鈴弁殺し 山憲事件
エリート官僚・山田憲が富豪商人を殺害し、遺体をトランクで信濃川へ沈めた大正八年の大事件
大正8年 1919年6月6日
新潟県三島郡大河津村付近 信濃川 西蒲原郡分水町
■事件概要
大正八年 一九一九年六月六日。
新潟県三島郡大河津村付近。
現在の長岡市周辺を流れる信濃川。
初夏の川岸に、一つの大きなトランクが流れ着いていた。
赤い革張り。
立派な旅行用トランク。
一見すれば、どこかの富裕な旅行者が列車か船から落とした荷物のようにも見える。
だが、近づけば様子がおかしい。
臭い。
腐敗した何かの臭い。
さらに蓋がわずかに開いている。
「何だ、これは……」
発見者が恐る恐る中をのぞく。
入っていたのは衣類でも、商売道具でもない。
人間。
男の遺体だった。
しかも身体は完全な状態ではなかった。
頭部と両脚がなく、切断された腕などとともに胴体部分がトランクの内部へ押し込められていた。
中には大量の防虫剤のようなものも入れられていたとされる。
腐敗臭をごまかそうとしたのかもしれない。
しかし、人間の死を完全に「荷物」に変えることはできなかった。
臭いは漏れた。
トランクは浮いた。
そして人に見つかった。
警察が動く。
最初の謎。
この男は誰なのか。
次。
どこで殺されたのか。
誰が切断したのか。
なぜ新潟の信濃川へ捨てられたのか。
そして、この大きなトランクを誰が運んだのか。
捜査を進めると、事件は地方の川岸から東京へ伸びていく。
被害者は横浜を拠点に活動した米穀・外米輸入商。
「鈴森善蔵」。
米商人の世界で大きな財を築いた男。
叩き上げ。
商才。
相場。
外米。
そして、世間からは「強欲な米商人」と批判されることもあった人物。
対する主犯。
山田憲。
二十九歳前後。
東京帝国大学農学部卒。
農商務省技師。
外米管理に近い重要部署で働く若き官僚。
地方出身。
帝大。
中央官庁。
将来を期待されたエリート。
二人はまるで正反対に見えた。
一方は商売でのし上がった富豪。
一方は学歴と官僚制度の頂点近くへ進んだ若者。
だが、その二人を結んだものは、
米。
情報。
金。
だった。
当時の日本は米不足。
政府は海外から米を輸入する。
その外米を扱う指定商になれば、大きな商売ができる。
善蔵は指定商になりたかった。
山田は制度の内側にいた。
官僚の情報。
商人の金。
二人の間に危険な関係ができる。
その頃、山田には別の問題があった。
相場。
投機。
損失。
借金。
裁判で認定されたところでは、大正八年春までに山田はかなりの金銭的損失を抱えていた。
後世の資料では一万円ほどともされる。
若い官僚の給料では簡単に返せない額。
山田は善蔵の「指定商になりたい」という欲望へ目をつけた。
五月二十一日。
目黒の料理店。
山田は善蔵へ、
「指定を受けるには金が必要だ」
という話を持ちかける。
十五万円。
大きすぎる。
善蔵は渋る。
最終的に五万円。
善蔵は山田へ金を渡す。
だが指定商になれない。
話がおかしい。
「金を返せ」
善蔵が迫る。
しかし山田には返せない。
すでに使った。
暴露されれば。
不正。
詐欺。
官僚生命。
家族。
名誉。
すべてが終わる。
そこで山田は、
「善蔵を消せばいい」
という方向へ進む。
五月三十一日。
家族を外へ出す。
自宅を空ける。
善蔵を呼ぶ。
渡邊惣蔵もいる。
話し合い。
酒。
金の返還をめぐるやり取り。
そして襲撃。
善蔵は山田宅で殺害された。
その後。
遺体を隠す。
だが有名商人が失踪すれば捜索される。
東京へ捨てれば足がつく。
そこで山田が考えたのが、
新潟。
故郷。
土地勘。
東京から遠い。
遺体と殺害現場を切り離す。
