少年一家惨殺事件――敗戦四か月前、長野県木沢村で起きた加藤一家の惨劇

事件概要

昭和二十年――一九四五年。

太平洋戦争の敗戦まで、あと四か月ほどしか残されていなかった。

日本の主要都市は連日のように空襲にさらされ、東京も大阪も焼けていた。

沖縄では地上戦が続いていた。

若い男たちは兵隊として戦地へ送られ、国内では食料も衣類も燃料も不足していた。

米は自由に買えるものではない。

砂糖も少ない。

衣類も不足する。

農村であっても、生産した米を自分たちだけで好きなだけ食べられる時代ではなかった。

国への供出があり、配給があり、一杯の白い米に現在とは比較にならない価値があった。

そんな戦争末期の昭和二十年四月二十七日。

長野県南部の山深い村で、一軒の農家が惨劇の舞台となった。

場所は長野県下伊那郡木沢村。

大字八日市場字赤沢十一番地。

農業と養蚕を営んでいた加藤松造一家の住宅である。

家の八畳間で、家族五人が凶器によって次々と襲われていた。

死亡していたのは、

母・加藤きよ子、四十四歳。

三女・加藤夏江、二十三歳。

四男・加藤信田、十二歳。

そして瀕死の状態で発見されたのが、

一家の主人・加藤松造、四十五歳。

二女・加藤和子、八歳。

だった。

五人はいずれも寝具の中にいた。

眠っているところを突然襲撃されたと考えられた。

頭や顔には激しい打撃を受けた傷が残っていた。

凶器として最初に使われたとみられたのは、玄能――大工仕事などで使う金づちの一種だった。

ところが襲撃の途中で、その柄が折れた。

普通ならば、そこで犯行をやめる機会があった。

しかし襲撃した人物は止まらなかった。

折れた玄能を捨て、今度は斧を手にしたとみられた。

資料は、その攻撃を「滅多切り」と表現している。

八畳間には血液が広範囲に飛び散り、家族は折り重なるように倒れていた。

公的な警察記録でさえ「凄惨」と記すほどの現場だった。

だが警察は、すぐに一つの異変に気づいた。

加藤家には、もう一人の息子がいた。

三男の加藤保、十七歳。

保だけが現場にいなかった。

死亡した家族の中にもいない。

重傷者の中にもいない。

しかも、家から保の衣類までなくなっていた。

そして捜査を進めると、事件の前日に一つの出来事があったことが判明する。

保が同じ村の住民宅から白米を盗んでいた。

そのことが両親に知られ、父・松造と母・きよ子から叱られていたのである。

翌日、家族五人が襲われた。

保だけが姿を消した。

衣類もなくなっていた。

警察は保の所在を追った。

そして事件から三日後の四月三十日。

加藤家から約三十町――現在の距離でおよそ三キロ余り離れた山林で、保は発見された。

だが、生きてはいなかった。

加藤保は猟銃によって自ら命を絶った状態で発見された。

十七歳だった。

そのため、保を逮捕することもできなかった。

取り調べることもできなかった。

犯行を認める供述も残らなかった。

なぜ家族五人が襲われたのか。

本当に白米窃盗を叱られたことが引き金だったのか。

それ以前から家族との間に何かがあったのか。

なぜ八歳の妹や十二歳の弟まで襲われたのか。

それを最も詳しく語ることのできた人物は、警察が事情を聴く前に死亡していた。

事件は後に、

「少年一家惨殺事件」

として犯罪史に記録されることになる。

いつ・どこで起きたか

事件が警察に知らされたのは、

昭和二十年四月二十七日、午後一時三十分ごろ。

場所は、

長野県下伊那郡木沢村大字八日市場字赤沢十一番地。

現在の飯田市南信濃地域につながる山間部である。

木沢村は山が迫り、谷が走り、その間に小さな集落が点在する土地だった。

都会のように家が隙間なく並んでいるわけではない。

一本山道へ入れば、人の姿が途切れる。

夜になれば暗闇が広がる。

加藤家は、そこで農業と養蚕を営んでいた。

養蚕は、当時の長野県農村にとって重要な現金収入源だった。

蚕を育てる。

桑を与える。

繭を作らせる。

農作業もある。

家族全員の労働によって一家の生活が成り立つ時代だった。

父の松造。

母のきよ子。

娘の夏江。

息子の保。

信田。

幼い和子。

事件前日まで、その家にも農村の普通の日常があった。

朝になれば起きる。

畑へ出る。

家業を手伝う。

食事をする。

日が暮れれば家へ戻り、夜になれば布団へ入る。

