自序 現代文

私のように、筆や紙、墨、硯、万年筆、インク、書籍などを与えられ、獄中にありながら自分の考えを書き残すことを許された者は、そう多くはないだろう。

まして、刑務所の中にいる人間が、自分のこれまでの人生を振り返り、その心の動きまで文章にして世に残す機会を与えられるというのは、非常に珍しいことである。

だから私は、この機会を無駄にしたくないと思う。

人間というものを考えてみると、罪を犯したからといって、その人間のすべてが最初から悪であったとは限らない。

人は、それぞれ異なった性質を持って生まれてくる。

さらに家庭、教育、生活環境、貧富、社会、周囲の人間、偶然の出来事など、数え切れないほど多くのものから影響を受けながら成長していく。

そうして長い年月を経るうちに、ある者は善い方向へ進み、ある者は悪い方向へ進む。

もちろん、人間が犯した罪そのものを軽く考えてよいわけではない。

しかし、その人間がなぜそこまで堕ちていったのかを考えず、ただ「悪人だから」「人殺しだから」と片づけてしまうだけでは、本当の意味で人間を理解したことにはならないと思う。

私自身の過去を振り返ってみても、今日の私が突然出来上がったわけではない。

私の性質にも原因があり、家庭にも原因があり、育った社会にも原因があった。

幼いころから、私は普通の子どもとは違った生活を送った。

九歳のころには親元を離れ、他人の飯を食べなければならなくなった。

まだ人間として何も分からないような年齢で、規律も道徳教育も十分ではない職人たちの世界へ入っていった。

そこでは、大人たちの粗野な言葉や行動を嫌でも見聞きすることになった。

そして子どもである私自身も、その環境の中で少しずつ変わっていった。

まだ少年であるうちから男女のことを知り、やがて普通ならば知らなくてもよいようなことまで覚えていった。

年齢を重ねるにつれ、私の行為はしだいに悪い方向へ進んだ。

少年時代にはすでに少女を傷つけるような行為をするようになり、ついには人の命まで奪う罪を犯すに至った。

今になって考えれば、どこか一か所で違う方向へ進むことができていたなら、その後の人生も違ったものになったかもしれない。

しかし、その当時の私は、自分がどこへ向かっているのかさえ分かっていなかった。

私は自分の欲望に引きずられ、その場その場の衝動によって生きていた。

そして、とうとう刑務所へ入れられた。

世間から見れば、私は悪人である。

人殺しである。

多数の人を傷つけた犯罪者である。

そのことに間違いはない。

獄中に入ってから、私は何度も自分自身に問いかけた。

――こんな人間が、生きていて何になるのか。

――死んだほうがよいのではないか。

そう考えることもあった。

心の中から、

「死ね」

「お前のような人間が生きていて何になる」

という声が聞こえてくるように思えることさえあった。

自分がこの世に存在する意味など、何もないのではないか。

そう思った。

しかし、それでも私は生きていた。

そして不思議なことに、涙が出た。

自分の犯したことを考え、自分が傷つけた人々を思うと、涙が流れた。

そのとき私は思った。

この涙が流れるということは、自分の中に、まだ何かが残っているのではないか。

完全に人間としての心を失ってしまったわけではないのではないか。

それから私は、本を読むようになった。

宗教や哲学、人間について書かれたものを読み、自分とは何者なのかを考え始めた。