翌六月一日。
遺体は運搬できる大きさにするため切断され、大小二つのトランクへ入れられたと裁判で認定された。
山田は渡邊惣蔵と従兄の山田庄平へ、二つのトランクを新潟へ運ばせる。
列車。
一等寝台。
巨大なトランク。
「高価なガラス製品です」
乱暴に扱わないよう赤帽へ頼む。
西長岡。
茶屋。
駅長がトランクへ触れようとする。
「触ってはいけない!」
不自然な反応。
さらに船頭・高野久蔵。
山田からの手紙。
「極めて秘密を要する荷物」
船で運ぶ。
途中で、
「実は川へ捨ててほしい」
という話へ変わる。
信濃川。
二つのトランク。
重し。
川へ落とす。
これで消える。
山田はそう考えた。
しかし一つのトランクが浮いた。
六月六日。
発見。
捜査。
長岡駅。
赤帽。
茶屋。
駅長。
船頭。
二人組。
「山田憲という男に頼まれた」
名前が出る。
そして六月八日。
さらに異様な展開。
山田憲本人が、渡邊惣蔵を連れて警視庁へ現れた。
面会相手。
正力松太郎。
山田は言う。
「信濃川の首なし死体について話があります」
そして渡邊を指す。
「犯人はこの男です」
さらに被害者の身元まで明かす。
自分は事件と無関係。
今朝初めて真相を聞き、渡邊へ自首を勧めて連れてきた。
そんな「善意の第三者」を演じた。
だが正力は怪しんだ。
なぜこんなに詳しい。
なぜ被害者の身元まで知っている。
なぜ新潟の船頭から山田の名前が出ている。
取り調べ。
供述の矛盾。
新潟県警の情報。
山田の筋書きは崩れる。
事件は「鈴弁殺し」「山憲事件」と呼ばれ、日本中を騒がせた。
裁判。
一九一九年十二月二日。
山田憲。
死刑。
渡邊惣蔵。
懲役十五年。
山田庄平。
懲役一年六カ月。
山田は控訴。
控訴審も死刑。
上告。
一九二一年三月十日。
棄却。
死刑確定。
同年四月二日。
山田憲、死刑執行。
東京帝国大学を卒業し、農商務省で日本の米政策に関わった男の人生は、刑場で終わった。
■いつ・どこで起きたか
事件が表面化したのは大正八年六月六日。
新潟県三島郡大河津村付近の信濃川。
だが殺害現場は新潟ではない。
東京。
山田憲の自宅。
五月三十一日。
そこで善蔵は殺害されたと裁判で認定された。
その翌六月一日。
遺体処理。
六月二日。
渡邊惣蔵と山田庄平が上野駅から新潟方面へ向かう。
六月三日。
長岡。
西長岡。
船頭・高野久蔵。
信濃川へ遺棄。
六月六日。
一個のトランクが漂着。
六月八日。
山田憲が警視庁へ現れる。
つまり事件の地理は、
東京。
上野。
長岡。
西長岡。
信濃川。
そして再び東京。
鉄道と船を使った広域犯罪だった。
当時は現在のような高速道路もない。
自家用車も珍しい。
大きな荷物を遠距離へ運ぶなら鉄道。
だから犯人たちは鉄道を使う。
しかし、それによって逆に、
駅員。
赤帽。
茶屋。
駅長。
乗客。
船頭。
多くの人間の記憶へ残ることになる。
「遠くへ運べば証拠が消える」
はずだった。
だが、距離を伸ばしたことで目撃者も増えた。
■登場人物
【山田憲】
本事件の主犯。
明治二十三年、一八九〇年五月九日生まれ。
新潟県出身。
東京帝国大学農学部卒業。
卒業後、農商務省へ入り、外米管理関係の重要な仕事に就く。
大正八年当時まだ二十代。
将来を期待された若き官僚。
しかし米や株の相場へ手を出し、多額の損失を抱えた。
外米指定商になりたがっていた富豪商人・善蔵を利用し、五万円を受け取る。
返還を求められると殺害を計画。
五月三十一日、自宅で渡邊惣蔵とともに善蔵を殺害したと裁判で認定された。
遺体を切断し、二つのトランクへ。
従兄・山田庄平と渡邊へ新潟まで運ばせる。
信濃川へ遺棄。
