昭和26年 仙台市元寺小路・満願寺境内強姦殺人事件
雪の墓地に残された青いリボン
昭和26年1月22日、1951年の冬
仙台市元寺小路の満願寺境内、墓地
■事件概要
昭和26年1月22日、1951年の冬。
仙台市元寺小路にあった満願寺の墓地で、18歳の若い女性が遺体となって発見された。
前夜から降った雪が墓石の間を白く覆っていた。
早朝の墓地は人通りも少ない。
午前7時30分ごろ、付近の住民が犬の鳴き声をきっかけに異変へ気づいたとされる。
雪の中に若い女性が倒れていた。
近づいて声を掛けても動かない。
首には、女性が身につけていた青色のリボンが残っていた。
通報を受けた仙台市北警察署は、直ちに現場へ捜査員を派遣し、市内の要所へ緊急配備を行った。
仙台市警察本部捜査部捜査課も応援に入り、満願寺墓地で現場検証が始まった。
遺体は東北大学医学部法医学教室へ運ばれ、解剖が行われた。
犯罪史に記された死因は、首を強く圧迫されたことによる窒息死。
さらに性的暴行を受けたことを示す所見が確認された。
死亡推定時刻は、前夜1月21日の午後10時前後とされた。
女性の所持品を調べると、ダンスホールの入場券が見つかった。
この小さな紙片が、捜査の方向を大きく決める。
やがて被害者の身元は、仙台市内に住む18歳の女性、深田霞子と判明した。
霞子は父・深田石蔵の四女だった。
事件前夜、二人の友人とともに仙台市中杉山通りにあったとされる「蘇州ダンスホール」へ出掛けていた。
そこで霞子と踊り、午後9時30分を過ぎたころに一緒に店を出た青年がいた。
細川清三。
18歳。
職業は大工。
細川はダンスを好み、前年の昭和25年8月ごろから蘇州ダンスホールへ頻繁に通っていた。
事件の夜もホールにおり、霞子と踊っていた。
警察が友人やダンスホール関係者から事情を聴くうち、
「最後に霞子と一緒にいたのは細川だった」
という事実が浮上した。
1月22日正午ごろ、警察は細川を任意出頭させた。
当初、細川は犯行を否認した。
霞子と一緒に帰ったこと自体は認めたものの、途中で別れた、家の近くまで送った、自分は最終市電で帰宅した、という趣旨の説明をした。
しかし、その説明には時間上の矛盾があった。
死亡推定時刻、満願寺と各地点の距離、市電の運行時刻、霞子と別れたとする時刻。
それらを重ねると、細川の話は自然につながらなかった。
さらに、事件当夜に着ていた細川の衣服が押収され、鑑定に回された。
犯罪史は、東北大学による鑑定で被害者側に残されていた付着物との関連を裏づける結果が得られたと記している。
最後の同行者。
崩れるアリバイ。
衣服に残った物証。
そして現場と死亡推定時刻。
追及の末、細川は警察で犯行を認め、
「私がやった」
と供述した。
自供によれば、二人はダンスホールを出た後、満願寺の墓地へ向かった。
細川は霞子に性的関係を求めた。
霞子は拒絶した。
それでも細川は要求を止めず、霞子が抵抗して助けを求めると、髪につけていた青いリボンを外し、首へ回した。
「騒ぐと絞めるぞ」
霞子は、
「助けて」
と叫んだとされる。
そこで細川は止まらなかった。
リボンを強く締め、霞子の抵抗を弱め、性的暴行に及んだ。
霞子は窒息死した。
わずか18歳だった。
事件はここで終わらなかった。
細川は警察では自供したものの、1月24日に仙台地方検察庁へ送致された後、供述を覆し、犯行を否認するようになった。
ところが、警察は初期の供述を録音していた。
1951年という時代を考えれば、極めて新しい捜査手法だった。
日本初の国産テープレコーダー「G型」が東京通信工業、後のソニーによって発売されたのは1950年5月であり、事件の前年にすぎない。
録音機の機種は犯罪史に記されていないが、「供述を音声として残す」という発想そのものが、戦後捜査の変化を象徴する。
細川は仙台地方裁判所で犯行を否認した。
しかし裁判所は初期供述だけではなく、被害者と一緒に行動していた事実、時刻関係、衣服の鑑定、周辺証拠などを総合し、有罪と認定した。
昭和26年7月20日。
仙台地方裁判所は、
「懲役5年以上10年以下」
の不定期刑を言い渡した。
細川は18歳であり、当時の少年法が適用された。
当時の少年法52条は、一定の有期刑について長期と短期を定める不定期刑を採用し、その上限を短期5年、長期10年としていた。
細川は控訴。
しかし昭和27年2月12日、仙台高等裁判所は控訴を棄却した。
同年3月3日、一審の「懲役5年以上10年以下」が確定した。
被害者も18歳。
加害者も18歳。
同じ戦争を子どもとして経験し、同じ敗戦後の仙台で青春期を迎え、同じ夜、同じダンスホールにいた二人だった。
しかし、一人はその夜で人生を奪われた。
もう一人は、その命を奪った罪で刑事裁判に立つことになった。
■いつ・どこで起きたか
事件が起きたのは昭和26年1月21日夜から22日朝にかけてである。
犯行時刻は、法医学上の死亡推定時刻から午後10時前後とみられた。
場所は仙台市元寺小路の満願寺境内、より正確にはその墓地だった。
現在の仙台駅周辺や本町、中央、花京院付近を知る人が、今日の明るい市街地だけから当時を想像するのは難しい。
仙台市の歴史的町名資料によれば、元寺小路の名は、この地域に定禅寺や満願寺などの寺院が並んでいたことに由来する。
