昭和27年 小牛田町・小学一年生誘拐殺人事件
身代金二十万円を要求した今野健と、一枚の脅迫状

昭和27年2月12日、1952年
宮城県遠田郡小牛田町  宮城県美里町

■事件概要

昭和27年2月12日、1952年。

宮城県遠田郡小牛田町。
現在の宮城県美里町にあたる地域で、小学一年生の男児・吉田大治君が学校から帰る途中、突然姿を消した。

朝、大治君はいつものように学校へ行っていた。
授業を受け、午後1時20分ごろ、ほかの児童たちと一緒に校門を出た。
ところが約10分後、「草履袋を忘れた」と言って一度学校へ戻った。

草履袋を取り、再び校外へ出る。

そこまでは確認できた。

だが、その後、大治君は家へ帰ってこなかった。

午後3時。
普段なら帰宅し、おやつを食べているような時間になっても姿がない。

家族は最初、友達の家へ遊びに行っているのだろうと思った。
しかし、心当たりを探しても見つからない。
学校にもいない。
友人宅にもいない。
夕方になっても、夜になっても帰ってこない。

父・吉田隆之助は警察へ相談した。

当初は誘拐事件とは考えられていなかった。

二月の宮城。
大治君は氷滑りが好きだったという。

警察と消防団がまず考えたのは、川や沼の氷が割れ、転落した可能性だった。
川、池、沼、堀、井戸。
町中で捜索が始まった。

それでも大治君は見つからない。

翌13日、約200人もの住民が捜索に加わった。
町ぐるみの捜索になった。

しかし、少年の姿はどこにもなかった。

そして14日午前8時30分ごろ。

父のもとへ、一通の手紙が届いた。

鉛筆書きの脅迫状。

そこには、

「身代金二拾万円」

と書かれていた。

二十万円。

犯人は、大治君を預かっていると告げた。
父親本人が金を持参すること。
警察へ知らせないこと。
指定日時に指定場所へ来ること。
金は千円札や百円札で用意し、油紙で包むこと。

要求に従えば子供を帰す。

逆らえば殺す。

父親にとって、その手紙は恐怖であると同時に、希望でもあった。

「まだ生きている」

そう思わせる内容だったからである。

しかし実際には、犯人はその約束を最初から守れなかった。

大治君は、脅迫状が届くより前に殺されていた。

犯人は今野健。

事件当時、大学進学を望んでいた若い男である。
後年の資料では21歳とされる。

今野は元小牛田農林学校長・今野勇記の次男として生まれた。
昭和24年3月に県立古川高校を卒業。
仙台高等工業学校を受験したが不合格。
その後仙台や東京で働き、東京では新宿のホテルでボーイをしていた時期もあった。

