昭和25年 仙台駅前魚屋一家強盗殺人事件
18歳と15歳、少年院で知り合った二人が、復興途上の駅前で起こした惨劇
昭和25年 1950年4月26日 午前二時ごろ
仙台駅前 魚屋
■プロローグ 午前二時、仙台駅前
昭和25年、1950年4月26日。
時刻は午前二時ごろ。
まだ夜が明けるには早い。
仙台駅前の一角にある魚屋では、主人と妻、そして住み込みあるいは店で働いていた若い店員が眠っていた。
終戦から五年。
仙台は戦災からの復興の途中にあった。
仙台空襲で焼けた駅舎に代わり、第四代仙台駅の建設が進められていた。1949年7月には中間竣工し、大時計を掲げた木造二階建ての駅舎が市民の前に姿を現している。正式な完成は事件から三週間ほど後の1950年5月18日だった。
駅前では区画整理が進み、青葉通りが形を整え、市電が走り、人力車や輪タクが客を待っていた。
一方、焼け跡の記憶はまだ生々しかった。
復員者。
失業者。
戦災で家を失った者。
地方から仕事を求めて入ってくる若者。
露店や小商いで日銭を稼ぐ人々。
戦後の混乱は終わりつつあったが、犯罪が消えたわけではない。
その午前二時。
魚屋に二人の少年が侵入した。
一人は18歳。
安斎金蔵。
もう一人は15歳の少年A。
二人の手には、刃物と斧に類する凶器があった。
眠っている一家に向けて、それが振り下ろされた。
■第一章 事件の概要
この事件は、昭和25年4月26日未明、仙台駅前の魚屋で発生した強盗殺傷事件である。
公開資料を総合すると、被害は次のとおりだった。
魚屋の主人――42歳前後。頭部などを攻撃され、一時は意識不明となる重傷。
主人の妻――36歳前後。襲撃によって死亡。
店員――20歳前後。重傷を負い、後の資料では約50日間の入院を要したとされる。
犯人は18歳の安斎金蔵と、少年院で知り合った15歳の少年A。
二人は金品強奪を目的として店に侵入し、就寝中の三人をナタ、マサカリなどで次々と襲撃した。
妻が死亡したため、事件の実質は「強盗殺人」となる。
一方で主人と店員は生き残っており、この二人への行為については強盗殺人未遂に相当する部分を含む。そのため、資料整理上「仙台駅前強盗殺人未遂事件」などと呼ばれる場合があるものの、事件全体を見れば一人が死亡している強盗殺人事件である。
■第二章 登場人物
【安斎金蔵】
犯行当時18歳3か月前後。
主犯格とされた。
少年院生活を経験しており、そこで共犯となる少年Aと知り合った。
事件後に仙台を離れ、東京方面へ逃走。
4月29日、東京・浅草方面で逮捕された。
一審では無期懲役となったが、仙台高等裁判所で死刑に変更され、最高裁判所で確定。
昭和30年、1955年1月29日に宮城刑務所で死刑が執行されたとされる。
【少年A】
犯行時15歳。
安斎と少年院で知り合った。
事件直後に身柄を確保され、当初は別人との共犯を装う供述をしたが、後に安斎との犯行を認めた。
犯行時に18歳未満だったため、当時の少年法第51条により死刑を科すことはできなかった。
最終的に懲役15年が確定した。
【魚屋の主人】
42歳前後。
仙台駅前で魚屋を営んでいた。
就寝中に襲撃され、重傷。
一時は意識不明と報じられた。
【主人の妻】
36歳前後。
夫とともに就寝していたところを襲われ、死亡。
本件で唯一死亡した被害者。
【店員】
20歳前後。
店にいた若い従業員。
同じく襲撃され、長期入院を要する重傷を負った。
【仙台市警察の捜査員】
事件当時は現在の宮城県警察と同じ制度ではなく、旧警察法の時代だった。
仙台市には自治体警察があり、「仙台市警察」が事件捜査に当たった。
■第三章 18歳と15歳は、なぜ一緒にいたのか
安斎金蔵と少年Aは、普通の友人関係から出会ったのではない。
二人を結びつけた場所は少年院だった。
戦後の少年犯罪に関する資料では、二人は少年院で知り合い、退院・釈放後に再び行動を共にするようになったとされる。
年長は安斎。
年下は少年A。
差はわずか三歳ほどだが、18歳と15歳では、当時の法律上、極刑の可能性が大きく違った。
昭和23年法律第168号として成立した新しい少年法は、昭和24年1月1日に施行されている。
その第51条は、
犯行時18歳未満の少年について、死刑相当の犯罪であっても無期刑とする
という規定を置いていた。
つまり15歳のAには、死刑を言い渡すことは法律上できない。
一方、18歳になっていた安斎には死刑判決が可能だった。
この法律上の境界を、安斎がどこまで正確に理解していたのかはわからない。
ただし、当時の新聞記事を出典とする事件研究では、安斎は少年Aに対し、
「少年なら大人ほど重い処分にはならない」
という趣旨の話をして犯罪へ誘ったとされる。
再構成すれば、二人の間には次のような会話が交わされたことになる。
「金が欲しい」
「どうする」
「盗るしかない」
「捕まったらどうなる」
「俺たちはまだ若い。大したことにはならない」
この認識は、後に安斎自身を死刑台へ向かわせる重大な誤算となる。
■第四章 安斎金蔵の生い立ち
安斎の幼少期については、今回の事件史そのものには詳しい記述がない。
一方、少年死刑事件を整理した後年の資料では、安斎は幼いころに養子に出され、養母の死後、家庭の中で安定した養育を受けにくい環境に置かれたとする記録が紹介されている。
学校教育も十分に受けられず、農作業を嫌って家出し、非行を繰り返して少年院へ送られたとされる。
ただし、この生育歴を犯罪の「原因」と単純に結びつけることはできない。
同じように貧しく、家庭環境に恵まれず、それでも犯罪を選ばなかった少年は無数にいた。
環境は背景ではある。
だが、凶器を持つこと。
人の家に侵入すること。
眠っている人へ刃物や斧を振るうこと。
金を奪うこと。
そして逃げること。
それぞれの場面で、行動を選んだのは本人たちだった。
■第五章 魚屋はなぜ狙われたのか
なぜ駅前の魚屋だったのか。
今回確認できた資料だけでは、犯人がこの店を選んだ具体的な下見の方法までは確定できない。
しかし、戦後間もない商店には現在とは違う特徴があった。
売上金を店や自宅に置く。
店舗と居住部分が一体になっている。
経営者と家族が店の奥で眠る。
早朝から商売を始めるため、夜明け前でも店内に人がいる。
魚屋であれば仕入れや現金商売が多く、犯人から見て「金がある」と考えやすかった可能性もある。
二人は店に侵入する際、偶然鉢合わせした人を衝動的に殴ったのではない。
眠っている人間を襲った。
凶器も持っていた。
この点から、少なくとも暴力を使って金を奪う意思は侵入前から存在していたとみられる。
■第六章 昭和25年4月26日、午前二時
■第十三章 「少年なら軽い」という誤解
■第十九章 少年Aに死刑がなかった理由
■第三十章 被害者は名前さえ残りにくい
