「猫の殺人」――西宮少女刺傷・墓地殺人事件 

兵庫県西宮市

■事件概要

兵庫県西宮市。

春の彼岸を間近に控えた、まだ朝晩の空気に冷たさが残る頃、一つの奇妙な刺傷事件が起きた。

町の一角に、小学生が使う鉛筆や封筒、学用品などを扱う小さな文房具店があった。店を切り盛りしていた女性には実子がなく、以前から一人の少女を養女として迎え、育てていた。

この養女は「森川秋穂」である。

秋穂は十六、七歳ほど。店に客が来れば養母を手伝い、近所の人々とも言葉を交わす、ごく普通の少女だった。

事件は、まだ夜が完全には明けきらない早朝に起きた。

眠っていた秋穂が突然、悲鳴を上げたのである。

「猫に咽喉を引っ掻かれた!」

その声で養母、森川千鶴が飛び起きた。

「秋穂、どうしたの?」

千鶴が駆け寄ると、少女の喉には傷があった。

だが、それは猫の爪で掻かれた傷ではなかった。

鋭利な刃物によって突き刺された刺創だった。

急所をわずかに外れていたため秋穂は命を取り留めたが、一歩間違えば、その場で命を奪われてもおかしくない傷だった。

警察は、何者かが家へ侵入し、眠っていた少女を襲った事件として捜査を開始した。

しかし、犯人の姿を秋穂は見ていない。

大金を奪われた形跡もない。

家中を荒らした跡も目立たない。

少女自身にも、殺されるほど恨まれている心当たりはなかった。

事件は、最初から理由の見えないものだった。

ところが数日後、西宮郊外の墓地で、中年女性が刃物で殺害される。

この女性は「生田未来」。

未来は、亡くなった自分の子供の墓を訪ね、手を合わせるために墓地へ来ていた。彼女の首から肩にかけては複数の刺し傷が残され、現場には激しく抵抗した痕跡があった。

少女刺傷事件と墓地殺人事件。

当初、二つを結びつけるものは何もないように見えた。

しかし捜査を進めると、墓地で不審な十五、六歳ほどの少年が目撃されていたことが分かる。

さらに西宮市内の学校では、ある少年が友人たちに大量の鉛筆や封筒を配っていた。

その文房具は、最初に襲われた秋穂の家の店で扱っていた品物と同種だった。

少年は新聞配達をしており、しかも秋穂の家にも毎朝新聞を届けていた。

早朝に家へ近づいても不自然ではない。

店の位置を知っている。

家の様子を知る機会もある。

そして、事件後には店の商品と同じ文房具を持っている。

墓地の目撃情報とも一致する。

警察は少年を逮捕した。

やがて少年は、文房具店への侵入、少女への刺傷、墓地での女性殺害まで、一連の犯行を自白したとされる。

まだ十代半ばの少年が、窃盗とみられる侵入から人への刺傷へ進み、短い間を置いて殺人にまで至った事件だった。

しかし、その少年がなぜそこまで急激に凶悪化したのか。

その最も重要な部分は、最後まで明確には残されなかった。

■いつ・どこで起きたか

原資料の掲載部分には、事件が発生した正確な西暦、月日、時刻は記載されていない。

分かっているのは、春の彼岸を間近に控えた頃だったこと、場所が兵庫県西宮市だったこと、最初の少女刺傷事件が夜明け前後の早朝に起き、その数日後に西宮郊外の墓地で女性殺害事件が起きたということである。

最初の現場は、小学校用品や文房具を扱う商店を兼ねた家だった。

店の裏手から入ることのできる場所があり、そこから土間を抜ければ、少女が眠っている場所へ近づくことが可能だった。

家族は前夜に戸締まりをしたつもりだったものの、完全に施錠していたかどうかについては絶対の確信がなかったらしい。

つまり犯人にとって、侵入そのものが極端に難しい建物ではなかった。

二つ目の現場は、西宮郊外の墓地。

墓石と木立が並び、場所によっては外からの視線を遮る。昼間でも人が途切れれば静けさが支配し、一人で墓参りをする女性が襲われても、すぐに第三者が気付くとは限らない環境だった。

偶然なのか、最初からそこを選んだのか。

資料だけから断定はできない。

ただし、殺人の二、三日前にはすでに、同じ墓地で少年が女性を睨みつけたり、別の女性を追いかけたりしていたという証言がある。

墓地は、殺人当日にだけ突然現れた場所ではなかった。

犯人少年はその前から、そこにいたのである。

■登場人物

【犯人少年――実名不詳】

原資料では実名が記録されていない。事件当時は十五、六歳程度と目撃され、少なくとも満十四歳を過ぎていた。学校に通う一方、早朝には新聞配達をしていた。家計には、友人へ大量の文房具を気軽に配れるほど余裕があるとは考えにくかったとされる。少女の家の文房具店にも新聞を配達していた。

【森川秋穂】

最初の事件の被害少女。十六、七歳ほど。文房具店を営む女性の養女として育てられていた。早朝、自宅で睡眠中に喉を刃物で刺された。目覚めた直後、「猫に咽喉を引っ掻かれた」と叫んだ。傷は急所を外れ、一命を取り留めた。

【森川千鶴】

秋穂の養母。文房具・学用品を扱う小さな店を営んでいた。少女の悲鳴で目を覚まし、猫の爪では説明できない喉の傷を発見した。後の再確認で、店の商品である鉛筆などが減っていたことに気付く。

【生田未来】

墓地殺人事件の被害女性。中年。亡くなった子供の墓参りのため墓地へ来ていたところ、刃物で襲われ死亡した。首から肩にかけて複数の刺し傷があり、現場には激しく争った痕跡があった。犯人少年との個人的関係や怨恨は、資料では確認されていない。