ところが四月二十七日。

その日常は、八畳間で完全に崩壊する。

事件発覚まで

四月二十七日午後一時三十分ごろ。

木沢村巡査駐在所に、緊迫した知らせが飛び込んだ。

資料に残る最初の内容は、

「一家五名が殺害されている」

というものだった。

現在のような一一〇番通報はない。

携帯電話もない。

山間部で重大事件が発生した場合、まず近くの駐在所へ知らせ、その駐在所から警察署へ連絡する。

木沢村巡査駐在所は、ただちに和田警察署へ急報した。

知らせを受けたのは、和田警察署長の橋爪署長だった。

一家五人。

もし本当ならば、一人の殺人事件とは規模が違う。

橋爪署長は署員を非常召集した。

警察官たちは木沢村へ急行した。

再現するならば、警察署では次のようなやり取りがあっただろう。

「木沢村の加藤家で、一家が殺されているそうです」

「何人だ」

「五人です」

「五人?」

「はい」

「全員を集めろ。現場へ向かう」

これは逐語的な記録ではない。

しかし五人が同時に襲われたという知らせが、警察署を緊張させたことは想像に難くない。

犯人がまだ村にいる可能性がある。

凶器を持って山へ逃げた可能性もある。

さらに別の住民を襲う可能性さえ否定できない。

警察官たちは加藤家へ向かった。

玄関を入り、家の中を確認する。

そして八畳間へ入る。

そこで見たものは、当初の通報以上に凄惨だった。

布団。

倒れた人間。

血痕。

折れた凶器。

斧。

五人の家族。

警察官は一人ずつ確認していった。

「この人は……」

「脈がない」

「こちらも死亡している」

「待て。こっちはまだ生きている」

父・松造には生命反応があった。

そして八歳の和子も、まだ生きていた。

しかし二人とも瀕死の重傷。

一方、きよ子、夏江、信田はすでに死亡していた。

最初の通報では「五人死亡」と思われていたが、警察到着時点では三人死亡、二人重傷だったのである。

そして捜査員は気づいた。

この家には、もう一人家族がいる。

「三男は?」

「保という十七歳の息子がいるはずです」

「どこだ」

家の中を探す。

いない。

遺体の中にもいない。

負傷者の中にもいない。

さらに調べる。

衣類もない。

ここから事件は、

「加藤一家を襲った犯人を探す事件」

であると同時に、

「加藤保はどこへ消えたのか」

を追う事件へ変わっていった。

犯人の生い立ち

加藤保――十七歳

事件の中心人物として捜査線上に浮かんだのは、加藤家の三男、

加藤保。

十七歳だった。

ただし、資料は、保の幼少期や性格について詳しく記録していない。

どの学校へ通っていたのか。

学校でどのような少年だったのか。

成績はどうだったのか。

友人はいたのか。

父・松造との関係は以前から悪かったのか。

母・きよ子との関係はどうだったのか。

粗暴な少年だったのか。

内向的だったのか。

少年時代から問題行動を繰り返していたのか。

そうしたことは分からない。

したがって、

「幼少期から残虐性を持っていた」

「家庭内で虐待を受けていた」

「父親を長年憎んでいた」

などと物語を作ることはできない。

確実なのは、保が十七歳で加藤家に暮らしていたということ。

農業と養蚕を営む家庭である以上、何らかの家業を手伝っていた可能性はあるが、それも具体的な仕事内容までは資料に残っていない。

現在の十七歳なら高校二年生ほどの年齢である。

だが昭和二十年は、少年を取り巻く社会環境そのものが現在とはまったく違う。

戦時中だった。

学校教育にも軍事色が強かった。

若者は勤労動員される。

十七歳ともなれば、家庭でも大きな労働力として扱われる。

大人に近い役割を求められる一方、現在の基準でもまだ未成年の少年だった。

しかも社会そのものが極端な緊張状態にあった。

食料不足。

徴兵。

空襲。

戦死。

供出。

国家総動員。

それでも、こうした時代背景が家族五人への襲撃を説明したり、正当化したりするものではない。

同じ時代に数千万の人間が生きていた。

大多数は、一家を襲うような事件を起こしていない。

保個人の中に何があったのか。

それを明らかにするには本人の供述が必要だった。

しかし、その機会は永遠に失われることになる。

・事件の前兆
・事件当日の詳細
・その後
・まとめ