仏教の教えについても考えた。

人間の善悪についても考えた。

運命についても考えた。

私は本当に自分自身の意志だけで生きてきたのだろうか。

それとも、自分でも分からない大きな力に押されながら、今日まで進んできたのだろうか。

考えれば考えるほど、人間というものが分からなくなった。

それならば、自分自身を材料にして考えてみよう。

自分がどこで生まれ、どのような家庭で育ち、何を見て、何を聞き、何を覚え、どこで道を誤ったのか。

それを出来るだけ正直に書いてみよう。

美しく書く必要はない。

自分を善人に見せる必要もない。

自分の罪を隠す必要もない。

自分という人間が、どのように出来上がったのかを書き残してみたい。

それによって、これから生きていく人々が、わずかでも何かを考える材料を得ることができるなら、この文章にも意味があるだろう。

人間の善悪は、結果だけを見て判断できるほど単純ではない。

私自身の生涯を見てもらえば、そのことの一端は分かるのではないかと思う。

そして、この世に再び私のような人間を生み出さないためには何が必要なのか。

それを考えてもらいたい。

私は、そのためにこの本を書く。

大正十三年十一月一日。

長野刑務所上田支所内の独居房にて。

神州麿 記す。

編者序 現代文

吹上佐太郎という名前は、今なお多くの人々の記憶に残っていることだろう。

彼は関東・東北地方の各地を渡り歩き、多数の少女に対して犯罪を重ねた人物である。

編者の記述によれば、その被害者は九十人余りに達し、そのうち数名は命まで奪われたという。

そのため世間では、吹上佐太郎という名前を聞いただけで、恐ろしい犯罪者、異常な人間という印象を持つ。

それは当然のことである。

しかし、ここで考えてみなければならないことがある。

吹上佐太郎という人間は、最初から現在のような犯罪者として生まれてきたのだろうか。

生まれ落ちた瞬間から、将来このような罪を犯すことが決まっていたのだろうか。

もちろん、そんなはずはない。

彼にも幼児期があった。

少年時代があった。

親があり、家庭があり、生活があり、社会があった。

それらの中で成長し、しだいに今日知られている吹上佐太郎という人間になっていったのである。

犯罪そのものを裁くことは必要である。

しかし犯罪だけを見て、犯罪を犯した人間そのものを研究しないのでは、犯罪というものの本質を理解することはできない。

なぜ犯罪が起こったのか。

その人間にはどのような性質があったのか。

家庭はどうであったのか。

どんな教育を受けたのか。

誰と交わり、何を見て成長したのか。

社会はその人間にどのような影響を与えたのか。

そうしたことまで調べなければ、犯罪の原因を知ることはできない。

近年、犯罪学や犯罪心理学が進歩し、犯罪者そのものを研究しようとする考え方が広まってきた。

単に刑罰を与えればそれでよいという時代ではなくなりつつある。

なぜ犯罪者が生まれるのかを研究し、それによって将来の犯罪を防ぐことが重要になっている。

その意味から考えると、吹上佐太郎自身が書いたこの文章には、非常に大きな意味がある。

普通なら、研究者が犯罪者を観察し、その人物について文章を書く。

しかし本書は違う。

犯罪者本人が、自分の幼少期から現在までを振り返り、自分の心の中まで書いているのである。

これは犯罪心理を研究するうえで、きわめて珍しい資料である。

