見世物小屋の看板に描かれた「赤づら検事」
放蕩の弟を絞殺した姉と、中野並助の懲役七年求刑

大阪

■事件概要

大阪のある縁日。

後に検事総長となる中野並助は、仕事を離れ、一人の見物客として場末の縁日を歩いていた。

境内には露店が並び、呼び込みの声が飛び交っていた。

「さあ、寄ってらっしゃい」

「見てらっしゃい」

いくつもの小屋が並ぶ中で、中野は一軒の見世物小屋の前で足を止めた。

大きな看板が掲げられていた。

描かれているのは裁判の場面だった。

中央には、いかにも物分かりがよく、穏やかそうな裁判長。

その前には女の被告人。

そして裁判長の近くには、見るからに憎々しげな検事。

その顔は真っ赤に描かれている。

看板には「弟殺し」という趣旨の文字があった。

中野は目を凝らした。

「……これは」

見覚えがある。

いや、見覚えがあるどころではない。

そこに描かれている検事は、自分だった。

「俺じゃないか……」

検事として法廷に立ち、殺人事件の被告人に懲役七年を求刑した中野並助が、いつの間にか庶民の娯楽の中で「かわいそうな女を責め立てる悪役」になっていたのである。

中野が後年まで忘れることのできなかった、その奇妙な看板。

その裏側には、一件の姉弟殺人事件があった。

犯人は既婚の女性。

被害者は、その実弟だった。

弟は生活を持ち崩していた。

定職について堅実に暮らすのではなく、放蕩を重ね、金に困るたび姉のもとへ現れた。

資料には、親の位牌まで売り払ったとされるほど荒れた生活ぶりが記されている。

姉はすでに結婚していた。

自分の家庭があった。

しかし弟は金に困ればやってくる。

「姉さん、少し金を貸してくれ」

「またなの?」

「頼む。今度こそ最後だから」

姉は渡す。

弟は使う。

また困る。

また来る。

その繰り返しだった。

事件前日。

弟はまた姉のもとへ現れた。

姉は二十円ほどを渡した。

弟はその金を持ち、大阪・松島付近へ遊びに行った。

ほとんどを使い果たした。

そして翌日。

弟はまた姉の家に姿を現した。

前日に二十円を受け取ったばかりである。

弟はすぐに「金をくれ」とは言わなかった。

黙って座った。

帰ろうとしない。

目をつぶる。

足をぶらぶらさせる。

何か言いたそうにしている。

姉には分かった。

また金だ。

昨日渡したばかりなのに、もう次を求めている。

「……またなの?」

弟は黙っていた。

それまで積み重なっていたものが、姉の中で一気に噴き出した。

金。

放蕩。

繰り返される頼み事。

親の位牌まで売った弟。

昨日の二十円。

そして今日。

姉は考えた。

「いっそのこと、この弟を殺してしまおう」

弟は丈夫な男だった。

正面から争えば勝てない。

そこで姉は手拭いを用意した。

弟が油断しているところを、背後から襲う。

姉は弟の後ろへ回った。

弟は実の姉に殺されるとは思っていない。

次の瞬間。

手拭いが弟の首へかかった。

姉は両端を引いた。

弟の身体が跳ねた。

「姉さん……!」

弟は手拭いを外そうとした。

身体をよじった。

立ち上がろうとした。

だが姉は離さなかった。

弟を倒し、その上に馬乗りになった。

「やめろ……!」

姉はさらに締めた。

弟の抵抗は次第に弱くなった。

腕の動きが止まった。

脚が動かなくなった。

呼吸が途絶えた。

それでも姉は手を緩めなかった。

弟が生き返るかもしれない。

そう考えたのか、首に巻いた手拭いをさらに固く結んだ。

弟は死亡した。

姉はその場から姿を消した。

警察は事件を把握すると、姉を犯人とみて捜索を始めた。

「どこへ行った」

「自殺したんじゃないか」

そんな声も出た。

ところが姉は後に警察へ姿を現した。

「弟を殺したのは私です」

犯行を認めた。

事件の事実関係には、大きな争いはなかった。

問題となったのは、この女性をどの程度処罰するべきかという点だった。

検察内部でも意見は分かれた。

「十年」

「いや、五年程度ではないか」

中野並助は考えた。

十年では重い。

五年では軽い。

そして出した答えは、

懲役七年。

しかし裁判所は大きく異なる判断をした。

懲役二年。

執行猶予三年。

中野は「軽すぎる」と感じ、控訴を考えた。

