大正14年 ピス健事件 太田愛次郎、ピストルと変装で全国の警察を翻弄した男
大正14年(1925年)。 東京、横浜、大阪、京都、神戸――。 複数の都市を渡り歩き、ピストルと短刀を手に強盗を重ねながら、警察へ手紙を送り、偽名と変装を使って逃亡を続けた男がいた。 その名は、太田愛次郎。 世間からは「ピス健」と呼ばれた。 「ピストルの健次」を縮めたこの異名は、新聞によって全国へ広まり、太田は大正犯罪史を代表する逃亡犯の一人となっていく。 太田は一つの名前だけで生きた男ではなかった。 森神健次、守神健次、大西性次郎、本田俊一、高山仁三郎――。 偽名を使い分け、服装を変え、中国人風の姿になり、最後には女装までして警察の目を欺いた。 しかし、その逃亡劇の裏では人が死んでいた。 1925年11月9日未明。 東京府南品川浅間台の小学校校長宅へ強盗に入った太田は、校長を助けようと飛びかかった教員・神田進吉をピストルで撃った。 神田は死亡。 その約30分後、品川駅付近。 太田を追跡した請願巡査・酒井万治に対し、太田は弾切れとなったピストルに代えて短刀を使用する。 酒井巡査も死亡した。 教員射殺から、わずか約30分。 今度は巡査刺殺。 それでも太田は捕まらなかった。 東京から神奈川へ逃れ、さらに関西へ移動。 11月14日には大阪府茨木町の飲食店「喜楽亭」へ侵入し、異変に気づいた女性従業員・畑野あきを銃撃。 畑野も死亡した。 一連の犯行で、少なくとも3人の命が奪われた。 一方、太田は逃亡中にも警察へ手紙を送り、「朝鮮や満州方面へ向かう」と思わせる情報を流した。 他人に遠隔地から手紙を投函させ、消印を利用して捜査を撹乱する。 実際に大陸へ渡った後には、中国人風の服装とサングラス、偽名を使って日本へ戻った。 京都でも強盗を繰り返し、最後に向かったのは神戸だった。 1925年12月12日未明。 神戸・北長狭通。 太田は女装姿で潜伏していた。 周囲には多数の警察官。 突入役として選ばれた刑事は12人。 太田は布団から起き上がるとピストルを向けた。 刑事の一人が外套を頭からかぶせて視界を奪い、その瞬間、12人が一斉に飛びかかった。 激しい格闘の末、「ピス健」はついに逮捕された。 しかし太田愛次郎の犯罪歴は、この事件から始まったものではない。 少年期から窃盗を繰り返し、「森神健次」の名で強盗を重ね、警察や新聞社へ挑戦的な手紙を送った過去があった。 一度は無期徒刑となりながら、恩赦によって出所。 その後は結婚し、子どもをもうけ、会社員として働いた。 犯罪から離れた生活を送る時期もあった。 ところが過去が妻に知られ、家庭が崩れると、太田は再び犯罪へ戻っていく。 そして最後には、教員、巡査、飲食店従業員という、自身の境遇とは直接関係のない三人の命を奪った。 1926年9月25日。 大阪地方裁判所は太田愛次郎に死刑を言い渡した。 太田は控訴せず、同年12月6日に死刑執行。 39歳だった。 ピストル、短刀、偽名、警察への挑戦状、大陸逃亡、中国人への変装、そして最後の女装。 あまりにも劇的な逃亡劇によって「ピス健」という名ばかりが残った。 しかし、その裏にあったのは三人の死と、残された家族の人生だった。 大正時代の日本中を騒がせた「ピス健事件」。太田愛次郎の生い立ちから過去の強盗歴、連続犯行、警察との追跡戦、変装と逃亡、逮捕、裁判、死刑執行までを詳しくたどる。