昭和26年「小須戸の放火事件」
一人の女の復讐心が、眠る町を焼いた夜

昭和26年(1951年)9月24日午前1時
中蒲原郡小須戸町 新潟市秋葉区小須戸

■【はじめに】

昭和二十六年(一九五一年)九月二十四日午前一時ごろ。

信濃川沿いの町、中蒲原郡小須戸町。
現在の新潟市秋葉区小須戸にあたる町の中心部で、突然、火の手が上がった。

秋の夜だった。

町の人々はすでに眠りについていた。

静かな町に、けたたましい火災を知らせる鐘が鳴り響いた。

「火元はどこだ」

家々から人が飛び出す。

窓を開けた者の顔に、熱風が吹きつけた。

二、三軒先では、織物工場が赤々と燃え上がっていた。

炎は一軒だけにとどまらなかった。

小須戸は織物の町だった。
町家や作業場が密集し、機屋には木材、綿糸、織機などが置かれている。

ひとたび火が回れば、隣へ、またその隣へと燃え移る。

町民は家財を抱え、子どもの手を引き、着の身着のまま逃げた。

新潟、新津、白根、亀田方面などから消防隊が駆けつけ、ようやく延焼は食い止められた。

犯罪史によれば、この火災では全焼十八軒、半焼三軒。
織機三百数十台をはじめ、綿糸など大量の原材料が焼失し、被害額は約五千万円と推定された。

当初、町の人々も警察も、火元となった家の火の不始末を疑った。

だが、調べれば調べるほど、失火では説明できなくなった。

やがて捜査線上に、一人の女が浮かび上がる。

村田キク、三十八歳。

夫を亡くし、生活のため酒場で働き、そこで一人の男と出会った女だった。

男の名は、史料掲載部分では姓だけが確認できる。

間瀬。

風呂屋と土建業を営み、三十八歳の若さで町でも羽振りを利かせていたという。

キクは、その男に惹かれた。

金を渡した。

家財まで手放した。

遠くへ働きに出た。

それでも捨てられようとしている、と感じた。

そして彼女の中に、

「むざむざ捨てられてたまるか」

という思いが燃え上がった。

その感情が向かった先は、男本人ではなかった。

男の家だった。

だが、小須戸の町中で放たれた火は、一軒だけを選んで燃えることなどできない。

一人の男への復讐として始まった火は、何十もの家族から住まいと財産を奪った。

しかも犯人は、火事の夜に町民のすぐそばを歩いていた。

炎から逃げる人々の中にまぎれ、駅へ向かおうとしていた。

その女を見た夫婦がいた。

そして、その何気ない目撃が、周到につくられたアリバイを崩すことになる。

本文中の会話のうち、史料に発言内容が残っているもの以外は、当時の状況を読者に理解しやすくするための再構成である。
実際の発言を逐語的に記録したものではない。

第一章 信濃川沿いの町・小須戸

昭和二十六年当時の小須戸町は、中蒲原郡に属していた。

現在の新潟市秋葉区小須戸周辺である。

信濃川沿いに発達し、古くから舟運と商業の町として栄えた。

現在、新潟県の観光案内でも小須戸は、信濃川の川湊として栄えた在郷町と紹介されている。

町には今も、古い町屋の姿が残る。

格子。
細長い敷地。
通りに面した町家。
奥へ延びる建物。

それらの多くは、明治三十四年(一九〇一年)の小須戸大火後に再建されたものと考えられている。

損害保険関係の防災資料には、明治三十四年六月一日の小須戸大火で六百七十七棟が焼失した記録も残る。

町の大部分が焼けた。

現在の町並みが「大火後の復興」によって形づくられた側面があることは、現在の小須戸を理解するうえでも重要である。

犯罪史は、小須戸を「織物の町」「植木の町」と描いている。

信濃川沿いの町であり、新津や白根に近い。

明治期の町村制度再編を経ながら形成されたこの町では、五十年前にも巨大な炎が町を襲った。

そして昭和二十六年。

ちょうど明治三十四年の大火から五十年。

町は再び炎に包まれた。

第二章 「五十年前の大火の翌朝に生まれた男」

火災の夜、史料の中で最初に登場する町民が、新川信吉である。

信吉は小須戸で五十年を生きてきた男だった。

しかも、彼が生まれたのは、五十年前の大火の翌朝だったという。

町の焼け跡とともに人生が始まり、五十歳になった年、また大火を見ることになる。

午前一時ごろ。

鐘が鳴った。

「火事だ」

信吉は飛び起きた。

まず二階へ上がる。

雨戸を開ける。

その瞬間、顔に熱が当たった。

「熱い……」

二、三軒先が赤い。

機屋が燃えていた。

夜空が赤く染まり、火の粉が飛んでいる。

「あぶない。やられるぞ」

信吉は急いで階下へ降りた。

ところが、下では家族や近所の者たちが、すぐそこまで迫っている炎を前にして立ち尽くしていた。

人は本当に危険な状況へ突然放り込まれると、すぐ動けるとは限らない。

