名古屋駅行李詰死体事件
薬品取引の果てに殺され、「荷物」として名古屋へ送られた二十四歳の青年

大正10年、1921年12月17日。
名古屋駅

■事件概要

大正十年、一九二一年十二月十七日。

名古屋駅。

冬の朝。

鉄道を利用する人々が行き交い、駅員たちがいつものように荷物を扱っていた。

その中に、一つの行李があった。

行李。

竹や柳などを編んで作られた箱形の容器。

当時は衣類や生活用品を入れ、列車で運ぶ荷物としても珍しくなかった。

現在でいう大型の旅行鞄、あるいは収納ケースのようなものだった。

だから、最初は誰も、その荷物自体を不審には思わなかった。

問題は臭いだった。

「……何だ、この臭いは」

駅員の一人が顔をしかめる。

別の男も近づく。

「中で何か腐っているんじゃないか」

「生ものでも入れてあるのか」

鼻をつく。

普通の荷物から出る臭いではない。

腐敗。

何かが中で傷んでいる。

駅員たちは受取人が現れるのを待った。

だが朝が過ぎても来ない。

時間だけが進む。

正午。

それでも誰も来ない。

「おかしいな」

「これだけ臭う荷物を、このまま置いておけない」

「立ち会いの上で開けよう」

関係者が集まった。

行李の蓋へ手をかける。

紐を外す。

蓋を持ち上げる。

その瞬間。

誰も言葉を出せなくなった。

中に入っていたのは衣類ではない。

食料でもない。

商品でもない。

人間だった。

男の死体。

身体は狭い行李の中へ押し込まれていた。

首には、明らかに圧迫された痕跡。

史料は、

「年齢廿五六才位、商人風の男子の絞殺屍」

と記した。

「人だ……」

「死んでいる」

「警察へ知らせろ!」

平穏だった駅の荷物扱いは、一瞬で殺人事件の現場へ変わった。

人が殺されている。

しかも、その遺体を行李へ詰め、鉄道を利用して名古屋へ送っている。

殺害場所はどこなのか。

なぜ名古屋なのか。

誰が送ったのか。

誰が受け取る予定だったのか。

そして何より、

この男は誰なのか。

警察はそこから捜査を始めた。

身元はほどなく判明する。

被害者は二十四歳の薬種商店員。

本稿では「森川一彦」とする。

東京市日本橋区本町。

薬種商「島久商店」で働いていた青年だった。

薬品を扱う仕事。

それが事件の核心へつながった。

捜査で浮上した主犯は、

川原井庄松。

二十七歳。

共犯とされたのは、

鬼頭鎌平、二十六歳。

森崎米吉、三十歳。

森崎は薬品ブローカー。

川原井と森崎は上海で知り合ったと史料にある。

さらに一年前、川原井たちはすでに一彦と薬品取引をめぐって交渉していた。

しかし、

「價格の點で折合はなかった」

取引は成立しなかった。

そして翌年。

川原井たちはコカインの密輸出を企てた。

再び一彦に接触。

今度は商談だけでは終わらない。

川原井は一彦を巧みに誘い出し、東京・芝口の信濃屋旅館へ連れて行った。

酒を飲ませる。

酔わせる。

倒れるまで待つ。

そして細い紐を首へかける。

二十四歳の青年は絞殺された。

その後、川原井たちは一彦が所持していたコカインを奪った。

さらに遺体を行李へ詰めた。

蓋を閉める。

紐を掛ける。

そして列車の荷物として、

名古屋駅宛てに発送した。

一人の人間を、

「荷物」

へ変えたのである。

だが完全犯罪にはならなかった。

人間の身体は、荷物のように黙ってはいない。

腐敗する。

臭いを放つ。

十二月十七日。

その臭いが駅員たちに行李を開けさせた。

事件発覚から六日後。

十二月二十三日。

警察は川原井庄松を横浜で逮捕した。

翌大正十一年七月、予審決定。

九月十三日、公判。

主犯・川原井庄松は第一審で死刑。

さらに第二審でも死刑。

一度目は商談。

二度目は殺人。

価格が合わなかった相手から、金を払わずに商品を奪う。

そのために人を殺す。

そして死体を荷物に変えて遠い都市へ送る。

名古屋駅行李詰死体事件は、大正期の薬品取引、鉄道物流、広域犯罪が絡み合った異様な事件として、後世の犯罪史に残ることになった。

■いつ・どこで起きたか

事件が発覚したのは大正十年十二月十七日。

場所は名古屋駅。

だが、事件そのものが名古屋で始まったわけではない。

被害者の森川一彦は東京の日本橋で働いていた。

勤務先は薬種商・島久商店。

彼が最後に川原井庄松らと接触した舞台も東京だった。

史料に登場する殺害場所は、

芝口の信濃屋旅館。

つまり事件の構造は、

東京で接触。

東京の旅館で殺害。

遺体を行李へ詰める。

鉄道で名古屋へ発送。

名古屋駅で発見。

その後、主犯・川原井庄松は横浜で逮捕。

という広域的なものだった。

東京。

名古屋。

横浜。

さらに背景には、川原井と森崎が知り合ったという上海まで登場する。

大正時代としては、非常に広い範囲に人間関係と捜査がまたがった事件だった。

名古屋駅は、殺害現場ではなく、

「隠したはずの死体が表へ出た場所」

だった。

事件名だけを見ると、名古屋で殺人が行われたようにも感じる。

しかし実際には、東京で起きた殺人を遠くへ移動させるために、名古屋という都市が利用された。