だが上司は言った。

「これも一つの見方だ」

控訴はされず、判決は確定した。

その後、世間は司法とは別の形で、この事件に「判決」を下した。

弟に苦しめられた、かわいそうな姉。

その事情を理解した温情ある裁判長。

そして、姉に七年の懲役を求めた冷酷な検事。

その物語が見世物小屋の看板になった。

赤い顔をした悪役の検事。

モデルは中野並助本人だった。

■いつ・どこで起きたか

この事件について、資料では正確な事件年月日が明示されていない。

中野並助が後年、自らの検察人生を振り返る中で記した一件であり、見世物小屋の看板を見た場所についても、大阪のどこだったのか正確には覚えていなかったとされる。

したがって、本稿では資料にない日付や町名を補わない。

確認できる大きな舞台は大阪である。

事件前日、弟は姉から二十円ほどを受け取った。

その金を持って出掛けたのが、大阪・松島付近だった。

当時の松島は遊興地として知られ、多くの人が行き交う地域だった。

弟はそこで遊び、姉から受け取った金の大半を使ってしまった。

重要なのは、その時間的な近さである。

前日。

姉から二十円をもらう。

松島で遊ぶ。

金を使う。

翌日。

また姉宅へ戻る。

一週間後でも、一か月後でもない。

翌日である。

姉にとっては、昨日渡した金がもうなくなり、その翌日には再び自分の家へ来ているという事実が、長年の不満を一気に噴き出させる決定的な出来事になったと考えられる。

ただし、事件の正確な日付、姉の家の所在地、警察署名などについては、今回の資料から確認できない。

そのため、それらを推測で補うことはしない。

■登場人物

【姉(氏名不詳)】

本事件の犯人。

資料には実名が記されていない。

事件当時、すでに結婚して自分の家庭を持っていた女性である。

実弟が生活を持ち崩し、金に困るたび姉のもとを訪れていた。

姉は何度も金を融通していた。

事件前日にも二十円ほどを渡している。

ところが弟はその金を松島付近で遊興に使い、翌日には再び姉宅へ現れた。

長年の負担と失望が限界に達した姉は弟の殺害を決意。

弟が自分より力の強い男であることから、正面から争わず、手拭いを使って背後から襲う方法を選んだ。

弟を引き倒して馬乗りになり、首を締め続けた。

弟が動かなくなった後も、蘇生しないように手拭いを固く結んだとされる。

犯行後、一度その場から姿を消した。

その後、警察へ出頭して犯行を認めた。

【弟(氏名不詳)】

被害者。

姉の実弟。

資料では、生活を大きく持ち崩した人物として描かれている。

定職について堅実な生活を送るのではなく、放蕩を繰り返し、金がなくなると姉へ頼った。

特に強烈なのが、

「親の位牌まで売り払った」

という記述である。

位牌は家族や先祖を象徴するものでもある。

それすら金に換えたとされる弟の生活ぶりが、姉に大きな絶望を与えていたことは想像に難くない。

事件前日にも姉から二十円を受け取った。

その金を大阪・松島付近で遊興に使った。

翌日には再び姉の家へ行った。

直接「金をくれ」と口にしたかどうかは明確ではない。

しかし黙って居座り、帰ろうとせず、姉には「また金を求めている」と受け止められた。

実姉が自分を殺そうとしているとは考えず、油断していたところを背後から襲われ、手拭いで首を絞められて死亡した。

【中野並助】

検事。

後に検事総長となる人物。

1883年生まれ。

東京帝国大学法科を卒業後、検察官として各地で勤務し、広島・大阪の検事長などを経て、1944年に検事総長へ就任した。

本事件では、弟の行状の悪さと姉が長期間苦しめられてきた事情を理解しながらも、殺害方法の計画性や犯行後の行動を重く見た。

検察内部で求刑について意見が割れる中、

「十年では重い」

「五年では軽い」

と考え、懲役七年を求刑した。

裁判所が懲役二年・執行猶予三年としたことに対しては、軽すぎると感じた。

しかし上司が控訴を認めず、判決は確定した。

後年、大阪の縁日で偶然見世物小屋の看板を見つけ、自分が赤い顔をした冷酷な検事として描かれていることに気づいた。

【裁判長(氏名不詳)】

本件を審理した裁判長。

資料では氏名が確認できない。

姉が長年、放蕩する弟から金銭的・精神的な負担を受けていた事情を重く酌量したと考えられる。

