昭和28年 気仙沼町・青龍寺墓地少女殺人事件
17歳少女の失踪、納骨室への遺体遺棄、宮城県初期のポリグラフ捜査

昭和28年、1953年3月
宮城県本吉郡気仙沼町 宮城県気仙沼市

■ 事件概要

昭和28年、1953年3月。

宮城県本吉郡気仙沼町で、17歳の少女が夜、自宅を出たまま姿を消した。

梅野春香である。

春香は3月10日の午後8時ごろ、自宅近くで妹と顔を合わせ、「大森先生のあたりまで行って来るから、火に気をつけろ」という趣旨の言葉を残し、そのまま夜の町へ出ていった。

それが、家族が確認した彼女の最後の姿となった。

春香は帰宅しなかった。

翌11日、父親が気仙沼地区警察署へ捜索を願い出た。

警察と家族、関係者は行方を追ったが、少女の姿はどこにもなかった。

失踪から4日後の3月14日午前11時ごろ。

捜索の目は、自宅からわずか約300メートルほどしか離れていない寺院墓地へ向けられた。

その墓地の一角に、コンクリート製の重い蓋で閉じられた納骨室があった。

蓋の重さは、犯罪史によれば約28キロ。

捜索員がその蓋を動かし、中を確認した。

暗い納骨室の内部に、少女が横たわっていた。

春香だった。

司法解剖の結果、死因は絞殺。

さらに左側頭部には二か所ほどの損傷が認められたが、それらは生前の傷ではなく、死亡後に加えられたものと判断された。

犯人は少女を殺した。

遺体を隠した。

それだけでは終わらなかった。

犯人は数日後、再び墓地へ戻り、遺体が本当に死亡しているかを確かめるため、頭部付近に刃物で傷を加えたとされる。

捜査線上には二人の男が浮上した。

菅原英幸、20歳。

内海犬之助、28歳。

警察は最初、内海を強く疑って逮捕した。

しかし決定的な物証は出なかった。

一方の菅原には、事件当日に何度も被害者宅を訪れた事実、少女と前後して歩いているところを見たという目撃証言、説明のつかない空白時間があった。

警察は別件で菅原を逮捕。

さらに当時、宮城県警では初めての試みとされたポリグラフ検査を実施した。

その後、菅原は犯行を供述した。

供述によれば、春香から妊娠したことを告げられ、将来の養育費や世間体を恐れたことが殺害の動機だった。

菅原は腰紐で春香を絞殺。

遺体を墓地の納骨室へ運び、重い蓋を閉じて隠した。

さらに三日ほど後、占い師が「少女は洞窟のような場所で苦しんでいる」と語ったという噂を聞き、春香がまだ生きているのではないかと恐れ、刃物を手に墓地へ戻った。

そして納骨室を開け、マッチの火で内部を照らし、遺体の頭部に傷を加えたという。

菅原英幸は殺人、死体遺棄などで起訴され、昭和29年2月18日、仙台地方裁判所石巻支部で懲役15年の判決を受けた。

この事件は、一人の17歳少女が殺害された事件であると同時に、物証の乏しい時代の捜査、別件逮捕、目撃証言、供述、そして当時としては新しい科学捜査であったポリグラフが交差した事件でもあった。