犯人たちは、

殺害現場と死体発見場所を離す。

そうすれば捜査は混乱する。

身元確認にも時間がかかる。

東京で失踪した青年と、名古屋の行李から出た死体が結びつくまで時間を稼げる。

そう考えた可能性がある。

だが結果は逆だった。

名古屋で行李が開かれた瞬間から、

捜査は東京へ遡った。

被害者の勤務先。

薬品取引。

過去の交渉。

川原井。

森崎。

そして横浜へ。

犯人が遠ざけたはずの死体は、逆に犯人へ向かう道標になった。

■登場人物

【川原井庄松】

本事件の主犯。

事件当時二十七歳。

薬品取引に関わり、森崎米吉とは上海で知り合ったとされる。

事件の約一年前から、被害者の森川一彦と薬品取引の交渉をしていた。

しかし価格が折り合わず取引は成立しなかった。

大正十年、森崎らとコカインの密輸出を企て、一彦を再び利用しようとした。

一彦を巧みに誘い出して芝口の信濃屋旅館へ連れて行き、酒を飲ませて酔い倒れるのを待った。

その後、細紐で首を絞めて殺害。

一彦が所持していたコカインを奪った。

さらに遺体を行李へ詰め、名古屋駅宛てに発送。

事件発覚後は行方をくらませたが、十二月二十三日、横浜で逮捕。

翌年、公判。

第一審、第二審とも死刑判決。

【鬼頭鎌平】

事件当時二十六歳。

史料で共犯者として記録される人物。

川原井、森崎とともに事件へ関与したとされた。

資料の範囲では、殺害、遺体梱包、発送などの各場面でどの役割を担当したのかを完全には確定できない。

そのため、本稿では共犯者として確認できる範囲のみ記載する。

【森崎米吉】

事件当時三十歳。

薬品ブローカー。

川原井庄松と上海で知り合ったとされる。

薬品取引の仲介に関わり、川原井とともに以前から被害者・一彦との商談を行っていた。

事件では共犯として記録される。

【森川一彦】

本事件の被害者。

実在の被害者は二十四歳の薬種商店員。

東京市日本橋区本町に住み、薬種商・島久商店に勤務していた。

薬品取引の仕事上、川原井や森崎と接点を持った。

事件の約一年前にも取引交渉をしていたが、価格が折り合わず不成立。

大正十年十二月、川原井らから再び接触を受ける。

芝口の信濃屋旅館へ誘い出され、酒を飲まされ、酔い倒れたところを細紐で絞殺された。

所持していたコカインを奪われ、遺体を行李へ詰められ、名古屋駅へ発送された。

十二月十七日、名古屋駅で遺体が発見された。

■事件発覚

十二月十七日。

名古屋駅。

最初に事件を告発したのは、人間ではなかった。

臭いだった。

行李から漏れる腐敗臭。

「何だ、この臭いは」

駅員が近づく。

「何か腐っている」

「でも受取人が来るかもしれない」

待つ。

朝。

午前中。

正午。

誰も現れない。

臭いだけが強くなる。

「もう開けるしかない」

関係者立ち会い。

蓋が開く。

中には人間。

狭い空間へ押し込まれた男性の身体。

首には絞められた痕跡。

「殺人だ」

警察へ連絡。

ここから事件は一気に動き始める。

まず身元。

衣服。

所持品。

体格。

年齢。

商人風の外見。

失踪者。

照会。

やがて東京の薬種商店員、森川一彦へたどり着く。

二十四歳。

日本橋。

島久商店。

薬品。

「最近、誰と会っていたのか」

「取引先は」

「何か揉めていた相手は」

「どんな商品を扱っていた」

警察は一彦の生活を最後の日から遡る。

その先に出てきたのが、川原井庄松だった。

■犯人の生い立ち

川原井庄松がどこで生まれ、どのような家庭で育ち、父母がどのような人物で、どのような教育を受けたのか。

今回の資料から、その詳細な生育歴は確認できない。

そのため、

「幼少期から犯罪性があった」

「家庭環境が原因だった」

「若いころから残忍だった」

といった部分を、事実であるかのように創作することはできない。

資料から明確に分かるのは、事件当時二十七歳であり、薬品取引の世界に出入りしていたこと。

そして森崎米吉とは上海で知り合っていたことである。

上海。

大正期。

日本人商人、薬品関係者、貿易関係者など、さまざまな人間が行き交う場所だった。

川原井がどのような目的で上海へ渡っていたのか。

森崎とどのような経緯で知り合ったのか。

資料だけでは細部は不明。

ただ、二人がそこで接点を持ち、その後、薬品取引で行動をともにするようになった。

森崎は薬品ブローカー。

売り手。

買い手。

商品の場所。

相場。

流通。

そうした情報を扱う人物だった。

川原井は、その世界へ入り込んでいった。

そして大正九年十二月ごろ。

被害者となる一彦と、すでに商談をしている。

つまり川原井にとって一彦は、

「偶然出会った若者」

ではない。

以前から知る取引相手だった。

この関係が、後の犯行で重要になる。

完全な他人なら、

「一緒に旅館へ行きませんか」

と言われても警戒する。

だが取引上の知人。

以前から商談した相手。

「また仕事の話がある」

と言われれば、応じても不自然ではない。

川原井は、その信頼を利用した。

・事件の前兆

・当日の詳細

・逮捕

・裁判

・判決

・まとめ