ピス健事件 太田愛次郎、ピストルと変装で全国の警察を翻弄した男
東京府南品川浅間台
■事件概要
大正14年、1925年。
東京、横浜、神奈川、京都、大阪、神戸。
まだテレビもインターネットもなく、新聞が人々にとって最大の情報源だった時代、日本中の読者の目に、奇妙な呼び名が焼き付いた。
「ピス健」。
「ピストルの健次」を縮めた呼び名である。
その男の実体は、太田愛次郎だった。
太田は一つの名前で生きた男ではない。過去には森神健次、あるいは守神健次と名乗り、新聞では大西性次郎と報じられたこともあった。逃亡中には本田俊一、本田順一、高山仁三郎など複数の名を使い分けた。
しかし世間が最も強く記憶した名は、本名ではない。
ピス健。
ピストルと短刀を持ち、民家、寺、料理店、質店へ入り、金品を奪う。警察に追われれば都市を変える。服を変える。名前を変える。中国人風の服装をする。大陸へ逃げたと思わせる手紙を送り、実際に海を渡り、再び日本へ戻る。そして最後には女装までした。
太田の犯行が異様だったのは、単に逃げ足が速かったからではない。
普通の犯罪者は、自分の存在を隠そうとする。
太田は違った。
若いころから新聞社や警察へ手紙を送り、自分の異名を名乗り、捜査を嘲笑するような態度を見せた。逃げながら、同時に世間へ向かって自分の存在を知らせ続けた。
「俺を捕まえてみろ」
そう言葉にしていたかどうかは別として、その行動全体が、警察と社会に対する挑戦状のように見えた。
1925年11月9日未明、東京府南品川浅間台。
太田は小学校校長宅へ押し入り、ピストルを発射した。銃声を聞いて駆けつけた教員・神田進吉は、校長を助けるため太田へ飛びかかった。二人が組み合った直後、太田の銃が火を噴き、神田の腹部を弾丸が貫いた。神田は搬送されたが、同日朝に死亡した。
その約30分後。
品川駅付近で逃走する太田を、請願巡査の酒井万治が追った。
太田はピストルを向けたが、弾は残っていなかった。そこで終わればよかった。武器を捨て、捕まればよかった。
しかし太田は短刀を使った。
酒井は胸部を刺され、倒れた。そして死亡した。
一人の教員が撃ち殺され、そのわずか30分ほど後には、犯人を追った巡査まで刺し殺された。
それでも太田は逃げた。
さらに11月14日未明、大阪府三島郡茨木町の飲食店「喜楽亭」に侵入。そこで働いていた女性・畑野あきが異変に気づき、声を上げる。太田はピストルを発射した。畑野は撃たれ、主人夫婦のいる側へよろめくように進んだ後、その場に倒れた。医師が呼ばれたが助からず、午前4時半ごろ死亡したとされる。
こうして太田の一連の犯行では、少なくとも3人の命が奪われた。
その一方で太田は、警察へ手紙を送り、偽の移動情報を流し、大陸へ渡り、日本へ戻り、京都でさらに強盗を行い、最後には神戸で女装した姿のまま警察に包囲された。
逮捕時、周囲には多数の警官が配置され、突入役には12人の刑事が選ばれた。布団から起き上がった太田はピストルを向けた。刑事の一人が外套を頭からかぶせ、視界を奪う。
「今だ!」
刑事たちが一斉に飛びかかった。
畳の上で身体が折り重なり、激しい乱闘になった。太田は抵抗し、刑事たちは腕を押さえ、ようやく捕縄をかけた。抵抗の末、一時は気絶したと報じられたほどだった。
1926年9月25日。
大阪地方裁判所。
太田愛次郎、死刑。
太田は控訴しなかった。
同年12月6日、大阪刑務所北区支所で死刑執行。
満39歳。
若いころから盗み、強盗、服役を繰り返し、一度は恩赦によって社会へ戻り、結婚し、父親となり、会社員として働いた男。その男は再びピストルを握り、3人の命を奪い、自らの妻子を残したまま刑場へ向かった。
「ピス健」という呼び名には、逃亡劇や変装の奇抜さだけでは語れない、血の付いた現実があった。
■いつ・どこで起きたか
中心となる連続事件は大正14年、1925年秋から冬にかけて発生した。
太田の再犯が目立ち始めたのは10月末だった。
10月28日、横浜。
元貸席業の女性宅へ侵入。
10月29日、鶴見町。
饅頭店や蓄音機製作所を襲った。
11月5日、東京府入新井。
金物商の別荘に入り、留守番の女性をピストルと日本刀で脅して現金を奪った。
そして11月9日午前4時20分ごろ。
東京府南品川浅間台、小学校校長宅。
教員・神田進吉が銃撃され、死亡。
約30分後の午前4時50分ごろ。
品川駅構内付近。
請願巡査・酒井万治が短刀で刺され、死亡。
11月11日未明。
神奈川県戸塚町、宝蔵院。
住職らを脅し、縄で縛って現金を奪った。
11月13日。
大阪・中之島公園で、太田は住居も職もない十代の少年と知り合った。
11月14日午前2時ごろ。
大阪府三島郡茨木町、飲食店「喜楽亭」。
女性従業員・畑野あきが銃撃され、のち死亡。
同日午前11時ごろ。
共犯少年は高槻方面で逮捕されたが、太田は逃走を続けた。
11月16日未明。
大阪市東淀川区、正福寺。
住職を脅し、現金300円余りなどを奪ったとされる。
11月19日から20日にかけて。
大阪府警察部長、刑事課長、さらに警視庁へ太田から手紙が届く。
その後、太田は朝鮮・満州方面へ向かうと見せかけ、実際に下関から関釜連絡船などを利用して大陸へ渡ったとされる。
12月1日。
