昭和27年「田辺のふろ屋一家殺し」
大阪・田辺の銭湯で、一家四人が消えた夜
事件概要
昭和二十七年十二月十七日。
西暦一九五二年。
大阪市東住吉区田辺本町。
冬の日暮れが早い十二月の夕方、一軒の銭湯が、いつもの時間になっても店を開けなかった。
当時、家庭に内風呂があることはまだ当たり前ではない。
夕方になれば、仕事を終えた男たちが手拭いを肩に掛けてやって来る。
母親は子供の手を引き、洗面器に石鹸や手拭いを入れて店へ向かう。
常連客ならば、何曜日の何時ごろに行けば誰がいるのかまで知っている。
銭湯は単なる入浴施設ではない。
町の人々の日常そのものだった。
ところが、その日だけは違った。
戸が開かない。
客を迎える声がない。
人が出入りする気配もなかった。
「今日は休みなんか?」
近所の者が首をかしげた。
「いや、休むなんて聞いてへんけどな」
しばらく待っても、何も変わらない。
店の中では高野喜代子らが暮らしている。
誰か一人くらい姿を見せてもよさそうなものだった。
しかし、誰も出てこなかった。
やがて、
「これは、ちょっとおかしいんと違うか」
という声が上がった。
警察へ知らせが入った。
そして警察官が銭湯の中へ足を踏み入れた。
そこで、店が開かなかった理由が判明する。
中にいた者たちは、店を開くことができなかったのではない。
すでに殺されていたのである。
発見された死者は四人。
高野喜代子、三十歳。
石田正雄、三十一歳。
高野定子、二十四歳。
そして定子の幼い娘。
成人した男女だけではない。
まだ自分の身を守ることすらできない幼い子供まで、犯人の手によって命を奪われていた。
昔の事件史は、この事件を簡潔に、
「田辺のふろ屋一家殺し」
と記録している。
町のどこにでもありそうな銭湯。
毎日、人が裸になり、湯につかり、世間話をしていた場所。
その日常的な建物が、一夜にして四人殺害事件の現場となったのである。
そして警察が関係者を調べ始めると、さらに不気味な事実が浮かび上がった。
事件の直後から、銭湯に関係していた二人の若い男の姿が消えていた。
二人は兄弟だった。
兄弟の一人が正太郎。
そして弟。
二人は石川県七尾方面につながりを持つ若者だった。
大阪府警は、この兄弟を追うことになる。
大阪から石川へ。
そして東京へ。
やがて全国規模の捜査へ発展し、兄弟は警察の手に落ちる。
その後、正太郎が口を開いた。
そこから、銭湯の内部で起きた惨劇の輪郭が明らかになっていった。
いつ・どこで起きたか
事件が発覚したのは、昭和二十七年十二月十七日。
場所は大阪市東住吉区田辺本町だった。
当時の大阪は、敗戦から七年を経ていた。
街には少しずつ活気が戻っていた。
焼け跡には住宅が建ち、商店には商品が並び、人々の生活も戦時中の混乱からようやく抜け出そうとしていた。
だが、現在の大阪とは生活環境が大きく異なる。
その違いを象徴するものの一つが風呂だった。
まだ一般家庭への内風呂の普及率は低い。
そのため、町には多くの銭湯が存在していた。
夕方になると、そこは地域の社交場となる。
「今日は寒かったなあ」
「ほんまや。湯につからんと身体が冷えてかなわん」
そんな会話が飛び交う。
子供が浴室を走って大人に叱られる。
番台では店の者と常連客が言葉を交わす。
湯気が立ち上り、人々の声が反響する。
その何でもない日常が、町の生活だった。
事件現場となった銭湯も、そうした場所の一つだった。
高野喜代子は三十歳。
石田正雄は三十一歳。
高野定子は二十四歳で、喜代子の妹だった。
さらに定子には幼い娘がいた。
彼らはこの建物の内部で生活していた。
働く場所と暮らす場所が一体になった、当時では珍しくない生活である。
十二月十七日も、本来ならいつもと同じように一日が始まり、夕方には店を開け、客を迎えるはずだった。
だが、その夕方は訪れなかった。
正確には、夕方は来た。
町には日が暮れた。
常連客もやって来た。
しかし、銭湯の中にいた四人にとって、時間はすでに止まっていた。
・事件発覚
・犯人の生い立ち
・事件の前兆
・事件当日の詳細
・捜査
・逮捕
・裁判
・まとめ