中野並助の懲役七年求刑に対し、懲役二年・執行猶予三年という軽い判決を言い渡した。

後に見世物小屋では、被告の姉に理解を示す温情ある人物として描かれた。

【弁護人(氏名不詳)】

姉の弁護を担当。

姉が弟に長期間苦しめられていたこと、弟の行状が悪かったことなどを強調し、刑の執行猶予を求めた。

結果的に裁判所は、その主張に近い形の判決を出した。

【中野の上司(氏名不詳)】

中野が判決を軽すぎると考え、控訴を検討した際に判断を示した人物。

中野に対して、

「これも一つの見方だ」

という趣旨の言葉を述べ、検察側からの控訴を認めなかった。

これにより判決は確定した。

【見世物小屋の興行側】

氏名不詳。

事件を庶民向けの分かりやすい物語へ脚色した。

姉を「かわいそうな女」。

裁判長を「温情ある人物」。

中野並助を「血も涙もない検事」。

そのような構図に作り替え、看板に描いた。

中野本人が、その看板を偶然目にすることになる。

■事件発覚

弟は姉の家で死亡した。

首には手拭い。

その場に姉はいない。

警察は現場の状況と姉弟の関係から、姉を犯人と判断した。

ところが姉の姿が消えていた。

「どこへ行った?」

「自殺したんじゃないか」

犯行後の絶望から自ら命を絶った可能性まで考えられたという。

しかし姉は生きていた。

しばらく後、警察へ姿を現した。

「弟を殺したのは私です」

「あなたがやったのか」

「はい」

「手拭いで首を?」

「はい」

姉は犯行を認め、取調べにも応じた。

殺害そのものについて、大きな否認はなかった。

事件の争点は、

「姉が弟を殺したか」

ではなく、

「なぜ殺したのか」

「どの程度の刑を科すべきなのか」

へ移っていくことになる。

■犯人の生い立ち

犯人である姉の幼少期、出生地、学校生活、両親との関係、結婚までの経歴などについて、今回の資料には詳しい記録がない。

そのため、具体的な生い立ちを創作することはできない。

分かっているのは、事件当時にはすでに結婚し、自分の家庭を持っていたということだ。

つまり彼女は弟とは別の人生を歩んでいた。

夫婦の暮らし。

家庭の家計。

毎日の生活。

本来なら、その生活を守るだけでも十分だったはずである。

ところが、そこへ弟が繰り返し入ってくる。

戸口に立つ弟。

「姉さん」

「どうしたの」

「少し金を貸してくれ」

「また?」

「困っているんだ」

姉は断れない。

他人なら、

「もう貸さない」

で終わる。

しかし相手は弟だ。

血のつながった家族。

放っておけば、今度こそ本当にどうにかなってしまうかもしれない。

助けなければ、自分が冷たい人間のように思えてしまう。

だから渡す。

だが、弟は立ち直らない。

「これで最後にして」

「分かった」

その約束が守られたのかどうか。

資料を見る限り、弟は繰り返し姉を頼っている。

姉の苦しみは、一度に始まったものではなかった。

小さな不満が積み重なった。

最初は数円。

次も数円。

そのたびに、

「今度こそ」

と期待する。

だが変わらない。

しかも弟は、親の位牌まで売ったとされる。

姉にとって、それは単なる金銭問題ではなかった可能性がある。

家族として大切にしてきたもの。

親への思い。

家そのものの記憶。

それすら弟にとっては金に換えられるものだった。

「どうして、そこまで……」

姉がそう感じたとしても不思議ではない。

それでも姉は弟を完全に突き放せなかった。

姉だから。

家族だから。

この関係は、姉の中で少しずつ形を変えていった。

最初は心配。

次に苛立ち。

その次に失望。

そして最後には、

「もう何をしても変わらない」

という絶望へ近づいていったのかもしれない。

ただし、どれほど弟に苦しめられたとしても、殺害が許されるわけではない。

そこが、この事件の最も難しいところである。

姉は被害を受けていた側面を持ちながら、最後には自ら加害者となった。

弟は家族を苦しめた人物として描かれながら、殺害された瞬間には明確な被害者である。

一つの立場だけから見ると、事件の姿が変わってしまう。

・事件の前兆

・当日の詳細

・逮捕

・裁判

・判決

・まとめ