昭和10年 種市・一家三人殺人事件
「姉を救う」という思い込みが、一家を奪った朝
昭和10年、1935年4月21日
岩手県九戸郡種市村。 洋野町種市地区
■「事件概要」
昭和10年、1935年4月21日。
岩手県九戸郡種市村。
現在の洋野町種市地区にあたる一帯で、一軒の商家から一家三人の遺体が発見された。
主人は37歳。
妻は29歳。
そして、まだ4歳ほどの幼い娘。
三人は、家の中で斧あるいは鉞に近い重量のある刃物によって激しく襲われていた。
朝になっても家の雨戸は閉ざされたまま。
店が開く気配もない。
声をかけても誰も出てこない。
不審に思った近隣住民が家の周囲を確かめると、南側玄関付近、戸袋の下から血が流れ出していた。
その血が、この家の中で起きた異常事態を外の世界へ知らせた最初の合図だった。
通報を受けた巡査が家へ入り、そこで一家三人を発見する。
主人――下川清一、37歳。
妻――下川冬江、29歳。
長女――下川千春、4歳。
一家は一夜にして失われていた。
そして、家にいるはずの人物が一人だけ消えていた。
住み込みで働いていた17歳の少年店員。
「三木本清治」少年である。
少年の姿がない。
少年が使っていた自転車もない。
家の中から現金もなくなっている。
警察は早い段階から、外部の強盗ではなく、家の内部をよく知る者の犯行を疑った。
やがて清治はその日の午前中に発見される。
逃走は数時間しか続かなかった。
取り調べで少年が語った動機は、捜査員にとっても異様なものだった。
「姉を助けたかった」
少年には、自分を学校へ通わせるために苦労した姉がいた。
姉には多額の借金がある。
自分のために姉が苦しい仕事を続けている。
そう思い込んでいた。
だから金が必要だった。
そのために主家の金を盗もうと考えた。
そして、盗みを邪魔する人間を「いなくすればいい」と考えるところまで進んだ。
一家三人を殺し、少年が手にした金は60円50銭。
姉を救うにはあまりにも小さく、一家三人の生命と引き換えるにはあまりにも重い金額だった。
事件から約三か月後。
昭和10年7月27日。
盛岡地方裁判所は清治に懲役15年を言い渡したと県警記録は伝えている。
17歳の少年が「姉への恩返し」だと思い込んだ行動は、三人の人生を奪い、自分自身の少年期もそこで終わらせた。
■「いつ・どこで起きたか」
事件が起きたのは、昭和10年4月21日の早朝である。
場所は岩手県九戸郡種市村。
現在の岩手県九戸郡洋野町種市地区である。
種市は太平洋に面した北三陸の地域で、農業だけでなく漁業とも結びついた土地だった。
当時の日本は、今のように大型スーパーやコンビニエンスストアが存在する社会ではない。
村の商家は、酒、雑貨、日用品など、生活に必要な物資を地域の人々へ売る重要な場所だった。
下川家もそうした商家の一つとして描かれている。
主人の清一は37歳。
妻の冬江は29歳。
まだ幼い娘の千春がいた。
そこへ住み込み店員として働いていたのが、17歳の三木本清治だった。
「住み込み」という言葉は、現在のアルバイトとは意味が違う。
職場と生活の場が同じである。
店の主人と毎日顔を合わせる。
食事をともにすることもある。
家族の生活時間を知る。
誰が何時に寝るのか。
どの部屋を使っているのか。
金をどこで扱っているのか。
店の売上をいつまとめるのか。
外部の人間には分からない家の内部事情を、住み込み店員なら自然と知ることになる。
この事件では、その「近さ」が凶器になった。
少年は侵入する必要がなかった。
家の中にいた。
家人が眠る時間を知っていた。
物置の位置も知っていた。
薪割り用の道具がどこにあるかも知っていた。
金を盗むなら、家の中を探せる。
そして逃げるなら、自転車が使える。
犯行場所は「知らない家」ではなく、少年が日常的に暮らし、働いていた家だった。
■「登場人物」
【三木本清治】
事件当時17歳。
青森県方面の貧しい家庭に生まれたとされる。
