鬼熊事件 三人を殺し、放火し、四十二日間も山野を逃げ続けた岩淵熊次郎

大正15年、1926年 千葉県香取郡久賀村 千葉県香取郡多古町 岩淵熊次郎 放火 サーベル 警官殺し

■事件概要

大正十五年、一九二六年。

昭和への改元まで、あと四か月ほど。

千葉県香取郡久賀村。

現在の千葉県香取郡多古町周辺。

田畑。

雑木林。

原野。

開墾地。

一軒の農家から次の家まで、かなり距離がある地域も珍しくなかった。

電話網は十分ではない。

自動車も少ない。

情報を伝えるには、人が歩く。

自転車で走る。

そんな農村で、一人の男が殺人を犯した。

男の名は、

岩淵熊次郎。

三十五歳。

職業は荷馬車引き。

身長は約五尺一寸。

現在の単位で、およそ百五十五センチ。

大男ではない。

しかし馬と荷車を毎日のように扱い、長距離を歩き、山道を知り尽くした頑丈な男だった。

事件前の熊次郎は、村で一方的に嫌われていた人物ではない。

むしろ、

「熊さん」

と呼ばれていた。

暴れる馬を馴らす。

新入りの荷馬車引きへ馬の扱いを教える。

喧嘩を見れば弱い側へ加勢する。

恩を受けた人間のためなら身体を張る。

村人に頼られることさえあった。

妻もいた。

五人の子どももいた。

家庭を持つ父親だった。

その男が、一九二六年夏。

女性関係をめぐる嫉妬と執着から、別人のように暴走する。

最初に殺されたのは、本稿で福川秋江と呼ぶ二十七歳の女性。

熊次郎と約四年にわたり男女関係にあったとされる女性だった。

しかし熊次郎には妻子がいる。

熊次郎自身も別の女性へ関係を広げていた。

その間、秋江にも新しい男ができる。

本稿では川原寅吉とする二十五歳の男性。

熊次郎は激しく嫉妬した。

「別れろ」

秋江へ迫る。

暴力。

脅迫。

警察沙汰。

事件の約一か月前には、包丁で秋江を脅したとして逮捕される。

懲役三月。

執行猶予三年。

八月十八日。

熊次郎は釈放。

翌十九日夜。

秋江が働いていた居酒屋「上州屋」へ行く。

そこへ寅吉が現れる。

熊次郎を見る。

逃げる。

熊次郎の怒りが爆発。

日付が変わった八月二十日午前零時半ごろ。

熊次郎は秋江へ、

「よくも俺の面に泥を塗ったな!」

という趣旨の言葉を浴びせる。

髪をつかむ。

庭先へ引きずり出す。

殴る。

蹴る。

そして薪を手にする。

頭へ振り下ろす。

一度ではない。

秋江は死亡。

その祖母にも重傷を負わせる。

普通ならここで逃げる。

だが熊次郎は逃げなかった。

まだ殺したい相手がいたからである。

秋江の新しい相手・寅吉。

自分を笑いものにしたと思っている人間。

昔の女性関係で自分を騙したと考える男。

警察。

熊次郎の頭の中では、

「自分対全員」

という構図が出来上がっていた。

寅吉宅へ行く。

寅吉は隠れており見つからない。

熊次郎はマッチを借りる。

次に、秋江と寅吉を取り持ったと思い込んでいた川原実雄宅へ。

「出てこい!」

「この間の礼に来た!」

家族は逃げる。

熊次郎は火を放つ。

炎。

消防組員が消そうとする。

熊次郎は鍬を持って立ちはだかる。

「火を消すと承知しないぞ!」

消防組員二人を負傷させる。

さらに駐在所へ。

巡査が現場へ出ている間に侵入。

サーベルを盗む。

次の標的。

石川修一。

午前三時ごろ。

家の戸を叩く。

「俺だ。ちょっと開けてくれ」

「何だ、こんな時間に」

「急用ができた」

修一が戸を開ける。

目の前に熊次郎。

手にはサーベル。

斬りつける。

修一は逃げようとする。

熊次郎は追う。

さらに斬る。

修一死亡。

そして午前四時ごろ。

熊次郎を待ち受けていた巡査・川下誠司と遭遇。

巡査が追う。

熊次郎はサーベルで頭部を斬る。

組み合い。

捕縄。

熊次郎は巡査の手へ噛みつく。

身体を振りほどく。

山林へ飛び込む。

ここから、

四十二日間の逃亡