■ いつ・どこで起きたか

事件が起きたのは、1953年3月10日の夜。

場所は宮城県本吉郡気仙沼町だった。

現在の地名でいえば宮城県気仙沼市にあたるが、事件当時はまだ「気仙沼市」ではない。

気仙沼市が誕生したのは同年6月1日。

気仙沼町、鹿折町、松岩村が合併し、市制が施行された。

つまりこの事件は、町が市へ変わる約三か月前に発生したことになる。

事件現場は、当時の気仙沼小学校北側一帯に位置する寺院墓地。

資料の記述と現在の地理関係から、青龍寺墓地とみられる。

現在も青龍寺は気仙沼市八日町にあり、気仙沼小学校に近い。

事件当時も、学校、住宅、寺、墓地などが近接する生活圏だった。

だからこそ、この事件には奇妙な恐ろしさがある。

少女は遠くへ連れ去られたのではなかった。

家から何十キロも離れた山林に捨てられたのでもない。

遺体が隠されていたのは、自宅から約300メートル。

家族が日々歩いていた町のすぐそばだった。

家族は少女を探していた。

警察も探していた。

町の人間も失踪を知っていた。

そのすぐ近くで、春香は重いコンクリートの蓋の下に隠されていた。

■ 登場人物

【梅野春香・17歳 ※被害者】

本事件の被害者。

3月10日夜、自宅を出たあと行方不明となり、4日後、墓地の納骨室から遺体で発見された。

犯罪史には、幼少時に脳膜炎を患ったこと、16歳で女児を出産したこと、複数の男性との交際関係などが記録されている。

ただし原史料には、当時の価値観を反映した「不純」「異常」といった被害女性への評価的な表現が含まれる。

本稿ではそれを被害者の人格評価としては採用しない。

重要なのは、そうした交友関係が「誰が彼女と接触していたのか」を調べる捜査上の手掛かりになったという点である。

殺されたのは春香であり、どのような交際歴があったとしても、それが殺害を正当化する理由にはならない。

【菅原英幸・20歳】

梅野家に人夫として出入りしていた青年。

犯罪史によれば、昭和26年11月ごろから家に働きに来ており、その過程で春香と知り合った。

昭和28年初めごろには性的関係を持つようになったとされる。

事件当日にも被害者宅を複数回訪問。

さらに午後8時ごろ、春香と菅原が前後して歩いている姿を少年が目撃していた。

当初は「八日町の花の湯へ行っていた」とアリバイを主張。

しかし後に別件で逮捕され、ポリグラフ検査と取り調べを経て犯行を供述した。

殺害、遺体遺棄、さらに数日後に遺体へ死後損傷を加えた行為について供述。

最終的に起訴され、懲役15年判決。

【内海犬之助・28歳】

梅野家へ以前から仕事で出入りしていた男性。

事件当日の午後8時ごろにも家を訪れていたとされる。

さらに事件直後、周囲に対し、

「今晩、誰か女を殺して食べようとしたら見つかられて帰って来た。びっくりした」

という趣旨の極めて不可解な発言をしたと犯罪史に記録されている。

「女を食べる」という言い回しは当時の俗語的意味を含む可能性があり、文字通りの食人を意味するとは考えにくい。

それでも殺人事件直後の発言としては異様であり、警察は内海を有力容疑者とみた。

3月25日、内海は逮捕された。

家宅捜索も行われた。

しかし凶器、血痕、被害者の所持品など、事件と内海を直接結びつける決定的な物証は見つからなかった。

供述の変化やアリバイへの疑問はあったものの、最終的に犯人と断定する証拠は得られなかった。

【梅野家の父】

3月11日、娘が戻らないことから警察へ捜索を願い出た。

親族の一人が岩手県の占い師へ相談。

その占い師が「洞窟のようなところで苦しんでいる」という趣旨のことを告げたという。

科学的根拠のない話だったが、この言葉が結果的に「穴」「くぼみ」「納骨施設」といった場所への着目につながり、墓地捜索の契機になったと犯罪史は記録している。

【気仙沼地区警察署・県警捜査陣】

被害者宅へ出入りしていた二十数人の関係者を一人ずつ調べ、アリバイ、被害者との関係、事件当日の行動、現場との接点を確認した。

物証が乏しいなか、複数の目撃証言や供述の矛盾を積み上げた。

さらに国家地方警察の捜査研究所から係員を招き、内海と菅原にポリグラフ検査を実施。

警察史はこれを宮城県における「初めての試み」としている。

