新和村猟銃七人殺人事件
雪の夜、味噌桶の陰の猟銃から始まった一家八人死亡事件
昭和28年 1953年12月12日
青森県中津軽郡新和村小友 現在の青森県弘前市
■「事件概要」
昭和28年 1953年12月12日未明。
青森県中津軽郡新和村小友。現在の弘前市域にあたる雪国の農村で、戦後青森県の犯罪史の中でも特異な大量殺人事件が起きた。
犯人は、水木家の三男、水木鉄雄。24歳。農家に生まれ、桶職人として働きながら暮らしていた青年だった。
鉄雄は実家の父・水木福三郎や長兄・水木権十郎との確執から家を出され、事件当時はまともな住居さえ持たず、物置小屋の庇の下に藁を敷いて夜を明かすような生活に追い込まれていた。
事件前日の12月11日、鉄雄は朝から仕事をし、その後、知人宅や店を回りながら大量の酒を飲んだ。裁判所が後に認定した総量はおよそ一升六合。約2.9リットルに相当する。
日付が変わった深夜、寝床に戻った鉄雄は、味噌が切れていることに気づいた。
買う金は乏しい。
そこで、約300メートル離れた実家へ行き、味噌を黙って持ち出すことを思いついた。
懐中電灯を持って雪道を歩き、勝手を知った実家の味噌小屋へ忍び込む。
持参した甕に味噌を移す。
ここまでは、後の裁判でも鉄雄の記憶は比較的鮮明だったとされる。
しかし、そのときだった。
懐中電灯の光が、味噌桶の陰に置かれていた一挺の猟銃を照らした。
中折れ式の単発猟銃。
そばには実弾を収めた弾帯もあった。
その瞬間、鉄雄の思考は急激に変化した。
「味噌を盗んだことが父や兄に知られたら、この銃で自分が殺される」
現実に父や兄が鉄雄を銃で殺そうとしていたことを示す証拠があったわけではない。
だが、その夜の鉄雄は、そこから強い恐怖と被害的な思考にとらわれた。
猟銃を手に取る。
弾帯を腰に巻く。
実弾を込める。
そして、味噌を持って逃げるのではなく、父と兄たちが眠る母屋へ向かった。
そこから、ごく短い時間のうちに一家の生活は破壊された。
父・水木福三郎。
長兄・水木権十郎。
権十郎の妻・キヌ。
権十郎夫婦の長男・登。
長女・雪子。
祖母・りつ。
福三郎の姉、葛西たけ。
七人が猟銃で撃たれた。
さらに、その直後に母屋から火が出て全焼し、銃撃を受けていなかった権十郎夫妻の幼い二女も死亡した。
死者は合計八人。
事件名が「猟銃七人殺人事件」「一家七人殺害事件」と呼ばれる一方、死者総数から「一家八人殺し」とも語られるのはこのためである。
鉄雄はそのまま逃亡しなかった。
犯行後、自分の寝場所へ戻り、酒を飲み、書き置きを残し、親類宅へ走った。
そして泣きながら、自分が父を撃ったと訴えた。
親類に付き添われ、新和巡査駐在所へ出頭する。
事件史に残る言葉は短い。
「父親を猟銃で殺してきた」
ところが警察官が事情を聴いている間に、水木家の火災が判明する。
現場へ向かった警察が見たのは、父一人が撃たれた現場ではなかった。
焼け落ちた家。
複数の遺体。
焼けた猟銃。
一家八人の死。
事件は、単なる「親殺し」ではなく、戦後の青森を震撼させる大量殺人として捜査されることになった。
そして、この事件はその後、さらに異例の展開を見せる。
鉄雄が七人を撃ったという外形的事実そのものは、裁判でも否定されなかった。
問題になったのは、
「撃った瞬間、水木鉄雄には刑事責任を負えるだけの精神能力があったのか」
という一点だった。
青森地方裁判所弘前支部は、殺人行為時の鉄雄を心神喪失状態だったと判断し、殺人・尊属殺人について無罪とした。
有罪とされたのは、心神喪失に陥る前の味噌小屋への住居侵入だけだった。
検察は控訴した。
しかし、1958年3月26日、仙台高等裁判所秋田支部は検察官の控訴を棄却。
殺人についての無罪判断は維持された。
七人を撃ち、結果として一家八人が死亡した。
しかし殺人については処罰されなかった。