大連から船に乗り、中国人風の服装と草色のサングラス、偽名を使って日本へ戻った。
12月10日。
京都の質店へ侵入し、現金や金の指輪などを奪った。
12月11日夜。
神戸市内で太田を見たという情報が警察に入った。
12月12日午前4時半ごろ。
神戸・北長狭通の「星の家」。
警察が突入し、女装姿の太田を逮捕。
1926年9月7日。
大阪地方裁判所で公判開始。
9月25日。
死刑判決。
12月6日。
大阪刑務所北区支所で死刑執行。
事件は一つの町、一つの県で完結したものではなかった。
東京から神奈川へ。
神奈川から大阪へ。
大阪から京都へ。
そして神戸へ。
さらに海を越え、満州方面まで捜査線を伸ばした。
現在であれば鉄道の乗車記録、防犯カメラ、通信履歴、宿泊情報、顔写真の即時共有など、逃走者の動きを追跡する方法はいくつもある。しかし大正時代には、都市を移り、偽名を使い、服装を替え、郵便の消印を利用して偽情報を流すだけでも、捜査側に大きな混乱を生じさせることができた。
太田は、その時代の隙間を移動した男だった。
■登場人物
【太田愛次郎】
本事件の中心人物。資料では1887年生まれとされるが、出生地については神戸市山手通りとする記事と、兵庫県加古郡平岡村の農家の三男とする記録があり、史料差がある。少年期から放浪生活に入り、窃盗、強盗を繰り返した。過去に「森神健次」「守神健次」などを名乗り、「百人斬り強盗」として知られた時期がある。1925年の一連の事件では「ピス健」と呼ばれた。ほかに「大西性次郎」「本田俊一」「本田順一」「高山仁三郎」などの名が資料に現れる。
【神田進吉】
小学校教員。11月9日未明、校長宅で銃声を聞き、校長を助けるため太田へ飛びかかった。組み合いになった際に腹部を撃たれ、病院へ搬送されたが午前7時半ごろ死亡した。
【酒井万治】
請願巡査。11月9日、品川駅付近で太田を追跡した。太田のピストルは弾切れだったが、太田は短刀を使用。胸部を刺され、死亡した。刺突に至る細部は史料によって差があり、太田が一度降参するように見せてから刺したとする記録と、太田自身が「殺すつもりではなく逃げるために傷つけた」とする供述を記した後世資料がある。
【畑野あき】
大阪府茨木町の飲食店「喜楽亭」で働いていた若い女性。資料では当時の新聞と予審請求書で実名表記が食い違っている。11月14日未明、侵入した太田らに気づき、声を上げたところ銃撃を受け、午前4時半ごろ死亡した。
【共犯少年】
大阪・中之島公園で太田と知り合った十代の少年。住居も職もない状態だったとされる。太田は「仕事を世話する」といった形で接近し、のち強盗に同行させた。茨木の事件後、高槻方面で逮捕され、その供述や中之島図書館の閲覧票が太田特定の手掛かりになった。判決は懲役8年。
【平田盛中】
兵庫県警察部の刑事課長。太田が出所後、別れを告げるような手紙と写真を送った相手とされる。のちにその写真や手紙が、逃走するピストル強盗と過去の「森神健次」を結びつける重要な資料となった。太田はいずれ妻子や知人のいる神戸へ戻ると読み、逮捕へつながる捜査の一端を担った。
【太田の妻】
尼崎の篤志家のもとで働いていた女性とされる。太田は過去の犯罪歴を隠したまま結婚した。二人の間には子どもが生まれ、太田自身もこの時期を幸福だったと振り返ったという。しかし1925年8月ごろ妻が過去を知り、夫婦関係は崩れた。死刑判決前後には面会し、控訴して一日でも長く生きてほしいと願ったと伝えられる。
【太田の子ども】
太田が出所後、結婚生活の中でもうけた子ども。年少だったとみられる。判決後、妻に連れられて太田と最後の面会をしたとされる。太田は子どもの成長を願う趣旨の辞世を残したという。
【星の家の主人】
神戸・北長狭通の「星の家」の主人。幼いころから太田を知っていたとされ、女装して訪れた太田を一目で見破った。太田はここに宿泊し、その後警察の大包囲を受けることになる。
■事件発覚
事件が全国的な騒動として表面化したのは、1925年11月9日未明の東京・南品川での銃撃と、その直後の品川駅付近での巡査刺殺だった。
午前4時20分ごろ、小学校校長宅で強盗が発砲し、教員・神田進吉が撃たれた。
犯人は逃走。
その約30分後、品川駅付近で不審な男を追った酒井万治巡査が刺され、死亡した。
短時間に、同じ逃走犯によって教員と巡査が相次いで命を奪われた可能性が高まったことで、東京の警察は一気に緊張状態へ入った。
新聞は大きく事件を報じた。
「小学校教員射殺」
「巡査刺殺」
「ピストル強盗逃走中」
当時、東京ではほかにも未解決事件があり、警察の捜査力そのものを疑問視する論調まで出たという。
大量の警官が動員され、不審者への尋問、山林の捜索、駅や旅館、港、道路の警戒が続けられた。
だが犯人は消えた。
しかも消えただけではない。
数日後には神奈川県の寺へ入り、自ら「品川で人を殺した犯人だ」という趣旨を口にし、それを脅しの材料にして金を奪った。
つまり警察が犯人像を固めるより先に、犯人自身が世間へ自分の存在を宣伝していたのである。
ここから事件は、単なる強盗殺人ではなく、警察と犯人が都市をまたいで追い合う大規模な逃亡事件へと変わっていった。
・犯人の生い立ち
・事件の前兆
・当日の詳細
・逮捕
・裁判
・判決
・まとめ