千住の理髪店主バラバラ事件
「希望」という名の理髪店、その床下に隠された店主と、妻・石井アイ、21歳理容師K

昭和35年 1960年3月3日

東京 千住方面

■事件概要

昭和35年――1960年3月3日。

午後11時ごろ。

東京の夜は深くなっていた。

台東区から墨田公園方面へ抜ける言問橋付近の路上を、一人の若い男が歩いていた。

年齢は21歳。

理髪店「ホープ」で働く理容師、Kだった。

Kの手には、大きな風呂敷包みがあった。

夜更け。

人通りも少ない。

大きな包みを抱え、どこか落ち着かない様子で歩く若い男。

巡回中の警察官が目を留めた。

「ちょっと待ちなさい」

Kが止まる。

警察官は風呂敷包みを見る。

「その包みは何だ?」

Kは答えた。

「洋服生地です」

ただ衣類を運んでいる。

そういう説明だった。

もしKがそこで平静な顔をし、警察官の質問へ普通に答えていたなら、その夜に事件が発覚しなかった可能性もある。

ところがKは突然、風呂敷包みを路上へ置いた。

そして走り出した。

「待て!」

警察官が追う。

Kは逃げ切れなかった。

ほどなく取り押さえられる。

警察官は、路上に残された風呂敷包みを開いた。

中から出てきたのは、Kの言う「洋服生地」とは違っていた。

浴衣。

シャツ。

下着。

古い布。

そして、妙な臭い。

長く何かに触れていた布特有の、不快な臭いが残っていた。

警察官が問う。

「これは何だ」

Kは別の説明を始めた。

「犬です」

以前、店の勝手口から大きな茶色い犬が入ってきた。

その犬を殺した。

飼い主が現れたら面倒なので、古い布で包み、床下に入れておいた。

腐敗して臭うようになったため、犬は処分し、今夜その布も捨てようとしていた――。

おおむね、そのような話だった。

だが、警察が犬を埋めたという場所を掘っても死骸は出なかった。

「犬はどこだ」

「……場所を間違えたかもしれません」

「去年の春に殺した犬の布を、なぜ今になって捨てるんだ」

一つ質問する。

一つ答える。

さらに聞く。

答えが揺れる。

やがて風呂敷の中身は外科医にも見せられた。

布には毛髪のようなものが残っていた。

犬の毛ではない。

人間の毛髪ではないか。

さらに衣類には、古い血や腐敗物を思わせる痕跡が付いていた。

人間の遺体が腐敗したときの臭いを知る捜査員にも、犬の話は不自然に思えた。

ここから警察は、Kが働く理髪店「ホープ」を調べ始める。

すると、一つの奇妙な事実が浮かんだ。

店の主人が、一年近く姿を消していたのである。

主人の名は、本稿では水野銀次さんとする。

34歳。

妻は石井アイ。

夫婦には子どももいた。

銀次さんは前年の春ごろから、店にも家にも姿を見せていなかった。

近所では、

「主人は女と大阪へ駆け落ちしたらしい」

と信じられていた。

大阪から手紙まで来ていた。

妻のアイも、

「主人は大阪にいると思います」

と話していた。

だから周囲は、それを「夫の失踪」と考えた。

誰も、銀次さんが自分の理髪店の床下に埋められているとは思わなかった。

殺害されたのは、風呂敷包みが見つかった1960年3月ではない。

約11か月前。

昭和34年、1959年4月19日の夜。

銀次さんは、自分の妻・石井アイと、住み込み同然で働いていた若い理容師Kによって殺害された。

遺体は床下へ隠された。

妻と愛人は、その床の上で生活した。

店を営業した。

客の髪を切った。

子どもたちも暮らした。

夏になると床下から腐敗臭が上がった。

それでも遺体は置かれ続けた。

そして約十か月後。

暖かい季節が再び来る前に、Kは遺体を床下から出した。

そのままでは運べない。

そこで遺体は切断された。

複数回に分けて運び出され、荒川放水路周辺や墓地付近などへ処分されたとされる。

最後に残ったのが、遺体と長く接触していた衣類や布だった。

Kはそれを風呂敷に包んで捨てに行った。

そして警察官に呼び止められた。

約11か月隠されてきた殺人事件は、一人の警察官の職務質問と、処分し切れなかった古布によって表へ出た。

■いつ・どこで起きたか

殺害そのものが起きたのは、昭和34年、1959年4月19日の夜。

場所は東京の千住方面にあった理髪店「ホープ」。

店は営業の場であると同時に、家族の生活空間でもあった。

昼間は客が来る。

椅子へ座る。

髪を切る。

髭を剃る。

店員と世間話をする。

夜になれば家族が暮らす。

その同じ建物が、殺害現場となった。

そして殺害された店主は、店の外へすぐ運び出されたのではない。

六畳間の床下へ隠された。

事件が世間へ発覚したのは、それから約11か月後の1960年3月3日午後11時ごろ。

言問橋付近。

Kが風呂敷包みを持って歩いていたところを警察官に職務質問されたことが発端だった。

したがってこの事件には、二つの日付がある。

1959年4月19日。

殺人が起きた夜。

そして1960年3月3日。

秘密が崩れ始めた夜である。

この間、約11か月。

銀次さんは周囲から、

「女と大阪へ逃げた男」