もちろん、本人が書いたものである以上、すべてをそのまま客観的事実と考えることはできない。

自分を正当化しようとする部分もあるだろう。

記憶違いもあるだろう。

思い込みもあるだろう。

それでも、一人の犯罪者が自分自身をどう見ているのかを知る資料として、その価値は失われない。

吹上の文章は、決して読みやすいものではない。

独特の表現があり、難解なところもあり、突然話題が飛ぶところもある。

言葉遣いにも彼独自の癖がある。

そこで出版に際しては、多少整理する必要があった。

しかし、あまり手を加えてしまえば、吹上本人の考え方や心理まで失われてしまう。

そのため、できるだけ原文の性格を残しながら、必要最低限の整理にとどめることにした。

この本を出版する目的は、吹上佐太郎を弁護することではない。

また、その犯罪を軽く見ることでもない。

彼の犯した罪そのものについては、法の裁きを受けるほかない。

しかし、彼のような犯罪者がなぜ生まれたのか。

そして、同じような人間を将来生み出さないためにはどうすればよいのか。

そこに、この本を世に出す意味がある。

犯罪者を単に社会から排除するだけでは、犯罪そのものはなくならない。

犯罪が生まれる原因を研究し、その原因を出来るだけ早い段階で取り除く必要がある。

吹上自身も、この本の中でそのことを繰り返し述べている。

彼は自分の幼少期を振り返り、貧困、教育の不足、家庭の乱れ、周囲の環境などが自分に大きな影響を与えたと考えている。

それがどこまで正しいのかは、読者が判断することである。

われわれ編者は、その判断材料を出来るだけ原形に近い状態で世に提供しようと考えた。

専門家にも、一般の読者にも、この一冊を一人の犯罪者の告白としてだけではなく、人間と犯罪について考える材料として読んでもらいたい。

大正十五年秋。

藁谷政雄 記す。

刊行前の書簡 現代文

さて、今朝見せていただいた花井先生の題辞を拝見し、私はこの上なく嬉しく思いました。

私は先生と直接お会いしたことはありません。

しかし子どものころから、ある事件を通じて先生の名前を知り、その後も先生の名声を耳にしてきました。

私にとっては、大岡といえば名奉行を思い出すように、弘法といえば弘法大師を思い出すように、弁護士といえば花井先生を思い出すほどでした。

それほど先生の名前は、私の頭の中に深く刻まれていたのです。

ですから、今回先生から言葉をいただいたことを、私は大変ありがたく思っています。

私は犯罪者です。

そして、もう長く生きることのできない身です。

しかし、自分のような人間がなぜ出来上がったのかを考えれば考えるほど、子どもを育てる環境というものがどれほど重大であるかを痛感します。

子どもにひもじい思いをさせないこと。

学齢になった子どもには、必ず教育を受けさせること。

子どもが遊ぶべき時には十分に遊ばせること。

親や家庭というものを、恐ろしい場所ではなく、ありがたく楽しい場所だと思わせること。

そして子どもの前で、みだらな言葉や行為を見せないこと。

こうしたことは、犯罪を防ぐうえで決して小さな問題ではないと私は思っています。

私は自分自身の過去を振り返って、そのことを痛切に感じています。

どうかこの考えも、先生にお伝えください。

大正十五年九月十六日。

菊谷大兄侍下。

吹上佐太郎

序詞

一、右向け! 左向け! オッチニ、三!