■ 事件発覚

3月10日の夜、春香は帰らなかった。

翌11日、父親が警察へ捜索を願い出た。

しかし三日間、手掛かりはほとんど得られなかった。

失踪から4日目の3月14日午前11時ごろ。

捜索隊は自宅から約300メートル離れた墓地を調べた。

きっかけの一つは、親族が相談した占い師の「洞窟のようなところで苦しんでいる」という言葉だった。

墓地には、まさに洞窟や穴を思わせる納骨室があった。

捜索員が約28キロのコンクリート蓋を動かす。

内部に少女の遺体があった。

春香だった。

司法解剖で死因は絞殺。

さらに頭部の傷は死後に加えられたものと分かった。

単なる失踪は、この瞬間から殺人・死体遺棄事件へ変わった。

■ 犯人の生い立ち

菅原英幸は、事件当時20歳だった。

ただし、ここで最初に明確にしておかなければならないことがある。

犯罪事件記録は、菅原の犯行前後の行動については比較的詳しく記しているものの、出生地、両親、兄弟姉妹、家庭の経済状態、幼少期の性格、小中学校時代、学歴など、一般に「生い立ち」と呼ばれる情報を体系的には残していない。

今回、菅原英幸の氏名、気仙沼、少女殺人事件、昭和28年など複数の組み合わせで公開情報を検索したが、この事件記録を大きく超えて本人の幼少期や家庭環境を確認できる信頼性の高い公開資料は見つからなかった。

したがって、ここで貧困家庭だった、家庭内に問題があった、少年時代から粗暴だった、といった物語を作ることはできない。

確認できるのは、事件に近い時期の菅原の姿である。

犯罪史によれば、菅原は昭和26年、1951年11月ごろから、被害者の家へ人夫として働きに来るようになった。

土木請負業を営む家へ出入りする若い労働者だった。

事件は1953年3月だから、少なくとも一年数か月前から家との接点があったことになる。

単に町ですれ違うだけの青年ではない。

家の人間に顔を知られ、仕事で敷地や周囲に出入りし、被害少女とも日常の延長で接触できる立場にあった。

この「家へ出入りできる若者」という立場が、のちの捜査では重要になった。

犯罪史はさらに、事件前年、菅原が別の少女を山へ連れ込み暴行しようとして未遂に終わった前歴を警察側が把握していた、と記している。

これは事件後に警察が菅原を疑う理由の一つになった。

ただし、この前歴だけから今回の殺人を予見できた、と後知恵で断定することも避けるべきである。

過去の犯罪歴や問題行動は捜査上の材料にはなるが、それだけで別の犯罪の犯人と決めることはできない。

事件当時の菅原は20歳。

梅野家に働きに来る中で、17歳の春香と知り合った。

犯罪史によれば、1953年の初めごろには二人は性的関係を持つようになっていたとされる。

仕事先の娘と、そこへ働きに来る青年。

日常の接点が、秘密の関係へ変わっていった。

この関係がどちらから始まったのか、どの程度継続していたのか、二人が互いをどのように考えていたのかについて、史料は十分には語らない。

だから、恋愛だった、遊びだった、強制的だった、と単純な言葉で決めることもできない。

分かっているのは、事件直前まで二人に個人的な関係があり、春香が菅原と会って話をできるほどの間柄だったことである。

そして警察が後に組み立てた事件像では、この関係から生じた妊娠と養育費の問題が殺害の直接的な動機になった。

菅原の生い立ちを語る資料が乏しいからこそ、必要以上に「犯罪者になる少年時代」を作ってはいけない。

この事件で確実に見ることができるのは、20歳になった菅原が、すでに一度女性に対する暴行未遂の前歴を持ち、労働者として被害者宅に出入りし、その家の17歳少女と関係を持ち、やがて妊娠をめぐる問題に直面した、というところまでである。

人がなぜ殺人に至るのかを、幼少期の一つの原因に還元することはできない。

少なくともこの事件記録が示すのは、菅原が事件当夜、責任を引き受けるのではなく、相手を殺して問題を消すという判断をしたことである。

その選択こそが、この事件において最も重い事実である。

・事件の前兆

・当日の詳細

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・判決

・まとめ