明治20年 花井お梅・浜町河岸殺人事件、明治の「毒婦」と呼ばれた女が、一夜で自分の人生を壊した日 花柳 美人芸妓 歌舞伎役者 四代目沢村源之助 明治一代女 梅雨衣酔月情話 大川端の段

明治20年、1887年6月9日。

東京・日本橋浜町。

■事件概要

明治二十年、一八八七年六月九日。

東京・日本橋浜町。

夜。

まだ東京の夜が、現在のように街灯や看板の光で白々と照らされる以前の時代である。

表通りから離れ、隅田川沿いの河岸へ入れば、闇は深かった。

その暗闇の中で、一人の男が刃物で刺された。

男は逃げた。

傷を負った身体で河岸を走った。

だが、傷は深かった。

血は止まらない。

足は次第に重くなる。

やがて男は力を失い、倒れた。

三十四歳。

五木四郎。

芸妓が座敷へ出る際、三味線箱などを持って付き従う「箱屋」と呼ばれる仕事をしていた男である。

そして、五木を刺したのは、一人の若い女だった。

花井お梅。

当時二十四歳前後。

美人芸妓として知られ、人気歌舞伎役者・四代目沢村源之助との恋愛でも名を知られ、自ら待合茶屋「酔月楼」を開いたばかりの女性だった。

つまり事件直前のお梅は、人生の底にいた女ではない。

むしろ逆だった。

旧士族の家に生まれながら、家の没落を経験し、十代で花柳界へ入り、芸妓として人気を得る。

有力な旦那を持つ。

歌舞伎役者と恋をする。

そして二十四歳ほどで、自分の店を持つ。

当時の若い女性としては、かなりの成功をつかみかけていた。

その人生が、六月九日の一夜で崩れた。

原因は一つではなかった。

父・花井専之助との対立。

自分が開いた「酔月楼」を、自分の思うように動かせない苛立ち。

店を追われるような形になった怒り。

五木四郎が父へ自分の悪口を吹き込んでいるのではないか、という疑念。

過去の恋愛。

酒。

自尊心。

花柳界特有の人間関係。

さらに事件当日、五木がお梅について、

「あんな者は、いてもいなくてもいい」

という趣旨の冷たい言葉を口にしたという話がお梅の耳へ入った。

それが最後の引き金になったと伝えられている。

夜。

お梅は浜町へ向かった。

車夫を使って五木を呼び出した。

二人は話す。

父とのこと。

店のこと。

過去のこと。

互いへの不満。

やがて二人は人目の少ない河岸へ移る。

そこで言葉が荒くなる。

そして刃物が出た。

出刃包丁だったとされる。

刃が五木の身体へ入る。

五木は逃げる。

お梅は残される。

大量の血。

刃物。

男が暗闇へよろめきながら走っていく。

しばらくして五木は倒れ、死亡する。

花井お梅は、巧妙な逃亡計画を実行した殺人犯ではなかった。

事件直後は激しく動転したとされる。

やがて父・専之助のもとへ向かう。

そして、父に伴われて警察へ出頭することになる。

数週間前まで、

「この店は私の店よ」

と父と争っていた娘。

その娘を、今度は父が警察へ連れていく。

この事件は、そこからさらに奇妙な運命をたどる。

新聞が事件を大々的に報道。

美人芸妓。

人気役者との恋。

箱屋殺し。

浜町河岸。

大川端。

出刃包丁。

父との確執。

それらが組み合わされ、現実の殺人事件は急速に「物語」へ変化していった。

花井お梅は、

「明治の毒婦」

と呼ばれるようになる。

だが、お梅は毒を使っていない。

殺したのは一人。

刃物による殺人だった。

それでも「毒婦」とされた。

美人であること。

芸妓であること。

恋愛経験があること。

男を刺し殺したこと。

そのすべてが、当時の新聞と芝居にとって格好の題材になったからである。

そして皮肉なことに、殺された五木四郎よりも、殺した花井お梅の方がはるかに有名になった。

事件の裁判には、千人を超える傍聴希望者が押しかけたとも伝えられる。

判決は無期徒刑。

お梅は二十四歳ほどで監獄へ入った。

およそ十五年。

四十歳になったころ、ようやく社会へ戻る。

しかしその時には、

「花井お梅」

という名前は、すでに本人の手を離れていた。

芝居。

新内節。

錦絵。

物語。

やがて『明治一代女』へ。

お梅はさらに、自分自身の殺人事件を舞台で演じる。

現実の殺人犯が、芝居の中で「花井お梅」を演じる。

現実。

新聞。

芝居。

三つの「お梅」が重なった。

だが、その伝説の始まりにあるのは、ただ一つ。

六月九日の夜。

浜町河岸で、一人の男が刺され、三十四歳で死亡したという事実だった。

■いつ・どこで起きたか

事件は、明治二十年六月九日の夜。

東京・日本橋浜町周辺で起きた。

浜町は、現在も日本橋地域の一角として知られるが、明治二十年当時の夜景は現在とはまるで違う。

電灯が街の隅々まで行き渡っているわけではない。

川沿いへ行けば暗い。

人力車の車輪の音。

下駄の音。

遠くの声。

川面の音。

そうしたものが夜の闇の中に響く。

お梅が自らの待合茶屋「酔月楼」を開いたのも、この浜町だった。

開業は五月十四日ごろとされる。