仏教では、大乗・小乗を通じ、人間の迷いや煩悩は「無明」、つまり物事の本当の姿を知らないことから生じ、それが悪い行為の原因になると説いている。

キリスト教では、人間は祖先から罪を受け継いだ存在であると説く。

一方、近代の科学や哲学では、人間の性質には遺伝が大きく関係し、生まれながらに持っている性質の中には、簡単には変えることのできないものがあると考えている。

このように、人間というものを説明する考え方は数多く存在する。

しかし、どの説か一つだけで、人間のすべてを説明することができるだろうか。

私はそうは思わない。

人間というものは、そんなに単純なものではない。

一人の人間の中には、実に多くのものが入り込んでいる。

親から受け継いだもの。

家庭から受けた影響。

幼いころに見聞きしたこと。

教育。

貧富。

社会。

時代。

出会った人間。

経験。

偶然。

そうしたものが幾重にも積み重なり、一人の人間を形作っていく。

世の中には、同じ親から生まれながら、まるで違った人間になる兄弟がいる。

同じ場所で育っても、一人は善人になり、もう一人は犯罪者になることもある。

では、その違いはどこから生まれるのか。

遺伝だけでは説明できない。

環境だけでも説明できない。

教育だけでも説明できない。

いくつもの原因が重なり合って、一人の人間の人生が出来上がっていくのである。

野や山に咲く草花を見ても、同じものは一つとしてない。

色も違えば、形も違う。

人間も同じである。

同じように見えていても、心の中までまったく同じ人間など存在しない。

私たちは普通、

「自分は自分の意思で生きている」

と思っている。

確かに、人間には意思がある。

しかし、本当に人間は、自分一人の意思だけで生きているのだろうか。

自分が生まれる場所を、自分で選ぶことができただろうか。

親を選ぶことができただろうか。

貧しい家に生まれるか、裕福な家に生まれるかを選ぶことができただろうか。

男として生まれるか、女として生まれるかを決めることができただろうか。

どの時代に生まれるかも、自分では決められない。

そう考えると、人間の人生には、自分の力だけではどうにも出来ないものが非常に多い。

歴史上の英雄や偉人についても同じである。

偉大な政治家、軍人、学者、芸術家、発明家。

彼らが偉大な仕事を残したのも、本人の才能だけによるものではない。

その才能を生み出したものがあり、その才能を育てる環境があり、それを発揮できる時代と機会があった。

もし、それらが違っていたなら、その人間の一生もまったく違ったものになっていたかもしれない。

ナポレオンほどの人間でさえ、最後にはセントヘレナという孤島で生涯を終えた。

あれほど巨大な力を持った人間でさえ、自分の思い通りに人生を終えることはできなかったのである。

そう考えると、人間の意思とはいったい何なのだろう。

運命とは何なのだろう。

人間は本当に自由なのだろうか。

私はそんなことを考える。

だが、だからといって、

「すべて運命なのだから、人間には責任がない」

ということにはならない。

人間は、自分に与えられた条件の中で生き、その中で行動を選ぶ。

その行動には責任が伴う。

私自身も同じである。

私がどんな家庭に生まれ、どんな環境で育ったとしても、私が実際に犯した行為までなくなるわけではない。

私の罪は私の罪である。

それでもなお、

「なぜ、その罪を犯す人間になったのか」

という問題は残る。

私は、その問題を考えたいのである。

たとえば、生まれたばかりの赤ん坊の心を、何の色もついていない白いものだと考えてみる。

その白い心を持った子どもが、「貧困」という黒い墨つぼの中へ落ちたとする。

さらに、その子どもを扱う者が、未熟な染色職人だったとする。

その子どもは、いったい何色に染まるだろうか。

出来上がったものだけを見て、

「なぜ黒くなった」

と責めるのは簡単である。

しかし、その前に、

なぜ黒い染料の中へ落ちたのか。

誰がその子どもを扱ったのか。

そこを考えなければならない。

犯罪者についても同じではないだろうか。

犯罪が起きれば、人々は怒る。

当然である。

被害を受けた者の苦しみを考えれば、犯罪者を憎むのも当然である。

しかし、それだけで終わってしまえば、次の犯罪者が生まれることを防ぐことはできない。

犯罪者が出来上がるまでの道を調べなければならない。

その人間の幼少期。

家庭。

学校。

仕事。

友人。

恋愛。

貧困。

欲望。

教育。

社会。

それらを一つ一つ調べて初めて、

「なぜこの人間が、この犯罪を犯したのか」

という問題に近づくことができる。

私は獄中にあって、自分自身についてそれをやってみようと思った。

自分の身体と心は、いったい何によって組み立てられたのか。

私は自分に問いかけた。

「ブラザー、お前という人間は、何で出来ているのだ」

と。

そうして一つずつ過去を振り返ってみると、自分という人間も、決して自分一人の力だけで出来上がったものではないことが分かってきた。

親から受け継いだもの。

幼いころの記憶。

飢え。

周囲の人間。

働いた場所。

そこで聞いた言葉。

そこで覚えた行為。

そうしたものが、私の中へ入り込んでいた。

もちろん、私はそれを理由に自分の罪を逃れようとしているのではない。

人間には責任がある。

私にも責任がある。

しかし、責任を問うことと、原因を調べることとは別の問題である。

罪を裁くことだけで満足してしまってはならない。

なぜ罪が生まれたのかまで考えなければならない。

そうでなければ、同じことは何度でも繰り返される。

私は自分の人生を、一つの実例として残したい。

立派な人間の生涯ではない。

むしろ、その反対である。

道を誤り、多くの人を傷つけ、最後には獄につながれた人間の生涯である。

しかし、それだからこそ、そこから分かることもあるかもしれない。

人間はどうして変わっていくのか。

善と悪はどこで分かれるのか。

人間の自由意志とは何なのか。

運命とは何なのか。

私は、自分自身の過去をたどりながら、それを考えていこうと思う。

二、新の運命(其の一)

