玉の井バラバラ事件

腹をすかせた少女への善意から始まり、六年後に父親の切断死体が「お歯黒どぶ」へ浮かんだ事件

お歯黒どぶ 東京・玉の井 バラバラ事件

昭和7年。1932年3月7日。

■事件概要

昭和七年。

一九三二年三月七日。

東京・玉の井。

当時、玉の井といえば私娼街として知られていた。

細い路地。

小さな店。

窓辺に座る女性。

夜になれば男たちが歩く。

酒。

煙草。

化粧。

呼び込みの声。

そして町の一角には、生活排水などが流れる汚れた溝があった。

人々はそれを、

「お歯黒どぶ」

と呼んでいた。

三月七日の朝。

まだ玉の井が本格的に動き始める前。

そのどぶに、ハトロン紙に包まれた大きな塊が浮いていた。

近くにいた中島という男が気づく。

「何だ、あれは」

大きさ。

形。

紙包み。

当時の玉の井では、望まれずに生まれた乳児が捨てられる事件もあった。

中島は最初、

「例のやつだな」

と思った。

赤ん坊の遺体。

そう考えた。

交番へ知らせる。

警察官が来る。

紙包みを引き上げる。

開く。

そして空気が変わる。

中にあったのは乳児ではない。

成人男性。

胴体。

首がない。

両腕もない。

脚もない。

血液の付着。

人間の身体が、人為的に切り離されている。

「これは……」

「男だ」

「大人だぞ」

一人の男性が殺され、身体を切断され、玉の井のどぶへ投げ捨てられていた。

警察はすぐ周囲を捜索する。

「胴体だけを捨てるはずがない」

どぶをさらう。

泥。

ごみ。

腐った水。

人夫が入り、棒や道具で一つずつ探す。

別の包み。

また別の包み。

人間の身体の一部。

法医学者が調べる。

骨にはノコギリによる切断痕。

死亡は発見よりおよそ三週間前。

年齢は三十歳前後。

しかし、

誰なのか。

それが分からない。

頭部や手足を分けて捨てる。

顔。

指紋。

身体的特徴。

身元確認につながる情報を分断する。

現在ならDNA鑑定がある。

しかし昭和七年。

警察は、

「名無しの切断死体」

から捜査を始めるしかなかった。

事件は新聞を騒がせた。

玉の井。

どぶ。

切断。

生首。

バラバラ。

猟奇的な言葉が紙面に並ぶ。

だが犯人は見えない。

被害者すら分からない。

五十日以上。

捜査本部。

家出人。

失踪者。

捜索願。

一件ずつ照合。

それでも名前が出ない。

やがて新聞の熱も冷める。

「迷宮入りか」

警察内部にも焦り。

そこで捜査陣は奇妙な手を使う。

保存していた被害者の頭部を埋葬する。

新聞へ、

「生首埋葬」

と知らせる。

しかし単なる葬儀ではなかった。

刑事は墓を見張る。

「もし被害者を知る者がいるなら、墓へ来るかもしれない」

数日後。

一人の女が現れる。

菓子。

果物。

墓前へ置く。

刑事。

「あの女だ」

「追え!」

女は逃げる。

人混み。

見失う。

正体不明。

しかしこの女こそ、

長谷川とよ。

後に事件の中心人物となる女性だった。

被害男性と夫婦同然に暮らし、

さらに遺体切断・遺棄に関与した女性。

警察はその時、あと少しで事件へ届きかけていた。

それでも女を取り逃がす。

事件は再び止まる。

そして約四か月。

一人の警察官が被害者の復元写真を見る。

「この顔……」

どこかで見た。

思い出す。

以前。

子どもを連れて投身しようとした男。

警察官が助けた。

記録。

名前。

千葉龍太郎。

本稿では万代虎次郎。

二十八歳。

娘。

八歳。

本稿では万代美代子。

ついに、

「名無しの切断死体」

に名前が戻る。