この事件が、今なお「異例の事件」として語られる最大の理由がここにある。
■「いつ・どこで起きたか」
事件が起きたのは、1953年(昭和28年)12月12日午前1時過ぎごろ。
場所は青森県中津軽郡新和村小友の水木家だった。
現在の行政区分では弘前市の北西部にあたる。
弘前市の市域変遷資料によれば、新和村は事件から約1年3か月後の1955年3月1日、周辺村とともに弘前市へ編入された。
つまり、事件当時は「新和村」だったが、現代の地図で探せば弘前市域に入る。
この点が、後年の都市伝説との関係で誤解を生むことになる。
青森には後に、「一人の男が村人を皆殺しにし、その村が地図から消えた」という「杉沢村伝説」が広まった。
新和村事件がそのモデルの一つではないかという説がある。
たしかに、
青森の農村。
猟銃による大量殺人。
一家の三男。
事件後、地図から「新和村」という自治体名が消えた。
こうした要素は重なる。
だが、事実は都市伝説とは異なる。
殺されたのは村人全員ではない。
水木家の家族を中心とする八人である。
また、新和村が消えたのは事件が原因ではない。
行政合併によって弘前市へ編入されたためである。
事件現場となった小友地区は、リンゴ栽培の盛んな農村地帯だった。
鉄雄の父・福三郎はリンゴ園などを持つ農家で、消防団長を務めたこともあったとされる。
一家は村の中でまったく財産のない家ではなかった。
むしろ一定の資産を有していた。
だからこそ、この事件には奇妙な対照がある。
父と長兄が暮らす家には農地がある。
一方、その家に生まれた三男の鉄雄は、冬の青森で物置小屋の庇の下に藁を敷いて眠っていた。
同じ一家の中に、土地と家を持つ者と、寝場所すら失った者がいた。
事件の現場は、単に「雪深い農村」だったのではない。
家督、財産、家族内の力関係が濃く残る共同体の中で起きたのである。
■「登場人物」
【水木鉄雄】
事件当時24歳。
水木家の三男。桶職人。
事件史では「水木鉄雄」とされる。一方、近年の一部資料では「水木鉄次」とする表記もある。
小友小学校卒業後、家業の農業を手伝い、一時奉公に出たが病気で帰郷。その後、農業のほか桶職の見習いをし、やがて桶職人として独立に近い生活を送った。
父や長兄との関係が悪化し、実家を離れて極貧生活に陥る。
1953年12月12日未明、実家へ味噌を盗みに入り、猟銃を見つけたことを契機に七人を射殺したと認定された。
犯行後に自首。
裁判では犯行時の心神喪失が認定され、殺人について無罪となった。
【水木福三郎】
57歳。
鉄雄の父。
リンゴ園などを所有する農家で、地域の消防団長経験もあったとされる。
裁判記録では、生来吝嗇で怠惰、酒癖が悪く、家庭を顧みないことが多かったため家庭内の争いが絶えなかった、と厳しい人物像が記されている。
妻との関係も破綻し、鉄雄ら子供たちとの対立も深まった。
事件当夜、就寝中に至近距離から頭部を撃たれ死亡。
【水木はる】
鉄雄の母。
事件当時、水木家には住んでいなかったため難を逃れた。
長年、福三郎との夫婦不和に苦しみ、1951年11月ごろ実家へ戻り、事実上の別居状態となった。
離婚訴訟も起きており、それが福三郎側と鉄雄側の感情的対立をさらに深めたと裁判所は認定している。
二次資料では、公判で夫の酒癖や家庭内での暴力的な振る舞いについて証言したとされる。
【水木権十郎】
35歳前後。
鉄雄の長兄。
父の家に残り、家督・財産を継ぐ立場にあった。
裁判記録では、次兄と鉄雄に別居を迫り、財産を自分に集中させようとしたと認定されている。
鉄雄との関係は悪化していた。
事件当夜、妻子とともに就寝中、銃撃を受け死亡。
【水木キヌ】
33歳前後。
権十郎の妻。
事件当夜、夫と子供たちとともに家にいた。
銃声に気づいて布団に潜り込んだ可能性がある状態で、至近距離から撃たれたと高裁判決は現場状況を認定している。