はい。今回の9枚は、「序詞」の後半から「我が生涯(神州麿と色魔)」の「三、丹波の伯父」途中までです。

前回と同じく、古い言い回しをそのまま機械的に置き換えるのではなく、原文の意味・主張・一人称を残しながら、現在普通に読める日本語に直します。原文には同じ主張を繰り返す箇所がかなりあるため、そこは意味を損なわない範囲で文章として整理します。

なお、これから出てくる「運命・遺伝・犯罪・責任」などについての考えは、吹上佐太郎本人の主張を現代語化したものです。現在の科学的・法的見解として書き換えているわけではありません。

二、新の運命(其の一) 続き

人間には、生まれながらに備わっている欲望がある。

それは、誰かに教えられたから生まれるものではない。

食欲がそうであり、眠りたいという欲求がそうであるように、男女が互いを求める心もまた、人間が生き物として持って生まれたものの一つである。

だから、それをただ、

「悪いものだから考えるな」

「知らないほうがよい」

「子どもには教えてはいけない」

と言って隠したところで、その欲望そのものが消えてなくなるわけではない。

昔から、

「寝た子を起こすな」

という考え方がある。

子どもに男女のことを教えれば、それまで知らなかったことを知り、かえって悪い方向へ進むのではないかという考えである。

しかし私は、それだけでよいとは思わない。

知らないということと、欲望が存在しないということとはまったく別だからである。

人間の身体は、本人が知らないうちにも成長する。

子どもは青年になり、身体にも心にも変化が起こる。

そのとき何も教えられていなければ、自分の中で何が起きているのかさえ分からない。

周囲の大人が正しいことを教えなければ、子どもは友人や仲間から覚える。

その仲間も正しい知識を持っているとは限らない。

むしろ、面白半分の話や、下品な話から最初の知識を得ることのほうが多い。

そうして、間違った知識が身についてしまう。

これは決して小さな問題ではない。

人間の性質を無視し、ただ禁止するだけでは、かえって危険になることがある。

火というものを知らない子どもに、

「火に触るな」

と言うだけでは足りない。

なぜ火が危険なのか。

どう扱えばよいのか。

それを教える必要がある。

男女の問題についても同じではないか。

自然は、人間が子孫を残すために男女を作った。

動物も植物も、それぞれの方法によって次の生命を生み出していく。

花が咲き、実を結び、種を残す。

動物は異性を求め、子を産む。

人間だけが、この自然の法則から完全に離れて存在しているわけではない。

しかし人間には理性がある。

社会がある。

道徳がある。

法律がある。

だから、欲望があるからといって、何をしてもよいということにはならない。

必要なのは、欲望そのものを存在しないことにしてしまうことではなく、それを理解したうえで制御することである。

私は自分自身の生涯を振り返って、特にそのことを考える。

もし幼い時から正しい教育を受けていたなら。

もし周囲に違った人間がいたなら。

もし自分が最初に男女のことを知った場所が違っていたなら。

自分の人生は、どのように変わっていただろう。

もちろん、それだけですべてが違ったとは言えない。

人間の性質には、親から受け継いだものもある。

身体にもそれぞれ違いがある。

気質にも違いがある。

同じ教育を受けても、同じ人間にはならない。

しかし、生まれつきの性質だけですべてが決まるわけでもない。

遺伝。

家庭。

教育。

社会。

友人。

貧困。

仕事。

経験。

そして偶然。

それらが複雑に重なり合って、一人の人間が出来上がっていく。

だから一人の犯罪者を見て、

「悪い人間だから犯罪を犯した」

と言うだけでは、何も説明したことにはならない。

なぜ、その人間がそうなったのか。

そこまで調べなければならない。

犯罪者を罰することと、犯罪者が生まれた原因を考えることとは、別の問題なのである。

三、新の運命(其の二)