しかし、東京では窃盗事件を起こした。
昭和26年2月、東京簡易裁判所で懲役8月、執行猶予2年の判決を受けている。

それでも大学へ進みたいという思いは捨てなかった。
明治大学の入学試験も受けたが不合格。
小牛田へ戻った後、今度は日本大学芸術科を受験しようとしていた。

試験は3月10日。

必要なのは学費だった。

今野は少なくとも五万円ほど必要だと考えた。
だが、親に簡単に頼める状況ではない。

そこで今野は、町の資産家の子供を誘拐し、身代金を取るという発想へ進んだ。

そして2月12日。

たまたま今野の家の近くを大治君が通った。

今野は声を掛けた。

「遊んで行け」

大治君は今野宅へ入った。

四畳半ほどの部屋で、二人はしばらく話していた。

この時点なら、大治君はまだ帰ることができた。

しかし今野は、自分が以前から考えていた「子供を誘拐して金を取る」という計画を、目の前の大治君で実行しようと決めた。

少年が今野の意図に気づき、

「父ちゃんに言いつける」

という趣旨のことを言った。

今野は、大治君を帰せば自分の行為を父親へ話されると考えた。

そして少年を殴り、失神させた。
さらに木綿のひもで首を絞めた。

大治君は死亡した。

誘拐して身代金を得るという計画は、実行したその日のうちに殺人へ変わった。

しかし今野はそこでやめなかった。

遺体を隠す。
脅迫状を送る。
身代金を要求する。
家族に「子供は生きている」と思わせる。
遺留品を処分する。
遺体を移動する。

犯罪を一つ隠すために、次の犯罪と工作を重ねた。

3月2日、大治君の遺体が小学校付近の道路脇で発見された。

死因は絞頸による窒息死。

そして事件を解決へ導いたのが、身代金を要求した脅迫状だった。

今野は「紙からは指紋を取れない」と考えていたとされる。

だが警察は、脅迫状を硝酸銀溶液で処理し、紙に残った潜在指紋を浮かび上がらせた。

町では住民による指紋提供が行われ、三日間で約3000人分が集められた。

その中から、今野健の指紋が脅迫状の指紋と一致した。

3月5日午前6時30分。

警察は今野を逮捕。

自宅を捜索すると、床板を外した跡、掘り返した土、遺留品を焼却した痕跡、ひも、切断された長靴など、事件との関係を疑わせる証拠が次々と見つかった。

今野は当初否認した。

しかし翌6日午後10時30分ごろ、証拠を突きつけられ、犯行を自供した。

同年6月24日、仙台地方裁判所古川支部は今野健に懲役15年を言い渡した。

検察は刑が軽いとして控訴したが、仙台高等裁判所は控訴を退けた。

懲役15年。

それが、この誘拐殺人事件に対して当時の裁判所が確定させた刑だった。

■いつ・どこで起きたか

事件が始まったのは、昭和27年2月12日。

場所は宮城県遠田郡小牛田町。

現在の宮城県美里町である。

小牛田は鉄道の町として知られ、周囲には農村地帯が広がっていた。
戦後七年。
日本全体が復興の途中にあった時代である。

まだ家庭に電話が行き渡っていた時代ではない。
防犯カメラもない。
携帯電話もない。
子供の位置情報を確認する手段など存在しない。

子供が学校から帰ってこない。

それだけで、家族は自分の足で友人宅を回り、
学校へ行き、
近所へ聞き、
川や沼を捜さなければならなかった。

大治君が最後に確認されたのは、小学校だった。

午後1時20分ごろ、ほかの児童と一緒に下校。

約10分後、
「草履袋を忘れた」
と学校へ戻った。

そして再び学校を出た。

そこから先の足取りが消えた。

今野の供述によれば、その後、大治君は今野宅付近を通り、今野から声を掛けられた。

今野宅は事件の極めて重要な場所となる。

少年はそこで殺害された。

そして遺体は、すぐに遠くへ運ばれたわけではなかった。

今野は遺体を南京袋に入れ、自宅の床下へ隠した。

床下へ埋めることまで考えたが、うまくいかなかった。

2月14日ごろには物置へ移した。

つまり町の住民が総出で大治君を探している間、
遺体は犯人の生活圏のすぐそばに隠されていた。

消防団が捜す。
住民が歩く。
警察が聞き込みをする。
新聞が報じる。
ラジオでも事件が伝えられる。

その一方で今野は、自宅に遺体を隠しながら、父親へ身代金を要求していた。

そして3月2日午前1時ごろ。

今野は南京袋に入れた遺体を外へ運び出した。

本来は、小牛田農林学校と山神神社の間付近にある田んぼへ埋めるつもりだったという。

だが途中で怖くなった。

結局、小牛田小学校付近の道路脇に遺棄した。

