保険魔・川本匡事件
妻を毒殺し、求職青年まで「保険金」に換えようとした男
大正9年3月8日。 1920年。
■事件概要
大正時代。
生命保険という制度が、日本人の生活へ徐々に入り込んでいた。
一家の働き手が事故や病気で突然死亡したとき、残された妻や子どもが生活していけるようにする。
万一に備える。
家族を守る。
それが生命保険の本来の目的だった。
だが、その制度をまったく反対側から見た男がいた。
普通の人間なら、
「自分が死んだとき、家族に金を残したい」
と考える。
しかし、その男の思考は違った。
保険を掛ける。
被保険者が死ぬ。
保険金が支払われる。
ならば――。
「人が死ねば、金が入る」
生命保険を「死による生活破綻を防ぐ制度」ではなく、
「人間の死によって利益を生む仕組み」
として見たのである。
男の名は、
川本匡。
事件が大きく表面化した当時、二十九歳。
後世の犯罪史や生命保険業界史では、
「保険魔」
「稀代の保険魔」
などと呼ばれることになる。
川本が問題とされた主要な事件は三件。
第一。
大正九年三月八日。
川本と生活を共にしていた内妻が死亡。
後の捜査・裁判では、川本が保険金を得る目的でストリキニーネを用いて殺害したと認定された。
第二。
同年十二月二十二日。
今度の標的は、川本の妻でも親族でもなかった。
仕事を探していた一人の青年。
川本はその青年の生命に保険を絡ませ、モルヒネを用いて死亡させようとしたとされる。
しかし青年は異常に気づいた。
騒いだ。
生き残った。
この事件は殺人未遂に終わる。
そして第三。
大正十年六月十七日。
川本が新たに結婚した女性が死亡。
今度も保険金が絡んでいた。
使用されたとされた毒物はモルヒネ。
二人死亡。
一人殺人未遂。
しかも川本は、一度目の殺人後にやめなかった。
二度目が失敗してもやめなかった。
失敗から逃げるのではなく、
「次は失敗しなければいい」
という方向へ進んだように見える。
これが、この事件の最も異様な部分の一つである。
人を一人殺した。
保険金という利益が絡んだ。
次の標的を探す。
失敗する。
それでもさらに次を選ぶ。
川本にとって問題となっていったのは、
「人を殺してよいか」
ではなく、
「計画が成功するか」
だったのではないか。
そう思わせる反復性が、この事件にはある。
一九二一年、大正十年夏。
新しい妻の死亡をきっかけに、川本の周囲に起きた過去の不自然な出来事が掘り返される。
一人目の女性の死。
生き残った青年。
二人目の妻の死。
そして、生命保険。
保険会社には契約書が残る。
誰に保険が掛けられていたか。
誰が受取人だったか。
いつ加入したか。
いつ死亡したか。
どれだけの金が動く予定だったか。
死者の口は閉ざせても、書類までは消えない。
そして何より、川本には大きな誤算が一つあった。
二件目の標的となった青年が、生き残ったことである。
死者は、
「川本に何をされた」
と語ることができない。
しかし生存者は違う。
「川本と会った」
「川本から何かを与えられた」
「その直後、身体に異常が起きた」
と話すことができる。
一連の点は、やがて一本の線になった。
中心にいたのは川本匡。
そしてその周囲には、必ずと言ってよいほど生命保険があった。
大正十一年五月十二日。
千葉地方裁判所。
川本匡に死刑判決。
控訴。
棄却。
上告。
棄却。
死刑確定。
ところが、川本の人生にはさらに大きな逆転が起きる。
死刑は執行されなかった。
後に恩赦によって無期懲役へ減刑。
さらに出所。
後世の資料では、その後、川本が牧師になったとも伝えられている。
他人の死を金へ換えようとした男。
死刑囚になった男。
その男が処刑を免れ、やがて宗教、罪、救済、悔い改めを語る立場へ移っていった。
だが、殺された二人の女性には、そのような「その後」はない。
川本にはあった。
裁判後の人生。
恩赦後の人生。
出所後の人生。
しかし被害者にはない。
この不均衡もまた、川本事件に残る強烈な後味である。
■いつ・どこで起きたか
川本匡事件は、一つの夜に起きた単発事件ではない。
大正九年から大正十年にかけて、複数の人物を標的として続いた連続的な保険金犯罪だった。
第一事件。
大正九年三月八日。
一九二〇年。
川本と生活を共にしていた内妻が死亡した。
事件当時は、表面上、
「女性が急死した」
という出来事として見えた可能性がある。
後に川本の犯罪が表面化すると、この死が掘り返され、保険金を目的とした毒殺と認定される。
第二事件。
大正九年十二月二十二日。
同じ年の冬。
今度は求職中の青年が狙われた。
川本は青年を保険金犯罪の標的にし、モルヒネを用いて死亡させようとしたとされる。
しかし青年は死ななかった。
異常を察知し、騒いだ。
川本にとって、この青年は後の捜査で極めて重要な生存証人となる。
第三事件。
大正十年六月十七日。
一九二一年。
川本が新たに結婚した女性が死亡。
この女性も保険金を目的とした毒殺の被害者とされた。
そして大正十年七月ごろ。
事件は大きく世間へ知られることになる。
資料が、
「保險魔川本匡 大正十年七月」
として事件を整理しているのも、この時期に一連の犯罪が大きく表面化したことを示している。