高齢の両親、祖母、年下の妹たちがいた。
兄は北海道方面へ出稼ぎに出たまま長く消息がなく、家庭に経済的余裕はなかった。
一方、学校成績は良好だった。
県警記録は「生来怜悧」と表現している。
頭の回転が速く、勉強を好み、高等小学校へ進みたいという希望を持っていた。
その進学を助けたのが姉だった。
昭和9年9月ごろから種市村の商家に住み込み店員として働き始める。
事件当日、主家の一家三人を襲い、現金60円50銭を奪って逃走。
同日午前11時ごろ確保された。
■【清治の姉】
氏名は確認資料では明らかでない。
事件当時26歳前後。
若いころから家を離れ、女給などの仕事に就いていたとされる。
県警記録は当時の表現で「花柳の巷」に身を置いた女性として描写している。
弟の清治を呼び寄せ、学校へ通わせた。
弟にとって、単なる姉ではなく、学費や生活を支えてくれた恩人に近い存在だった。
姉が語った「借金」の話を清治が深刻に受け止めたことが、事件の大きな動機になった。
■【下川清一】
37歳。
被害者一家の主人。
酒類や雑貨などを扱う商家の主人。
清治を住み込み店員として雇っていた。
事件当日の早朝、就寝中に襲撃され死亡した。
■【下川冬江】
29歳。
清一の妻。
犯行開始時に清治から襲われたとされる。
一度の襲撃後も生きて動き、廊下付近まで出てきたところを清治に再度襲われたと記録されている。
■【下川千春】
4歳。
清一と冬江の長女。
両親の金銭事情も、清治と姉との関係も知らない幼児だった。
犯行中の物音などで目を覚ましたとされ、清治に襲われ死亡した。
■【種市村の近隣住民】
4月21日朝、下川家がいつまでたっても開かないことを不審に思い、家を訪ねた。
玄関付近から血が流れ出していることを発見し、駐在所へ知らせた。
■【種市村の駐在巡査・久慈警察署の捜査員】
事件発覚後に現場へ入り、一家三人の死亡と清治の失踪を確認。
周辺へ手配し、清治逮捕後は動機や犯行経過を取り調べた。
■【消防組員】
清治の捜索・警戒に協力。
午前11時ごろ、中野駅方面で清治を発見し、身柄確保につながったとされる。
■【吉川英治】
事件の当事者ではないが、清治の供述を理解する上で登場する作家。
清治が読んだとされる『鳴門秘帖』の作者。
『鳴門秘帖』は1926年8月11日から1927年10月14日まで『大阪毎日新聞』夕刊を中心に連載された人気大衆小説だった。
■「事件発覚」
4月21日、午前8時ごろ。
下川家は閉ざされていた。
商売をしている家である。
朝になれば、人が動く。
戸が開く。
店の準備をする。
物音がする。
ところが、その朝は静かだった。
近所の者が用事で家を訪れた。
【再現会話】
「下川さん」
返事がない。
少し強く声をかける。
「下川さん、いますか」
沈黙。
雨戸は閉じたままだった。
家の中から子供の声もしない。
主人が出てくる気配もない。
訪問者は不安を覚え、家の横から裏手へ回った。
そして玄関付近で足を止めた。
戸袋の下。
そこから赤黒い液体が外へ流れていた。
血だった。
室内で流れた血が、建物の外へまで達していたのである。
その場で家に踏み込むより、駐在所へ知らせるべきだと判断した。
近隣住民が種市村の巡査駐在所へ走る。
駐在巡査が現場へ来る。
声をかける。
返答はない。
雨戸を外す。
中へ入る。
室内に残っていたのは、朝の生活ではなかった。
一家三人の遺体だった。
父。
母。
幼い娘。
刃のついた重い道具による襲撃を受けたことが明らかな状態だった。
血は床を汚し、外まで流れていた。
寝ていた家族が一人ずつ襲われたのだと考えられた。
ところが、住み込み店員の姿だけがない。
「少年はどこへ行った」
家の中を確認する。
いない。
少年の自転車もない。
現金もなくなっている。
そこで事件は、単なる「一家殺害」から「逃走中の犯人を追う事件」へ変わった。
・犯人の生い立ち
・事件の前兆
・当日の詳細
・逮捕
・裁判
・判決
・まとめ