そこから捜査は一気に動く。

虎次郎は数年前まで娘と東京をさまよっていた。

仕事なし。

食事にも困る。

浅草。

腹をすかせて泣く美代子。

そこへ現れた長谷川市太郎。

市太郎は少女へ食べ物を与える。

父親へ事情を聞く。

「仕事は?」

「ありません」

「奥さんは」

「死にました」

「娘と二人か」

「はい」

そして市太郎は、

「うちへ来ないか」

と言う。

善意だった。

路上生活に近い父娘。

食べるものもない。

市太郎は放っておけなかった。

しかし市太郎には妹がいた。

長谷川とよ。

三十歳。

男性に捨てられ、妊娠していた。

市太郎は考える。

妻を亡くした虎次郎。

男に捨てられたとよ。

「二人を一緒にすればいい」

いわば、

「割れ鍋に綴じ蓋」。

こうして虎次郎ととよは、夫婦同然に暮らす。

市太郎は父娘を救い、

妹にも家庭を与えたつもりだった。

ところが共同生活は崩れる。

虎次郎は、

「故郷には財産がある」

「田畑がある」

と言う。

旅費を出してもらう。

故郷へ。

しかし戻った時は一文無し。

さらに定職へ就かない。

美代子と虎次郎。

二人分の食費。

とよ。

乳児。

長谷川家。

負担。

不満。

夫婦関係も悪化。

とよは出産直後。

虎次郎は夫婦関係を求める。

とよは拒む。

険悪。

そして乳児が突然死亡。

原因は確定しない。

だが長谷川家は、

「虎次郎が殺したのではないか」

と疑う。

その疑念が家族の感情を決定的に変えた。

働かない。

財産話も嘘のように見える。

とよへ不満。

赤ん坊死亡。

そして昭和七年二月十三日。

虎次郎は酒を飲んで帰宅。

とよを蹴る。

「何するのよ!」

市太郎が見る。

積もっていた怒り。

「この野郎!」

裁縫用のコテ。

殴る。

虎次郎が倒れる。

弟・末次郎。

二十三歳。

バット。

頭部へ。

何度も。

虎次郎は動かなくなる。

殺害。

だが事件はそこで終わらない。

警察へ行く。

それを選ばない。

死体を隠す。

台所の床下。

約二週間。

死体と同じ家で生活。

腐敗。

臭い。

限界。

そこで市太郎。

末次郎。

とよ。

三きょうだい。

遺体を床下から引き出す。

ノコギリ。

頭。

腕。

脚。

胴体。

切断。

ハトロン紙に包む。

玉の井。

どぶ。

別の場所。

末次郎は勤務先にも一部を隠す。

そして三月七日。

水面。

紙包み。

死体が戻ってくる。

善意で始まった同居は、

六年後、

バラバラ殺人事件

へ変わった。

■いつ・どこで起きたか

殺害が起きたのは、

昭和七年二月十三日夜。

場所は東京市本郷区湯島方面の長谷川家。

資料では、虎次郎が長谷川家で共同生活を送っていたことが確認される。

一方、

事件が社会に発覚したのは、

昭和七年三月七日朝。

東京・玉の井。

お歯黒どぶ。

つまり、

殺人現場。

遺体隠匿場所。

切断場所。

遺棄場所。

発見場所。

が別々にある。

これが捜査を難しくした。

殺害現場へ警察が行けば、

血痕。

凶器。

家族。

動機。

すぐ捜査できる。

しかし最初に見つかったのは、

誰のものか分からない胴体。

殺害場所すら不明。

遺体は玉の井へ捨てられただけ。

犯人が玉の井に住んでいる保証もない。

被害者が玉の井の人間とも限らない。

警察は、

東京全体。

失踪者。

家出人。

行方不明者。

へ広げる必要があった。

■登場人物

【長谷川市太郎】

本事件の中心的加害者。

もともと万代虎次郎父娘を助けた人物。

浅草で腹をすかせて泣く八歳の美代子を見つけ、食べ物を買い与えた。