人間は、自分の意思ですべてを決めているつもりでいる。

しかし、実際にはそうではない。

生まれる国を選べない。

親も選べない。

男に生まれるか女に生まれるかも選べない。

健康な身体で生まれるか、弱い身体で生まれるかも、自分では決められない。

金持ちの家庭に生まれるか、貧しい家庭に生まれるかも同じである。

そして、生まれた時代も選べない。

戦争の時代に生まれる者もいれば、平和な時代に生まれる者もいる。

同じ性質を持った人間でも、時代と場所が違えば、その行為に対する評価まで違ってくる。

戦場で多くの人間を倒せば、英雄と呼ばれることがある。

しかし平時の社会で人を殺せば、殺人者として裁かれる。

国を奪えば征服者となることもある。

一人の財産を奪えば泥棒になる。

人間の善悪というものは、それほど単純ではない。

歴史上、英雄と呼ばれた者たちも、常に自分の思う通りに人生を送ったわけではなかった。

ナポレオンほどの人物でさえ、最後は孤島に送られた。

巨大な軍隊を動かし、多くの国を支配した人間でも、自分自身の最期を自由に選ぶことはできなかった。

偉人も犯罪者も、人間であることには変わりがない。

人間として生まれ、身体を持ち、欲望を持ち、環境の中で生活する。

では、どこから偉人と犯罪者の違いが生まれるのだろう。

私はそこに「運命」というものを考えずにはいられない。

しかし私は、

「運命だから何をしても仕方がない」

と言いたいのではない。

自分のしたことに責任がないと言っているのでもない。

私が犯した罪は私自身の罪である。

それを他人に押しつけるつもりはない。

だが、

「罪を犯した人間を処罰したから、それで問題は解決した」

と考えることも間違っていると思う。

一人を刑務所へ入れても、同じような条件の中から次の犯罪者が生まれてくるなら、社会は何も学んだことにならない。

犯罪者を裁く者は、犯罪そのものを見るだけではなく、犯罪者という人間も見なければならない。

その人間が、

どこで生まれたか。

どのような親に育てられたか。

どんな教育を受けたか。

何を食べ、どこで働き、誰と付き合ったか。

何を見て、何を聞いて育ったか。

そうしたことまで調べて初めて、犯罪の原因へ近づくことができる。

人間は生まれた瞬間から、一人で生きているのではない。

無数の人間と社会の影響を受けながら作られていくのである。

四、疑妙

考えれば考えるほど、人間というものは不思議である。

生命はどこから来るのか。

なぜ人間には男と女があるのか。

なぜ同じ親から生まれた兄弟でありながら、性質がまったく違うことがあるのか。

なぜ、善良な家庭から犯罪者が生まれることがあり、悪い環境の中から立派な人物が出てくることもあるのか。

科学は多くのことを明らかにしてきた。

遺伝についても研究が進んでいる。

身体の構造についても、人間がどのように生まれるのかについても、昔とは比べものにならないほど多くのことが分かるようになった。

しかし、それですべてが説明できるだろうか。

同じ血を受け継いでも、同じ人間にはならない。

同じ家で育っても、同じ性質にはならない。

同じ教師から教えられても、同じ思想を持つとは限らない。

そこには、私たちの知識だけでは説明しきれない何かがある。

私は、それを運命と呼ぶことがある。

あるいは自然の力と呼んでもよいのかもしれない。

人間が自然を完全に支配していると思うのは思い上がりである。

むしろ人間もまた、自然の中に存在する一つの生物にすぎない。

五、南柯の一夢

夏の夜。

一日が終わり、あたりが静かになると、人間の考えは不思議なところまで広がっていく。

空には月がある。

星がある。

風が吹く。

草木が揺れる。

そのようなものを眺めていると、人間の一生など、巨大な自然の中ではほんの一瞬にすぎないように思えてくる。

春に芽を出した草は、夏には茂り、秋には枯れ、冬には姿を消す。

だが翌年になれば、また新しい芽が出る。

花も同じである。

一つの花は散っても、その生命は種となって次へ伝わっていく。

動物も死ぬ。

人間も死ぬ。

しかし生命そのものは、子から孫へと続いていく。

そう考えると、一人の人間の人生は、大きな生命の流れの中のわずかな一区間なのかもしれない。

人類の歴史も同じである。

文明が起こる。

国家が栄える。

やがて滅びる。

また別の文明が起こる。

英雄が現れる。

その英雄も死ぬ。

王も死ぬ。

学者も死ぬ。

犯罪者も死ぬ。

どれほど大きな仕事をした人間であっても、最後は生命を終える。

それでも人類そのものは続いていく。

その長い流れを思うと、私たちが日々、

「自分が、自分が」

と言って争っていることさえ、一夜の夢のようにも思えてくる。

まさに南柯の一夢である。

六、謎――時――死!