数時間後の午前7時ごろ、大治君は発見された。

犯行現場。
遺体隠匿場所。
遺棄場所。
身代金受け渡し指定場所。

この事件では、一つの町の中に、事件の各段階の場所が点在していた。

遠方から突然来た犯罪者ではない。

町を知る人間が、
町の子供を狙い、
町の中で殺害し、
町の人々が捜している中で遺体を隠し、
町の中で身代金を取ろうとした。

だからこそ、事件は小牛田全体を巻き込んだ。

■登場人物

【今野健】

本事件の犯人。

元小牛田農林学校長・今野勇記の次男として生まれた。

昭和24年3月、県立古川高校卒業。

仙台高等工業学校を受験したが不合格。

その後、仙台で職に就き、東京へ出た。
新宿のホテルでボーイとして働いた時期もあった。

しかし東京で窃盗事件を起こし、
昭和26年2月、東京簡易裁判所で懲役8月、執行猶予2年。

それでも大学進学を望み続けた。

明治大学受験に失敗。
その後、日本大学芸術科を志望。

学費が必要になり、
資産家の子供を誘拐して身代金を取るという犯罪計画へ進んだ。

大治君を自宅へ誘い入れ、殺害。

遺体を隠した後、
父親へ二十万円を要求する脅迫状を送り続けた。

脅迫状から検出された指紋が決め手となって逮捕された。

一審、控訴審を経て懲役15年。

【吉田大治】

小学一年生。

犯罪史では七歳。
後年の二次資料には六歳とするものもある。

事件当日の朝、学校へ登校。

四時間授業を受け、午後1時20分ごろ下校。

約10分後、忘れた草履袋を取りに学校へ戻った。

再び学校を出た後、今野健から
「遊んで行け」
と声を掛けられた。

今野宅へ入った後、誘拐の意図を察したとみられ、
「父ちゃんに言いつける」
という趣旨の言葉を発した。

その後、今野から暴行を受け、木綿のひもで首を絞められて死亡。

遺体は床下、物置へと移され、
最終的に3月2日、小学校付近の道路脇へ遺棄された。

【吉田隆之助】

大治君の父。

史料上では宮城県立農業館長を務めていた人物。

息子が帰宅しないため、2月12日夜に警察へ相談。

最初は、
「友達のところへ遊びに行ったのかもしれない」
という程度の届け出だった。

しかし2月14日、二十万円を要求する脅迫状を受け取る。

犯人から、
警察へ知らせるな、
一人で金を持ってこい、
指定された方法で金を包め、
など細かい指示を受ける。

息子が生きている可能性を信じ、身代金要求への対応を迫られた。

しかし実際には、大治君は手紙が届く以前に殺害されていた。

【今野勇記】

今野健の父。

元小牛田農林学校長。

事件の直接の共犯ではない。

今野健が遺体を自宅に隠していた時期、父親が病気で家にいたため、健は遺体を外へ運び出しにくかったと供述している。

そのため、遺体の処理が長引いた一因となった。

【小牛田地区警察署・小牛田巡査駐在所】

最初に大治君の行方不明届を受けた警察側。

当初は事故の可能性を考え、消防団とともに川、沼、池、井戸などを捜索。

脅迫状が届いた後は、誘拐事件として捜査体制を強化した。

【地元消防団・小牛田町の住民】

事件初期の大規模捜索に参加。

13日には約200人が少年を探した。

さらに脅迫状の指紋捜査では、住民が指紋提供に協力。

三日間で約3000人分の指紋が集まったと犯罪史は記録している。

【宮城県警察の鑑識担当者】

脅迫状を硝酸銀で処理し、潜在指紋を検出。

大量に集められた住民指紋と照合し、
今野健の指紋との一致を確認した。

現在のような自動指紋照合システムはない。

一枚一枚、人間が比較する時代である。

事件解決の中心には、この地道な鑑識作業があった。

■事件発覚

事件の始まりは、2月12日午後。

大治君が学校から帰ってこない。

それだけだった。

父親は夜、警察へ連絡した。

【再構成会話】
父「子供がまだ帰ってこないんです。友達のところにいるだけかもしれませんが、何か連絡があったら知らせてください」

警察も当初、犯罪とは考えなかった。

二月。
氷滑りが好きな子供。

川や沼へ落ちた可能性がある。

消防団とともに捜索した。

しかし翌朝になっても見つからない。

13日には約200人が町を捜した。

そして14日。

父親へ脅迫状が届く。

「身代金二拾万円」

この一文で、事件は行方不明から誘拐へ変わった。

さらに3月2日。

道路脇から大治君の遺体が発見される。

誘拐事件は、誘拐殺人事件だったことが確定した。

・犯人の生い立ち

・事件の前兆

・当日の詳細

・逮捕

・裁判

・判決

・まとめ