が始まった。

警察。

消防組。

青年団。

数百人。

数千人。

山狩り二十四回。

延べ六千人を超える警察官。

それでも捕まらない。

なぜか。

熊次郎は土地を知り尽くしていた。

山。

水場。

小屋。

農家。

抜け道。

そして村人が熊次郎を完全には拒絶しなかった。

夜。

熊次郎が民家の戸を叩く。

「飯をくれ」

相手は恐ろしい。

殺人犯。

だが同時に、

昔から知っている「熊さん」。

馬を馴らしてもらった。

仕事を教えてもらった。

助けてもらった。

飯を渡す。

握り飯。

卵。

風呂。

泊める家さえある。

警察への通報は翌日。

十数時間後。

警官が行った時にはもういない。

新聞は熊次郎へ、

「鬼熊」

という名前を与える。

「熊次郎出た!」

「神出鬼没の鬼熊」

逃げるたびに記事。

東京から記者五十人以上。

伝書鳩まで使われる。

歌が作られる。

映画まで作られる。

殺人犯は次第に、

「数千人の警察を翻弄する怪人物」

へ変化していく。

だが現実では、さらに死者が出る。

九月十一日。

二十四歳の巡査・山野明次郎。

熊次郎を見つける。

「熊次郎!」

追う。

熊次郎の手には大型の鎌。

鎌を振るう。

山野巡査の頸部へ入る。

ほぼ即死。

三人目の死者。

それでも熊次郎は逃げる。

標的だった寅吉と森下忠一が遠方へ避難させられる。

復讐の相手がいなくなる。

熊次郎は疲れ果てる。

「もう駄目だ」

「自首はしない」

「自分で死ぬ」

九月二十七日。

新聞記者・坂本斉一が熊次郎本人と山中で会う。

熊次郎は、

捕まれば死刑だ。

無期でも刑務所へ戻るのは嫌だ。

という趣旨を語る。

さらに、まだ寅吉らへの恨みを捨てていない。

原稿用紙へ、

「ザンネン 岩淵熊次郎」

と記す。

九月三十日。

故郷の墓地付近。

熊次郎は瀕死状態で発見される。

兄・清次郎宅へ運ばれる。

正午前。

死亡。

逮捕ではなく、犯人の死によって四十二日間の逃亡は終わった。

熊次郎本人に裁判はなかった。

代わりに裁かれたのは、

匿った人。

助けた人。

新聞記者。

地元有力者。

鬼熊事件とは、

三人殺害と放火の事件である。

同時に、

一人の殺人犯が地域社会から完全には切り離されず、

新聞によって「鬼熊」という物語へ変えられ、

犯人が被害者より巨大な存在になっていった事件でもあった。

■いつ・どこで起きたか

事件の発端となる殺人は、大正十五年八月二十日未明。

千葉県香取郡久賀村周辺。

現在の多古町地域で起きた。

しかし鬼熊事件には、一つだけの「現場」があるわけではない。

最初の殺害現場。

放火された家。

サーベルを奪われた駐在所。

二人目の殺害現場。

巡査と格闘した場所。

その後の山林。

熊次郎へ食事を与えた農家。

風呂へ入れた家。

九月十一日の巡査殺害現場。

新聞記者との面会場所。

そして最期を迎えた墓地付近。

事件は、久賀村と周辺農村全体へ広がった。

土地の特徴が、逃亡を支えた。

田。

畑。

雑木林。

竹藪。

原野。

小屋。

沢。

当時の警察は現在のように、

ヘリコプター。

赤外線カメラ。

ドローン。

携帯電話位置情報。

防犯カメラ。

無線通信網。

を持っていない。

地図を持って人が歩く。

山を一列になって捜す。

農家を聞き込む。

それでも土地を知る熊次郎の方が早い。

荷馬車引きとして何年も道を歩いた男。

どこに水がある。

どこに隠れられる。

どの農家へ行けば食事をもらえる。

身体が覚えている。

だから大規模な山狩りでも捕まらなかった。

■登場人物

【岩淵熊次郎】

犯人。

明治二十五年、一八九二年生まれとされる。

三十五歳。

千葉県香取郡久賀村出沼地区の農家に生まれた。

尋常小学校を三年ほどで退学。

農業。

有力農家の手伝い。

その後、荷馬車引き。

