかしいんです」
警察へ連絡。
警察官が駆けつけた。
高橋はすでに死亡。
身体には刃物による傷。
周囲には争った形跡。
急病ではない。
事故でもない。
殺人。
警察は現場を封鎖する。
だが昭和三十三年である。
防犯カメラはない。
DNA型鑑定もない。
携帯電話の位置情報もない。
犯人が何時にどこを通ったのか、映像で追うこともできない。
捜査員が頼るものは、
現場。
証言。
人間関係。
勤務記録。
足取り。
金。
そして嘘。
そこから犯人を絞り込むしかなかった。
【登場人物】
■森中斗志 二十八歳
本事件の犯人。
そごう本社の総務関係に勤務していた社員。
会社関係の金約五万円を使い込み、その他の金銭問題と合わせて、資料では約二十万円を必要としていたとされる。
事件前、刃渡り十センチ余りのナイフを九十円で購入。
当初は大丸有楽町店を襲うことを考えたが、そごう配送部の宿直員が一人であることを思い出し、勤務先へ標的を変更した。
事件後は証拠隠滅を図り、警察に対して長く否認。
アリバイも工作したとみられるが、捜査によって矛盾を崩され、自白した。
七月六日に強盗殺人罪で起訴。
死刑求刑。
判決は無期懲役。
■高橋正雄 四十三歳
本事件の被害者。
そごう配送部の宿直勤務についていた。
事件当夜、一人勤務だった。
森中から個人的に恨まれていたわけではない。
犯人にとって、
「一人でいる宿直員」
という条件が標的となる最大の理由だった。
森中が運送関係者を装って訪れた際、仕事上の訪問と思い中へ入れたとみられる。
その後、森中の様子を不審に思い、襲撃を受けた。
刃物で刺されながらも抵抗。
格闘になり、最終的に死亡した。
■そごう関係者
事件後、社員の勤務状況、休暇、金銭問題などについて警察の聞き込みを受けた。
森中が事件数日後から約一週間の休暇を取っていたことなどが捜査の手掛かりとなった。
■古物商
森中が事件後、ラジオなどを持ち込み、約千五百円で売却していたことを証言。
この事実自体が殺人の直接証拠だったわけではないが、森中の金銭事情を調べる入口となった。
■捜査員
当初、物的証拠が乏しい中で森中の周辺を徹底的に調査。
金銭問題。
アリバイ。
事件後の行動。
休暇。
品物の処分。
知人の証言。
それらを積み上げ、森中の否認を崩した。
【事件発覚】
五月十一日午後九時半過ぎ。
そごう配送部。
宿直員の高橋正雄が倒れているのが見つかった。
声をかけても反応がない。
すでに死亡していた。
身体には刃物の傷。
室内には争った痕跡。
警察は、
「外部から侵入した強盗か」
と考える。
しかし施設は、通行人が自由に入れる場所ではない。
しかも夜。
さらに犯人は、高橋が一人で宿直している時間を狙ったように見える。
捜査員の間に疑問が生じる。
「この勤務体制を誰が知っている?」
「社員なら知っていてもおかしくない」
犯人は内部の人間ではないか。
その視線が、やがて森中斗志へ向かっていった。
・犯人の生い立ち
・事件の前兆
・当日の詳細
・逮捕
・裁判
・判決
・まとめ