だと思われていた。

しかし実際には大阪へ行っていなかった。

自分が開いた理髪店の床下にいた。

■登場人物

■石井アイ

本事件の中心人物の一人。

浅草で生まれ育った。

戦時中、女学校在学時に疎開を経験し、栃木県方面で学校生活を送った。

女学校卒業後は、小学校の代用教員として働いた。

若いころは明るく働き者だったとされる。

教師時代、既婚男性との交際があったと資料には記されている。

その関係は学校側にも知られ、問題となった。

その後、水野銀次さん――資料上の石井金蔵――と結婚。

夫婦で理髪店「ホープ」を開いた。

しかし結婚生活はしだいに崩れていった。

夫婦関係の悪化後、住み込みで働く若い理容師Kと関係を持つ。

最終的にはKに夫の殺害を働きかけ、殺害時にも夫の身体を押さえるなどして加担したとされる。

殺害後は、夫が別の女性と大阪へ駆け落ちしたという話を作り、本人が大阪から出したように見せかける手紙まで用意した。

裁判では検察から死刑を求刑されたが、東京地方裁判所の判決は無期懲役だった。

■K

事件当時21歳。

資料では実名が明らかにされておらず、「K」とされている。

岩手県の農村部に生まれた。

新制中学校卒業後、盛岡方面の理髪店で修業。

若くして理容技術を身につけ、18歳ごろ東京へ出た。

理容師資格を取得し、「ホープ」で働くようになった。

仕事の腕はよく、主人である銀次さんより理容技術が上だと言われることさえあったという。

同じ店と家で暮らす中で夫婦関係の悪化を目にし、妻・石井アイと関係を持つ。

資料では、Kにとって女性との肉体関係はアイが初めてだったとされる。

やがてアイへ強く依存するようになり、夫の殺害へ加わる。

殺害時、紐で銀次さんの首を絞めた。

殺害後は遺体を床下へ隠すことに加わり、約十か月後には遺体を取り出して切断し、複数回に分けて処分した。

1960年3月3日、証拠となる古着や布を風呂敷に入れて運んでいるところを警察官に職務質問され、逃走したことから事件発覚の端緒を作った。

裁判では検察から無期懲役を求刑され、判決は懲役20年。

■水野銀次さん

34歳。

資料上の実名は石井金蔵。

本事件の被害者。

学校卒業後、工場などで働いた。

後に石井アイと紹介で知り合い、結婚。

夫婦で理髪店「ホープ」を開いた。

結婚当初から憎しみ合っていたわけではなく、最初のころは夫婦仲も良かったとされる。

しかし妻の過去の交際や夫婦間の疑念などから関係が悪化。

銀次さんは酒を飲むことが増え、外泊することもあった。

別の女性との関係を疑わせる事情も資料では語られている。

とはいえ、それらは殺害されてよい理由にはならない。

1959年4月19日の夜、妻アイと従業員Kによって首を絞められ死亡。

遺体は自分の店の床下へ隠された。

後に遺体は切断され、複数の場所へ処分された。

さらに死後、「女と大阪へ駆け落ちし、妻子を捨てた男」という偽りの話まで作られた。

■銀次さんとアイの子どもたち

資料では姓名は確認できない。

事件当時、両親と同じ生活空間に子どもたちもいた。

父親が殺害された後も、父の遺体が床下に隠された建物で生活していたことになる。

子どもたちが殺害の事実を知っていたという資料はない。

したがって、本稿でもその点を推測して書かない。

■事件を発見した警察官

氏名は資料から確認できない。

1960年3月3日夜、風呂敷包みを持つKを不審に思い職務質問した。

この何気ない職務質問が、一年近く隠されていた殺人事件を暴く入口になった。

■事件発覚

事件発覚の瞬間は、劇的な捜査から始まったわけではない。

警察が最初から理髪店「ホープ」を疑っていたわけでもない。

誰かが、

「床下に死体があります」

と通報したわけでもない。

始まりは、一つの風呂敷包みだった。

1960年3月3日午後11時ごろ。

Kが歩いている。

警察官が声をかける。

「その包みは何だ?」

「洋服生地です」

ここでKが逃げた。

その行動が警察官の疑いを強くした。

包みを開ける。

古着。

浴衣。

下着。

布。

異臭。

そして、人毛らしいもの。

Kは、

「犬を殺したときの布です」

と説明した。

だが犬の死骸がない。

犬を埋めた場所も曖昧。

話に整合性がない。

そこから、

「この布は人間の遺体と関係しているのではないか」

という疑いが生じた。

さらにKの勤務先を調べると、主人が約一年姿を消している。

妻は、

「大阪へ行った」

と言う。

Kも同じように説明する。

二人の話は一致している。

しかし、あまりにも同じだった。

そして主人が消えた後、妻と若い従業員が親密になっていたという周辺情報まで入る。

点がつながった。

警察はKを追及する。

やがてKは、

「殺しました」

と認める。

さらに、

「アイさんと二人でやりました」

と供述した。

こうして、前年から失踪扱いだった理髪店主が、実際には殺害されていたことが表へ出た。

・犯人の生い立ち

・事件の前兆

・当日の詳細

・逮捕

・裁判

・判決

・まとめ