逃げなければならない。

物を運び出さなければならない。

そう頭では分かっても、目の前の光景が現実として理解できない。

信吉は怒鳴った。

「馬鹿野郎、あと五分もすりゃ、まる焼けだ。持てるものだけでも持って逃げろ」

これは史料に記された発言に基づく。

その声で、呆然としていた人々はようやく動いた。

手に触れたものを持つ。

布団。

衣類。

現金。

帳面。

商売道具。

子どもの手。

何を持ち、何を捨てるのか考える時間などなかった。

火は待ってくれない。

第三章 機織りの町を走る炎

小須戸の火災が恐ろしかった理由の一つは、町の構造だった。

織物の町である。

作業場には織機が並ぶ。

綿糸や原料がある。

木造の建物が密集している。

一軒で燃え上がった火が、周囲へ飛び移れば、火勢は急速に増す。

夜風もあった。

犯罪史では、火が中野小路から一番町方面へと広がっていった様子が描かれている。

火の粉が舞う。

町の通りが明るくなる。

家の壁が焼ける。

屋根に火が移る。

「早く出ろ」

「子どもは」

「荷物はいい、逃げろ」

「こっちだ」

あちこちで怒鳴り声が重なったはずである。

もちろん、これらは当時の避難状況を示すための再構成である。

確かなのは、町民が着の身着のまま避難し、消防が町外からも応援に入るほどの大火になったことだ。

第四章 信吉と妻ミネ

新川信吉は、家や機織場の周辺を離れがたかった。

長年暮らした場所である。

自分の仕事場である。

目の前で燃えている。

逃げれば助かる。

しかし逃げれば、すべてを失うかもしれない。

信吉は行ったり来たりしていた。

妻ミネは、そんな夫を見ていた。

「あなた、早く。早く逃げなくちゃ」

「ああ……」

信吉はまだ火の方を見ている。

ミネは夫の気持ちを察しただろう。

それでも、いまは生きて逃げるしかない。

夫婦は走り始めた。

第五章 火事の中に立っていた女

そのときだった。

二人のすぐ後ろから、駒下駄の音が聞こえた。

カタ、カタ、カタ。

火事場には似つかわしくない音だった。

周囲の人々は走っている。

裸足の者もいた。

履物など構っていられない。

荷物を抱えて逃げる者。

泣く子を引く者。

そんな中を、一人の女が歩いている。

やがて女は横丁へ曲がった。

信吉は気になった。

「小路へ入ったら危ない」

火の回り方を知っている町の人間なら分かる。

そちらへ行けば炎に追い込まれる可能性がある。

信吉は女を追った。

一人の女がいた。

奥へ逃げるでもなく、立ち止まるようにしていた。

信吉は声をかけた。

「おい、ねえさん。中小路の方向へ逃げるんだ」

女が振り返る。

しかし暗かった。

炎の明かりはあっても、顔まではよく見えない。

信吉は不審には思ったものの、この時点で女が放火犯だとは考えていない。

火災の最中である。

誰もが混乱している。

信吉は妻のもとへ戻った。

第六章 妻ミネが見た「顔」

信吉は女の顔をはっきり見られなかった。

だが妻ミネは違った。

「どこかで見たような……」

一瞬そう感じた。

年齢の割に派手な服装。

以前にも見た記憶がある。

しかし、火事の最中である。

夫は火元を気にしている。

家は燃えるかもしれない。

それどころではなかった。

ミネは夫の手を取った。

「早く、早く逃げなくちゃ」

夫婦はその場を離れた。

その女が誰なのか。

このときミネには思い出せなかった。

しかし、この一瞬の記憶が、数日後、事件を解決する決定的な手掛かりになる。

第七章 全焼十八軒、半焼三軒

火勢は大きくなった。

新潟、新津、白根、亀田など各地から消防車が駆けつけた。

当時の消防力を考えれば、町外からの応援が必要になった時点で、火災の規模は相当なものだったことが分かる。

懸命の消火活動によって、中心街全体への延焼は食い止められた。

しかし被害は甚大だった。

犯罪史が記す被害は、

全焼十八軒。
半焼三軒。

織機三百数十台。

綿糸その他の原料。

推定損害、約五千万円。

である。

昭和二十六年当時の五千万円を現在の金額へ単純換算することはできない。

物価、賃金、土地価格、織機の価格など、何を基準にするかによって結果が大きく変わるからである。

しかし、町の主要産業である織物関係の設備が三百台以上失われたという事実だけでも、経済的打撃が極めて大きかったことは分かる。

第八章 学校へ避難した罹災者

第二十一章 午前一時、「火元はどこだ」

第三十二章 「復讐」という言葉の危うさ

第四十四章 村田キクを単純な「悪女」にしない

第五十三章まで