その後も父娘を気にかけ、

「うちへ来ないか」

と自宅へ迎えた。

妹・とよが未婚で妊娠していたため、妻を亡くしたと話す虎次郎と一緒に暮らさせた。

事件当夜、とよを蹴った虎次郎へ激昂。

裁縫用のコテで殴打。

弟・末次郎とともに虎次郎を死亡させる。

その後、死体を床下へ隠し、約二週間後に遺体切断と遺棄を実行。

捜査で追及され、自供。

【長谷川とよ】

市太郎の妹。

三十歳。

男性に捨てられた後、妊娠していた。

兄の取り計らいで虎次郎と夫婦同然に暮らすようになる。

出産後、夫婦関係をめぐり虎次郎と不和。

乳児が突然死亡した後、

「虎次郎が殺したのではないか」

という疑念を家族と共有する。

二月十三日の殺害時には恐ろしくなって外へ出たとされ、殺害そのものには加わっていない。

しかし後に、

市太郎。

末次郎。

とよ。

三人で遺体を切断・遺棄。

さらに警察が被害者の頭部を埋葬した際、墓へ菓子や果物を供えに行った。

刑事に追われるが逃げ切る。

【長谷川末次郎】

市太郎の弟。

二十三歳。

帝国大学工学部土木学教室に勤務していたと資料は記す。

二月十三日。

市太郎が虎次郎を殴ると、末次郎もバットで加勢。

虎次郎の頭部を殴り、死亡させる。

後の死体切断・遺棄にも関与。

遺体を包んだハトロン紙が勤務先で使われていたものと同種だったことも、捜査上重要な材料になった。

【万代虎次郎】

被害男性。

二十八歳。

幼い娘・美代子を連れ、東京で困窮生活。

妻とは死別したと周囲へ話していた。

一時は娘を連れて投身しようとし、警察官に救助された。

浅草で市太郎と出会い、長谷川家へ。

とよと夫婦同然に暮らす。

資料では、

働かない。

故郷に財産があると大言する。

性欲が強い。

とよと不和。

など、かなり否定的に描かれている。

ただし虎次郎は被害者であり、自分の側から事件経緯を法廷で説明することはできなかった。

特に乳児の死は、

虎次郎が殺した事実

ではなく、

長谷川家がそう疑った

という段階にとどまる。

【万代美代子】

虎次郎の長女。

八歳。

浅草で腹をすかせ、

「お腹すいた」

と泣いていたところを市太郎に助けられる。

父とともに長谷川家へ。

父が殺害された時、美代子が何を見ていたのか。

父の遺体が床下にあると知っていたのか。

どのような説明を受けたのか。

資料にはない。

しかし結果として、

一度自分を救ってくれた市太郎たちによって父親を失った。

【中島】

三月七日朝。

玉の井のお歯黒どぶに浮かんだハトロン紙包みを最初に発見した男性。

当初は乳児の遺体と思った。

交番へ通報。

事件発覚の第一発見者。

【身元を思い出した警察官】

氏名は資料に記載されない。

復元された被害者の顔を見て、

「以前、娘と投身しようとした男ではないか」

と記憶。

記録照会から虎次郎へたどり着く。

事件解決最大の転換点を作った人物。

■事件発覚

三月七日朝。

玉の井。

中島。

どぶ。

紙包み。

「例のやつだな」

交番。

巡査。

包みを開ける。

「……何だ、これは」

人間の胴体。

首。

腕。

脚。

ない。

通報。

寺島署。

捜査員。

現場。

「全部探せ」

どぶをさらう。

別の身体部分。

包み。

切断。

法医学。

ノコギリ痕。

死亡三週間。

三十歳前後。

新聞。

「玉の井バラバラ事件」

世間。

「誰だ」

「なぜ切った」

「どこで殺した」

しかし警察にも分からない。

犯人より先に、

被害者を探す事件

だった。

・犯人の生い立ち

・事件の前兆

・当日の詳細

・逮捕

・裁判

・判決

・まとめ