馬を扱う技術に優れ、特に暴れる新馬を馴らすことが得意だった。

身長は約百五十五センチと小柄だが頑丈。

山道や長距離移動に強かった。

妻と五人の子どもがいた。

事件前は村人から「熊さん」と呼ばれ、頼られる面も持っていた。

一方で女性関係が多く、嫉妬と執着が強くなると暴力へ進んだ。

【岩淵清次郎】

熊次郎の兄。

逃亡終盤、瀕死状態となった熊次郎が運び込まれた家でもある。

事件後は、熊次郎を助けた可能性を含め、親族も警察の調査対象となった。

【福川秋江】

二十七歳。

居酒屋「上州屋」で働いていた女性。

熊次郎と約四年間、男女関係にあったとされる。

しかし熊次郎には妻子がいた。

熊次郎が別の女性へ気持ちを向けている間、秋江にも新しい交際相手ができた。

熊次郎はそれを許さず、暴力と脅迫を繰り返す。

八月二十日未明、熊次郎に薪で繰り返し殴られ死亡。

【川原寅吉】

二十五歳。

秋江の新しい交際相手。

熊次郎から激しい嫉妬を向けられた。

事件直後、自宅へ熊次郎が押しかけるが隠れていたため難を逃れる。

その後も熊次郎から狙われ続け、警察によって遠方へ移された。

【川原実雄】

四十二歳。

熊次郎が、

「秋江へ寅吉の方がいいと吹き込んだ」

と考え、恨んだ人物。

事件当夜、熊次郎が自宅へ押しかける。

家族は避難。

熊次郎に放火される。

【石川修一】

四十九歳。

熊次郎が過去の女性問題で、

「自分を騙した」

と思い込み、恨んでいた男性。

午前三時ごろ、

「急用だ」

と言われて戸を開ける。

熊次郎にサーベルで襲撃され死亡。

【森下忠一】

熊次郎が過去の女性問題などをめぐり恨んでいた人物。

熊次郎は逃亡中も寅吉とともに殺害対象として狙い続けた。

【川下誠司巡査】

熊次郎の最初の逃走時、実兄宅付近で待ち伏せ。

熊次郎を追跡。

サーベルで頭部を斬られながら捕まえようとした。

組み合いとなり、熊次郎に手を噛まれて逃走を許した。

【山野明次郎巡査】

二十四歳。

事件発生から二十二日後の九月十一日、熊次郎を発見。

追跡したところ大型の鎌で頸部を斬られ死亡。

鬼熊事件三人目の死者。

【多田幾四郎】

地元有力者。

逃亡末期、熊次郎へ自首を説得。

新聞記者・坂本斉一と熊次郎の面会にも関係する。

事件後、熊次郎を助けた行為をめぐり裁判対象となった。

【山倉長次郎】

消防組の部長。

九月二十五日ごろ、疲れ切った熊次郎と接触。

自首を勧める。

熊次郎は、

「自首は嫌だ。自分で死ぬ」

という姿勢を示したとされる。

【坂本斉一】

東京日日新聞佐原通信部の記者。

九月二十七日、逃亡中の熊次郎本人と山中で面会。

熊次郎から逃亡、刑罰、復讐、死についての話を聞く。

熊次郎が書いた、

「ザンネン 岩淵熊次郎」

という文字も残す。

事件後、

「なぜ警察へ通報しなかったのか」

が問題となり、裁判へ発展した。

■事件発覚

鬼熊事件は、遺体が後から発見された事件ではない。

八月二十日未明。

上州屋。

怒鳴り声。

暴力。

秋江が襲われる。

周囲の人間が止めようとする。

「熊さん、やめろ!」

しかし止まらない。

秋江は死亡。

祖母も重傷。

その直後から熊次郎は次の標的へ動く。

放火。

消防組員負傷。

駐在所への侵入。

サーベル窃取。

修一殺害。

巡査襲撃。

つまり事件は、

「一人が殺された」

という通報の段階で終わらず、

犯人がそのまま村内を移動しながら犯罪を拡大していった。

夜が明けるころには、

殺人。

放火。

傷害。

警官襲撃。

という複数事件が同時に発生していた。

そして犯人は山へ消えた。

警察にとっては、

「犯人は誰か」

を調べる事件ではない。

犯人は分かっている。

岩淵熊次郎。

問題は、

「どこにいるのか」

だった。

・犯人の生い立ち

・事件の前兆

・当日の詳細

・逮捕 不明

・裁判 不明

・判決 不明

・まとめ