つまり殺人事件のわずか一か月ほど前である。

お梅にとって「酔月楼」は単なる商売の場所ではなかった。

自分の成功の証だった。

十代から芸妓として生きてきた。

他人の座敷に呼ばれる。

客を楽しませる。

旦那から援助を受ける。

そうした立場から一歩進み、

「自分が客を迎える側になる」

ための店だった。

ところが、その店をめぐって父と衝突する。

店に戻れなくなる。

自分の城として作った場所が、自分を拒む場所になる。

そのすぐ近くの河岸で、お梅は五木四郎を刺す。

場所そのものが、事件の心理と強く結びついていた。

自分の成功を象徴する店。

父との争い。

五木への疑念。

それらがすべて浜町に集まっていた。

■登場人物

【花井お梅】

本事件の犯人。

本名は花井ムメとも記録される。

生年は史料によって違いがあり、元治元年、一八六四年とするもの、公判時の年齢から文久三年、一八六三年ごろと考えるものがある。

下総国佐倉、現在の千葉県佐倉市付近に生まれた。

父は花井専之助。

旧佐倉藩関係の士族の家に生まれたとされる。

しかし明治維新後、武士の身分制度は崩壊。

旧士族の家庭の多くが経済的に苦しんだ。

お梅は十代で花柳界へ入った。

芸妓として「小秀」、後には「秀吉」と名乗ったとされる。

美貌。

勝ち気。

気っぷがいい。

話が面白い。

そうした評判を得た。

一方で、感情の起伏が激しい女性だったとも後世に記録される。

ただしこの「激情的な悪女」という人物像は、事件後の新聞、芝居、錦絵などによって強調された可能性があるため、そのまま事実とはできない。

若くして人気を得たお梅は、やがて有力な旦那の援助を得て、日本橋浜町に待合茶屋「酔月楼」を開く。

事件直前の彼女は、人生の上昇期にいた。

【花井専之助】

お梅の父。

佐倉藩関係の士族出身とされる。

娘が「酔月楼」を開いた後、営業鑑札などの事情もあり、店の経営へ深く関わるようになる。

しかし花柳界で自力で成功してきた娘と、旧武士の価値観を持つ父では、商売の考え方が合わなかった。

父娘の対立は激化。

専之助は店を自分で仕切ろうとし、一時休業を示す札まで出したという記録もある。

お梅は店を飛び出す。

皮肉なことに、その父娘喧嘩が事件の背景となり、殺人後には専之助自身が娘を警察へ伴うことになる。

【四代目沢村源之助】

人気歌舞伎役者。

お梅が深く惚れ込んだ相手として知られる。

お梅は金銭や品物を使って沢村を支えた。

二人の関係は長く安定して続いたわけではない。

しかし沢村との恋愛は、お梅の人生と後世の「毒婦伝説」を語る上で頻繁に使われる要素になった。

【五木四郎】

被害男性。

三十四歳。

芸妓の三味線箱などを持って同行する「箱屋」として働いていた。

もともと沢村源之助周辺に関係していた人物ともされ、のちにお梅の箱屋を務めた。

芸妓と箱屋は、仕事上長い時間を共にする。

そのため五木は、お梅の恋愛、性格、店の事情、父との関係など、かなり私的な事情まで知る人物となった。

お梅の「酔月楼」が開かれると、番頭格として店に関係。

父・専之助とも接点を持った。

そのためお梅は、

「五木が父を焚きつけている」

「父に私の悪口を言っている」

と疑うようになったとされる。

六月九日の夜、お梅に呼び出され、浜町河岸付近で対峙。

お梅の刃物によって刺され、その後死亡した。

【車夫】

事件当夜、お梅の依頼を受け、五木を呼び出したとする記録に登場する人物。

殺害そのものの当事者ではないが、事件直前、お梅が五木と会うために動いていたことを示す重要な存在である。

■事件発覚

六月九日夜。

暗い浜町河岸。

一人の男が傷を負って走っていた。

五木四郎。

身体から血が流れる。

服が濡れる。

息が乱れる。

数歩ごとに身体が重くなる。

「誰か……」

実際に助けを求めたかどうかは資料から分からない。

だが、刃物で深い傷を負った人間が、夜の河岸を逃げた。

そして倒れた。

五木は死亡する。

一方、お梅はその場に残る。

手には刃物。

返り血。

直前まで怒りで張り詰めていた精神が、一気に崩れたとする後世の記録がある。

「……私、何をしたの」

そう口にしたかどうかは分からない。

だが、お梅が事件後、周到に証拠を消し、遠方へ逃亡したわけではないことは重要である。

最終的には父・専之助のもとへ行く。

専之助も、何が起きたのか理解したはずである。

「お前……何をした」

「……刺した」

「誰を」

「五木を」

父娘が事件前、激しく争っていたことを考えると、あまりにも皮肉な場面だった。

自分の店をめぐって娘と争った父。

その争いの延長線上で娘が人を殺す。

そして父は、殺人を犯した娘を警察へ連れていく。

事件はすぐに新聞の知るところとなった。

そして「花井お梅」という名前が、犯罪者の名前として東京じゅうへ広がり始める。

・犯人の生い立ち

・事件の前兆

・当日の詳細

・逮捕

・裁判

・判決

・まとめ