裁判は翌大正十一年。
五月十二日。
千葉地方裁判所。
川本に死刑判決。
つまり事件全体は、
大正九年三月から始まり、
同年十二月に第二事件、
翌大正十年六月に第三事件、
七月ごろから本格的な捜査と事件報道、
大正十一年五月に一審死刑判決、
という流れで進んでいる。
■登場人物
【川本匡】
本事件の犯人。
事件が大きく発覚した当時二十九歳。
生命保険を利用し、身近な女性や、さらには仕事を求めていた青年にまで保険を絡ませ、死亡させることで金銭的利益を得ようとした人物。
第一の内妻殺害。
第二の求職青年殺害未遂。
第三の新妻殺害。
二人死亡、一人殺人未遂。
一審で死刑判決。
控訴、上告はいずれも棄却され、死刑確定。
しかし後に恩赦によって無期懲役へ減刑されたとされる。
その後出所し、後世資料によれば牧師となったとも伝えられている。
【川本春江】
川本と生活を共にしていた内妻。
第一事件の被害者。
大正九年三月八日に死亡。
後の裁判では、川本が保険金目的でストリキニーネを用いて殺害したとされた。
【高田正夫】
第二事件の被害者。
仕事を探していた青年。
川本から保険金犯罪の標的にされたとされる。
大正九年十二月二十二日、モルヒネによって殺害されかけたが、異常を察知し、騒いだことで死亡を免れた。
この青年が生き残ったことは、後の捜査で非常に重要な意味を持った。
【林田冬子】
川本が後に結婚した女性。
第三事件の被害者。
大正十年六月十七日に死亡。
後の捜査・裁判では、川本による保険金目的の毒殺とされた。
【捜査官・裁判官など】
資料の今回確認できる範囲では、捜査を担当した個々の警察官、検事、裁判官の氏名までは十分に確認できない。
そのため本文では「捜査官」「検察側」「裁判長」などと表記する。
■事件発覚
川本事件は、一人目の女性が死んだその日に、
「これは保険金殺人だ」
と発覚した事件ではなかった。
そこが重要である。
毒殺には、刃物や拳銃による殺人とは異なる特徴がある。
大きな物音が出ない。
必ずしも激しい争いが起こるわけではない。
被害者が突然具合を悪くし、
「急病」
「持病」
「原因不明の急死」
に見える可能性がある。
最初の内妻が死亡したとき。
表面だけを見れば、
「川本の妻が突然亡くなった」
という出来事に見えた可能性がある。
川本は残された夫。
悲しむ側。
保険金受取人。
もし周囲が死因を疑わず、保険会社が手続きを進めれば、事件は終わる。
しかし川本は繰り返した。
これが最大の失敗だった。
一人目の女性。
次に求職青年。
そして新しい妻。
それぞれの出来事だけを切り離して見れば、
「偶然」
「不運」
「急病」
と説明する余地が残ったかもしれない。
だが三件を並べると違う。
同じ男。
同じ男の近くで起きる異常。
二人の女性が死亡。
一人の青年が死にかける。
そして保険。
「なぜ川本の周囲で、保険の掛かった人間ばかりが死ぬのか」
この疑問が生じる。
さらに二件目の青年は生きていた。
ここが決定的だった。
青年は話すことができる。
自分が誰と会ったのか。
何を口にしたのか。
その後どうなったのか。
一人目の女性の死。
生存青年の証言。
二人目の妻の死。
そして保険契約。
点は線になった。
大正十年夏。
川本匡の周囲で起きた不自然な出来事が、一連の犯罪として扱われ始めた。
■犯人の生い立ち
川本匡がどこで生まれ、どのような家庭で育ち、両親がどのような人物だったのか。
兄弟姉妹。
学校。
少年時代。
青年時代。
最初の職業。
そうした詳細な生育歴について、今回の資料から確実に確認できる情報は限られている。
したがって、
「幼いころから金に執着していた」
「家庭環境に問題があった」
「少年期から冷酷だった」
といった物語を、事実であるかのように付け加えることはできない。
確認できるのは、事件が大きく表面化した当時、川本が二十九歳だったということ。
そして、少なくとも大正九年までには女性と生活を共にし、生命保険という制度を理解し、その仕組みを犯罪に利用する発想を持つまでになっていたこと。
ここで注目すべきなのは、
「生命保険を知っていた」
ことではない。
当時、生命保険は広がりつつあった。
多くの人が契約する。
問題は、その仕組みをどう見たかである。
多くの人は、
「万一、自分が死んだときに家族が困らないように」
と考える。
川本は、
「被保険者が死ねば、まとまった金が出る」
という部分へ視線を向けた。
これは制度への理解そのものではなく、
「人間の死を経済的利益に変える」
という犯罪的な転換だった。
夫婦。
内妻。
知人。
求職者。
普通なら、それぞれの人間には関係性がある。
愛情。
信頼。
同情。
助け合い。
だが川本の犯罪では、その関係性が保険契約へ置き換わっていく。
この人が死ねばいくら。
この人へ保険を掛ければいくら。
その発想が一度成立すると、人間は「人」ではなくなる。
妻ではない。
青年ではない。
一枚の証券に書かれた、
「被保険者」
になる。
川本事件の不気味さは、そこにある。
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