鉄雄と福三郎・権十郎の争いとは別に、彼女自身がどの程度直接対立していたかについては、今回確認した一次的な裁判資料からは詳細が分からない。
【水木登】
7歳前後。
権十郎・キヌ夫妻の長男。
事件当夜、祖父母らと同じ家で眠っていた。
銃撃を受け死亡。
大人の家督争いや家庭内対立とは無関係の子供だった。
【水木雪子】
5歳前後。
権十郎・キヌ夫妻の長女。
事件当夜、銃撃を受け死亡。
裁判所は、複数の家人が銃声に驚き布団に潜ったところを至近距離から撃たれたとみられる状況を認定している。
【権十郎・キヌ夫妻の二女】
3歳前後。
今回参照できた公開資料では実名を確実に確認できなかった。
七人の射殺被害者とは異なり、司法解剖では銃撃による死とは認められなかった。
火災に巻き込まれて死亡したとされる。
そのため事件の刑事訴追上の「殺人被害者」は七人だが、事件による死者総数は八人になった。
【水木りつ】
80歳前後。
鉄雄の祖母。
鉄雄が別居した後も、米や味噌を分けるなど、実家との数少ない接点になっていた人物とされる。
鉄雄にとって父や長兄とは意味の異なる存在だったはずだが、事件当夜は銃撃の対象となった。
裁判記録では、布団に潜り込んだところを至近距離から撃たれたとみられている。
【葛西たけ】
61歳。
福三郎の姉で、鉄雄から見れば伯母。
青森市に暮らしていたとされ、事件当夜は水木家に泊まっていた。
ほかの被害者と異なる位置、道路側の縁側付近で遺体が発見され、銃声や騒ぎから逃げようとした可能性が考えられた。
鉄雄は後の供述で、奥の方から女性の叫び声のようなものを聞き、そちらでも発砲した記憶を語っている。
【水木五三郎】
鉄雄の次兄。
父・長兄から別居を迫られ、鉄雄と同じく本家から離れた側の兄弟。
事件後、家の遺産を引き継いだとする二次資料がある。
鉄雄が釈放された後、一緒にリンゴ栽培をしたとも伝えられている。
【鉄雄の姉妹】
二次資料では、みゑ、みよ、ミツ、和子らの名が挙げられている。
妹の和子は長兄との関係に耐えられず、事件前の1953年秋ごろ母の実家へ移ったとされる。
【住み込みの使用人】
水木家には住み込みの男性使用人がいたとする資料がある。
火災時に二階から飛び降りて負傷しながら助かったとされる。
公開資料では実名確認に慎重を要するため、本稿では無理に名前を補わない。
【鑑定医たち】
一審、控訴審を通じ、複数の精神鑑定が実施された。
高裁判決は鑑定結果を詳細に検討し、鉄雄が犯行時、一過性の病的な意識障害・朦朧状態に陥り、理性的判断と行動抑制を失っていたとの判断を支持した。
【控訴審裁判官】
仙台高等裁判所秋田支部。
裁判長 松村美佐男
裁判官 小田倉勝衛
裁判官 三浦克己
1958年3月26日、検察官控訴を棄却した。
■「事件発覚」
事件が発覚した直接のきっかけは、火災の通報でも近隣住民の発見でもなかった。
犯人自身の自首だった。
12月12日午前2時10分ごろ。
毛皮の胴着を着た24歳の水木鉄雄が、親類に付き添われて新和巡査駐在所へ現れた。
鉄雄は警察官に、
「父親を猟銃で殺してきた」
という趣旨の申告をした。
警察が事情を聴いていると、水木家付近で火災が起きているとの情報が入った。
警察官らが現場へ急行したころには、母屋は激しく燃え、やがてほぼ焼け落ちた。
焼け跡から次々と遺体が発見された。
当初、鉄雄の自首は「父を撃った」という話だった。
しかし現実には、父だけではなかった。
長兄一家。
祖母。
伯母。
幼い子供たち。
一家八人が死亡していた。
さらに焼け跡から猟銃も発見され、鉄雄の供述と現場が結びついた。
その時点で、青森県警は一家を襲った大量殺人事件として捜査を開始する。
・犯人の生い立ち
・事件の前兆
・当日の詳細
・逮捕
・裁判
・判決
・まとめ