【墓地で少年を目撃した老婦人――氏名不詳】

殺人事件の二、三日前、同じ墓地で少年を目撃した。墓前で手を合わせた後、墓石の陰から自分を睨む少年に気付き、恐怖を覚えて墓地を離れた。

【少年に追いかけられた女性――氏名不詳】

同じ墓地で、少年に追われた経験を持つ女性。後に捜査で重要な目撃者となった。

【捜査に関わった検事――氏名は今回の掲載部分では確認できず】

『犯罪の縮図 検察38年の回想』の著者。少女刺傷事件と墓地殺人事件の現場へ赴き、捜査に関わった。事件解決後に大阪へ転任することになり、犯人少年を自ら詳しく取り調べられなかったことを後年悔やんでいる。

【警察捜査員たち】

二つの事件を捜査し、墓地での目撃証言、学校で配られた鉛筆や封筒、新聞配達という少年の日常行動を結びつけて容疑者を特定した。

■事件発覚

最初の事件が発覚したきっかけは、被害少女・森川秋穂の悲鳴だった。

まだ薄暗い早朝。

眠っていた養母の耳に、少女の声が飛び込んだ。

「猫に咽喉を引っ掻かれた!」

千鶴は跳ね起き、秋穂のもとへ向かった。

「猫? どこにいるの?」

だが、猫を探すどころではなかった。

秋穂の喉には、明らかに鋭利な刃物による傷があった。

秋穂自身は、睡眠中に突然強い痛みを感じて目を覚ましたため、何が起きたのか理解できていなかった。

警察や検事が事情を聞いても、答えは曖昧だった。

「何を見た?」

「分かりません」

「誰かの顔は見なかった?」

「見ていません」

「誰かが家に入ってきたのは分かった?」

「……分かりません」

眠りと覚醒の狭間で喉に激痛が走った。

その瞬間に少女の頭に浮かんだものが、「猫」だった。

だが実際には、人間が刃物を手にして少女のすぐそばまで近づき、その喉を突いたのである。

犯人は少女が目を覚ますより前に室内へ入っていた。

そして、少女が何者かを認識する前に襲い、逃げた。

顔の見えない犯人だった。

この奇妙な事件が、のちに一人の女性の殺害へとつながっていく。

■犯人の生い立ち

この事件を読むうえで最も知りたくなるのは、犯人少年がどのような家庭で育ち、どのような子供だったのかという点である。

しかし、今回の原資料には、その詳細がほとんど残されていない。

両親がどのような人物だったのか。

兄弟姉妹がいたのか。

幼少期に問題行動があったのか。

学校で孤立していたのか。

いじめを受けた、あるいはいじめを行っていたのか。

動物を虐待していたのか。

盗癖が以前からあったのか。

家庭内に暴力があったのか。

精神疾患や知的な問題があったのか。

そうしたことは、この資料からは一切断定できない。

分かっているのは、少年がまだ十五、六歳ほどの年齢で、少なくとも満十四歳を越えていたこと。そして学校生活を送りながら新聞配達をしていたことである。

朝、人々がまだ眠っている時間に少年は起き、新聞を抱えて町を歩いた。

薄暗い路地。

閉じた商店の戸。

眠ったままの家々。

新聞配達をする少年にとって、そうした時間の町は特別な場所ではなかったはずである。

「おはよう」と声をかけられることすら少ない時間帯。

足音を立てても、家の前に立っても、それだけで不審者とは思われない。

彼には、早朝の町を自由に歩ける「理由」があった。

それが新聞配達だった。

そして配達先の一つが、森川千鶴の文房具店だった。

少年は店の場所を知っていた。

いつ新聞を届ければよいのかを知っていた。

早朝には家の者がまだ眠っていることも想像できた。

何度も配達していれば、入口や裏手の様子も自然と目に入っただろう。

ただし、少年が最初から犯罪のために店を観察していたとまでは資料には書かれていない。

ここで区別しなければならないのは、「知る機会があった」ことと、「計画的に下見していた」ことは同じではないという点である。

さらに少年の家は、友人へ何本もの鉛筆や封筒を配れるほど経済的に余裕があるようには見えなかったとされる。

少年は事件後、学校で文房具を友人たちへ配っていた。

「これ、やるよ」

「え、いいの?」

「いいから持ってけ」

少年にとって、それは大げさに隠すべき戦利品ではなかったのかもしれない。

むしろ自分の持ち物を見せびらかすように、気軽に渡していた。

だが、その軽さが自分を追い詰めることになる。

犯人少年の生育歴を語る資料はない。

それでも事件当時の生活の断片だけを見ると、昼は学校、早朝は新聞配達という、外形上はごく普通の少年の日常があった。

そこに、家宅侵入、窃盗、人への刺傷、墓地での不審行動、そして殺人という別の顔が重なっている。

後に回想を書いた検事が最も知りたかったのも、この空白だった。

なぜ、文房具を盗む少年が、人を刺す少年になったのか。

なぜ、少女を刺しただけで終わらず、墓地で女性を追うようになったのか。

なぜ、ついには一人の母親を殺すところまで進んだのか。

検事は少年の動機と精神状態を、自分自身で詳しく確かめたかった。

しかし事件解決の頃、転任によって西宮を離れることになり、その機会を失った。

犯人少年の「生い立ち」は、この事件の中で最も大きな空白として残ったのである。

・事件の前兆

・当日の詳細

・逮捕

・裁判 詳細不明

・判決 詳細不明

・まとめ