時間というものは不思議である。

誰にも止めることができない。

富豪にも止められない。

皇帝にも止められない。

科学者にも止められない。

一秒、一分、一時間と、時間は確実に進んでいく。

そして人間は、その時間とともに死へ近づいている。

生まれたということは、同時に死への第一歩を踏み出したということでもある。

だが、人間は普段、それを意識しない。

明日も生きているものと思っている。

来年もあると思っている。

十年後もあると思っている。

しかし、いつ死がやってくるかは誰にも分からない。

自然界では、生と死が繰り返されている。

古いものが死に、新しいものが生まれる。

植物も動物も、永遠に同じ個体が生き続けることはない。

人間も例外ではない。

では、死とは何なのだろう。

すべてがなくなることなのか。

それとも、一つの形が壊れ、別の形へ移ることなのか。

身体は死ねば土へ戻る。

身体を構成していた物質は、この地球から消えるわけではない。

また別のものの一部になる。

そう考えていくと、「生」と「死」を完全に切り離すことさえ難しくなる。

私は獄中にいる。

死というものを、普通の人間より身近に考えざるを得ない。

だからこそ、命とは何なのか。

人間とは何なのか。

生きるとは何なのか。

それを何度も考える。

しかし、考えれば考えるほど分からなくなる。

最後に残るのは、大きな謎である。

七、我が精神

人間の心は、身体と切り離して考えることができるのだろうか。

心だけが独立して存在しているのだろうか。

身体の状態が変われば、心も変わる。

病気になれば気分も変わる。

酒を飲めば判断も変わる。

疲労すれば怒りやすくなることもある。

眠らなければ正常に物事を考えることさえできなくなる。

そうであるならば、人間の精神というものも、身体と深く関係しているはずである。

親から受け継いだ体質もある。

脳にも個人差がある。

男女にも身体的な違いがある。

原文では、当時の遺伝学や男女の生殖に関する研究を引きながら、染色体や遺伝の組み合わせについても考えている。

私はそこから、人間の性質というものは、

「本人がそうなろうと思ったから、そうなった」

というほど単純ではないと考える。

生まれつき持っているものがある。

生まれてから身につけるものもある。

さらに社会から与えられるものもある。

そのすべてが混ざって「自分」という人間になる。

人間は自分自身の存在を過大に考えている。

だが、実際のところ、自分で選んだものばかりではない。

だからこそ教育が重要なのである。

子どもは、まだ性質が固まりきらないうちに、大人から多くのものを受け取る。

親の言葉。

親の行為。

家庭の雰囲気。

教師の態度。

友人との交際。

貧困。

労働。

そうしたものが少しずつ心の中へ積み重なっていく。

悪い種を植えれば、悪い芽が出る可能性が高くなる。

良い環境を与えれば、良い方向へ進む可能性も高くなる。

もちろん、これも絶対ではない。

人間は機械ではないからである。

しかし、

「犯罪を犯したら罰すればよい」

だけでは足りない。

犯罪者が生まれてから処罰するより、犯罪者が生まれにくい社会を作るほうがよいに決まっている。

そのためには、家庭と教育を考えなければならない。

子どもを飢えさせないこと。

必要な教育を与えること。

遊ぶべき年齢には遊ばせること。

子どもの前で大人が悪い見本を見せないこと。

そして、子どもの疑問に対して、ただ叱るのではなく正しい知識を与えること。

これらは、一見すると犯罪とは関係がないように見える。

しかし長い年月で考えれば、非常に深い関係がある。

私は自分自身を一つの材料として、それを示してみたい。

立派な人物の伝記ではない。

成功者の話でもない。

罪を重ね、最後には獄につながれた人間の生涯である。

だからこそ、

「人間はどのようにしてここまで変わるのか」

