明治30年 お茶の水裸女殺人事件 顔と名前を奪おうとした男
明治30年(1897年)4月27日早朝。 東京・お茶の水付近を流れる神田川沿いの崖下で、一人の女性の遺体が発見された。 女性は衣服を身につけておらず、髪は切られ、顔面には刃物による多数の傷が残されていた。 犯人は、ただ女性を殺害しただけではなかった。 衣服を奪い、髪を切り、顔を傷つけることで、 「この女性が誰なのか分からなくする」 ことまで狙ったとみられた。 後に「お茶の水裸女殺人事件」と呼ばれる、明治犯罪史に残る異様な事件である。 当時はDNA鑑定も防犯カメラもなく、全国的な身元照会システムも存在しない。 顔が分からず、衣服も所持品もない女性。 警察が最初に解かなければならなかったのは、「犯人は誰なのか」ではなく、「この女性は誰なのか」という問題だった。 警察は東京の家々を一軒ずつ訪ね歩き、最近姿を消した女性や、激しい夫婦喧嘩があった家庭について聞き込みを続ける。 その地道な戸口調査から浮上したのが、牛込区若宮町で暮らしていた40歳の女性だった。 そして彼女と夫婦同然に暮らしていた男――松平紀義。 しかし「松平紀義」という名前すら本名ではなかった。 男は名門を思わせる松平姓を名乗り、三つ葉葵の紋を身につけながら、高利貸しなどで生活していた。 二人の間には、女性が蓄えた約300円をめぐる金銭問題と、激しい口論があった。 予審では、松平が事件のおよそ一か月前から殺害を考え、一度は実行しかけていたと認定された。 そして4月26日。 女性は自宅で死亡する。 その後、衣服を脱がされ、髪を切られ、顔を傷つけられ、深夜のお茶の水へ運ばれた。 松平は長く犯行を否認した。 一審では死刑を求刑されながら無期徒刑。 さらに控訴審では、起訴状に犯人の氏名が記載されていなかったことを理由に、起訴そのものが無効とされる異例の展開を迎える。 そして裁判のやり直しとなった宮城控訴院で、松平は突然犯行を認めた。 ただし、「計画的に殺したのではなく、夫婦喧嘩の末に死なせた」と主張する。 計画殺人だったのか。 それとも突発的な殺人だったのか。 最後まで完全には埋まらない謎を残した。 さらに事件から約20年後、出獄した松平本人が寄席の舞台に立ち、自らこの事件を観客へ語るという異様な後日談まで残されている。 明治東京を騒然とさせた「お茶の水裸女殺人事件」。 女性の身元を消そうとした証拠隠滅、足で犯人へ迫った明治警察の捜査、新聞による熱狂的報道、異例の裁判、そして犯人本人による事件の語りまで、その全貌を詳しくたどる。