事件発覚後、渡邊へ罪をかぶせ、自分は「自首を勧めた善意の人物」を演じようとした。
一九一九年十二月、死刑。
控訴審も死刑。
上告棄却。
一九二一年四月二日、死刑執行。
【渡邊惣蔵】
山田憲と近い関係にあった青年。
大正八年五月二十一日、山田が善蔵と指定商をめぐる話をした際にも同席。
裁判では善蔵殺害へ関与したと認定された。
遺体を山田庄平とともに新潟へ運搬。
事件発覚後、山田に連れられて警視庁へ出頭。
山田から一時「主犯」に仕立てられようとした。
一審では懲役十五年。
【山田庄平】
山田憲の従兄。
殺害後の遺体搬送・遺棄へ関与した人物。
渡邊惣蔵とともにトランクを新潟へ運び、船頭・高野久蔵を通じて信濃川へ沈めた。
一審では懲役一年六カ月。
控訴審では刑が軽くなり、懲役一年、執行猶予付きとされたと資料は整理している。
【高野久蔵】
長岡中学時代から山田憲を知っていた船頭。
山田からの手紙を信じ、渡邊らが運んできた二個のトランクを船へ積んだ。
途中で「川へ捨ててほしい」と頼まれた。
中身が殺人被害者の遺体とは知らなかったとされる。
事件後、警察の聞き込みに対し、
「山田憲から頼まれた」
ことを証言。
この証言が山田へ捜査を結びつける重要な手掛かりとなった。
【正力松太郎】
当時、警視庁勤務。
後に読売新聞社主、日本テレビの父として知られる人物。
六月八日。
山田憲が渡邊惣蔵を連れて警視庁へ出頭した際に面会。
山田の説明を聞き、
「怪しい」
という第一印象を持ったと警視庁史に記録される。
山田の不自然な知識量、被害者の身元まで知っていること、新潟からの情報などを重ね、山田自身への疑いを深めた。
【鈴森善蔵】
本事件の被害者。
横浜を拠点に活動した米穀・外米輸入商。
若いころからの富豪ではなく、米屋の奉公人などから身を起こし、商才で財産を築いた叩き上げの商人。
米相場。
外米。
大量取引。
世間からは「強欲」「奸商」などと批判されることもあった。
しかし、どのような商売上の批判があったとしても、山田憲に殺害されてよい理由にはならない。
政府の外米指定商になろうとして山田へ近づく。
山田から指定に必要だとして五万円を要求され、渡す。
指定を受けられず、返還を求める。
その結果、山田にとって「自分の不正を暴露する危険な相手」となり、殺害された。
■事件発覚
六月六日。
信濃川。
赤いトランク。
人間の遺体。
新潟県警はまず、
「どうやってここまで運ばれたのか」
を考える。
大きい。
重い。
人一人分の遺体が入る。
徒歩で簡単に運ぶ荷物ではない。
鉄道。
駅。
荷物運搬。
長岡駅周辺。
警察官が聞いて歩く。
「最近、大きなトランクを持った二人組を見ませんでしたか」
赤帽。
「いました」
「どんな男でした」
「かなり立派な身なりでした」
「トランクは?」
「二つ。大きかった」
「何か言っていましたか」
「高価なガラス製品が入っているから注意してくれ、と」
次。
茶屋「柳屋」。
「二人組が来ませんでしたか」
「来ました」
「大きなトランクを持って?」
「ええ」
「駅長が触ろうとしたら、ひどく怒った」
駅長。
船頭。
高野久蔵。
「誰から頼まれた」
高野は答える。
「山田憲さんです」
東京。
農商務省。
帝大卒。
若手官僚。
ここで地方の切断遺体と中央官庁の人間が結びつく。
一方、山田はそれを知らずにいるわけではなかった。
新聞。
トランク発見。
捜査。
自分の名前が出る。
そこで次の工作。
自分から警視庁へ行く。
渡邊を連れて。
「犯人を連れてきました」
自分を通報者側へ置く。
だが、それが逆に不自然さを増やした。
・犯人の生い立ち
・事件の前兆
・当日の詳細
・逮捕
・裁判
・判決
・まとめ