を考える資料にはなるかもしれない。

ここまで考えたところで、私は一般論を離れ、自分自身の生涯について書くことにする。

我が生涯

――神州麿と色魔――

出生より十九歳の春に至る

一、秘密

私はこれから、自分の生涯を振り返って書こうと思う。

悪の淵へ引きずられ、ついには普通の人間の生活圏から追い出され、犯罪者として生きなければならなくなった私は、いったいどのような父母を持ち、どのような家庭に育ち、どんな環境の中で、どのような道を通って今日まで来たのか。

古い記憶を呼び起こしながら、自分の歩いてきた道を描いてみたい。

しかし、人間には誰にでも秘密がある。

どんなに親しい人にも言えないことがある。

秘密を秘密として守らなければならない場合もある。

国家には国家の秘密がある。

職務には職務上の秘密がある。

家庭には家庭の秘密がある。

友人同士にも秘密がある。

秘密を何でも口にしてしまう者が賢いとは思わない。

むしろ、言うべきでないことを黙っていられる人間こそ信用できる。

特に難しいのは、家庭の秘密である。

私はこれから、自分の父や母について書かなければならない。

これほど書きにくいことはない。

自分の親の欠点を、平気で文章にできる者がいるだろうか。

親子の間には、他人には分からないものがある。

たとえ親に欠点があったとしても、それを世間へ向かって並べ立てることには抵抗がある。

しかし私が自分の生涯を書く以上、幼少時代の家庭を避けることはできない。

人間がどのように作られていったのかを書くためには、その人間を育てた家庭を書かなければならないからである。

だから私は、必要なところまでは書く。

ただし、書かなくても私の生涯を理解するのに差し支えない秘密については、無理に暴露しない。

読者にも、そのつもりで読んでもらいたい。

これから私が父母のことを書くとしても、

「親を悪く言う不孝者だ」

と、それだけで判断しないでもらいたい。

私が何を見て育ったのか。

何を感じたのか。

それが後の私にどのような影響を与えたのか。

そこを見てもらいたいのである。

二、我が京都の春

冬が去り、京都にも春がやってくる。

山の木々が長い眠りから覚め、枝には小さな芽が現れる。

北野天満宮の境内に入れば、梅が咲き始める。

白梅。

紅梅。

それぞれが違った姿を見せる。

白い梅には、静かで落ち着いた美しさがある。

紅い梅には、華やかで人の目を引きつける美しさがある。

春が進むにつれ、花は次々と開いていく。

やがて境内は多くの人で賑わう。

木の下には敷物が広げられる。

酒を飲む者がいる。

歌う者がいる。

踊る者がいる。

酔っぱらって騒ぐ者もいる。

午後になるころには、花を静かに眺める場所というより、大勢の人間が入り乱れる遊び場のようになってしまう。

京都の春というものは美しい。

しかし、その美しさの裏側には、別の京都もある。

観光客がやってくる。

すると案内人が寄ってくる。

寺や名所を案内するだけではない。

土産物屋へ連れて行く。

呉服屋へ連れて行く。

陶器屋へ連れて行く。

客がそこで品物を買えば、店から案内人へ金が渡る。

客が支払った金の何割かが、紹介料として案内人の懐へ入るのである。

そのため案内人は、客が本当に欲しいかどうかより、

「出来るだけ多く買わせよう」

とする。

大きな店へ連れて行けば、それだけ自分の取り分も増える。

客が小さな店で買おうとすれば、

「そんなところで買う必要はありません。もっとよい店がありますよ」

などと言って別の店へ連れて行く。

店側も案内人を大切にする。

観光客というものは、こうして自分でも気づかないうちに商売の仕組みの中へ取り込まれていく。

春の京都は美しい。

梅も美しい。

桜も美しい。

だが、その花を見に集まる人間たちの世界には、欲も金も商売もある。

美しいもののすぐそばに、人間臭い現実がある。

それもまた京都なのである。