仙台城の鬼門にあたる段丘上に寺院が置かれ、のちに一部が移転して侍丁となったことから「元寺小路」と呼ばれるようになったという。
つまり、事件現場は単なる空き地ではない。
城下町以来の寺町の記憶を残す場所だった。
昭和26年当時の仙台は、戦災からの復興途中にあった。
古い寺、墓地、細い道路、市電が残る一方、駅前や繁華街には新しい店が現れ、若者向けの娯楽も急速に増えていた。
その代表がダンスホールである。
仙台の歴史写真資料には、昭和24年に東一番丁の衣料百貨店の一角にダンスホールが開かれ、昭和25年から26年には「スターズ」「スターダスト」「クラブナショナル」などが相次いで開業したことが記録されている。
昭和24年建設の仙台ショーハウスにも二階にダンスホールがあった。
事件は、まさに仙台でダンス文化が広がっていた時代に起きた。
戦争中、日本ではダンスホールが閉鎖されていた。
敗戦後、再びダンスが人々の生活へ戻ってくる。
洋楽、レコード、生演奏、男女が向かい合って踊る文化。
それは戦争中の統制から解放された若者にとって、新しい時代を象徴する娯楽でもあった。
事件前夜、霞子が向かった「蘇州ダンスホール」も、そうした戦後文化の一角に存在した。
午後9時を過ぎる。
音楽が流れる。
若者たちが踊る。
外へ出れば、冬の仙台である。
路面には雪が残り、夜気は冷たい。
ダンスホールの明るさと、満願寺墓地の暗さ。
人の集まる場所と、人通りの絶える場所。
霞子はその夜、明るいホールから暗い墓地へ移動することになる。
そして翌朝、その場所で遺体となって見つかった。
■登場人物
【細川清三】
本事件の犯人として有罪判決を受けた青年。
昭和7年8月5日生まれと犯罪史に記されている。
事件当時18歳。
職業は大工。
犯罪史は、少年時代から交友関係が荒れ、酒や煙草に手を出し、女性関係も多かったという趣旨で細川の素行を書いている。
昭和25年8月ごろからダンスに興味を持ち、「蘇州ダンスホール」へ頻繁に通っていた。
事件当夜、霞子と踊り、午後9時30分過ぎに一緒にホールを出た。
警察で当初は犯行を否認したものの、証拠と時刻上の矛盾を追及され、「私がやった」と自供。
その後、検察段階で自供を撤回し、裁判でも犯行を争った。
一審で懲役5年以上10年以下。
控訴したが棄却され、刑が確定した。
【深田霞子】
仙台市小田原杉山田付近に暮らしていた父・深田石蔵の四女。
事件当夜、二人の友人とダンスホールへ出掛けた。
細川と踊り、その後、一緒に店を出た。
帰路で細川から性的関係を求められたが拒否した。
墓地でさらに要求され、抵抗し、助けを求めた。
その意思を無視した細川によって首を絞められ、性的暴行を受け、死亡した。
史料に残る彼女の個人的な情報は少ない。
好きだった音楽、仕事で何を目指していたのか、家族とどんな話をしていたのか、将来どんな人生を思い描いていたのか。
犯罪史はそこまで記録していない。
犯罪記録の残酷さの一つは、犯人については生い立ちや行動が詳しく残り、被害者については「18歳」「四女」「ダンスホールへ行った」といった断片しか残らないことである。
【深田石蔵】
霞子の父。
四女である霞子が前夜外出し、翌朝、突然「墓地で死亡していた」と知らされる立場となった。
家族がどのような言葉で知らせを受けたかは、犯罪史には記録されていない。
【霞子の友人二人】
実名は本稿の基礎資料では確認できない。
事件前夜、霞子と一緒に蘇州ダンスホールへ出掛けた。
捜査では、霞子の最後の行動を確定するうえで重要な証言者となったと考えられる。
少なくとも、霞子が細川と一緒に帰ったという事実が捜査線上に浮上する過程で、友人やホール関係者への聞き込みが重要な役割を果たした。
【仙台市北警察署の捜査員】
個々の氏名は資料の本文からは確認できない。
満願寺墓地の現場検証、聞き込み、細川の任意聴取、衣服の押収、供述の録音などを行った。
特に重要なのは、細川が警察で犯行を認めた際の供述を録音していた点である。
細川がのちに自供を撤回したため、この記録が供述の任意性や信用性を考えるうえで大きな意味を持った。
【仙台市警察本部捜査部捜査課】
北警察署を応援し、殺人事件として捜査に参加した。
1951年当時は現在の警察制度とは組織形態が異なっており、戦後警察制度の転換期でもあった。
【東北大学医学部法医学教室】
遺体の解剖を担当した。
死因を窒息死とし、死亡推定時刻を午後10時前後と推定。
性的暴行を示す所見も確認したと犯罪史に記録される。
また細川の衣服に関する鑑定も、事件の物証面で重要な役割を果たした。
【仙台地方裁判所】
昭和26年7月20日に一審判決。
細川を有罪とし、懲役5年以上10年以下の不定期刑を言い渡した。
【仙台高等裁判所】
昭和27年2月12日、細川側の控訴を棄却。
一審判断を維持した。
■事件発覚
1月22日、午前7時30分ごろ。
仙台の空がようやく明るくなってきたころだった。
前夜の雪は、墓地の地面や石の上に残っていた。
雪は犯人にとって都合の悪いものでもあった。
暗闇の中で行われた行為の跡が、白い地面に残りやすいからだ。
付近で犬がしきりに鳴いた。
住民が気づく。
墓地の一角に人が倒れている。
【再構成会話】
「人じゃないか」
「おい、大丈夫か」
返事はなかった。
近くへ寄ると若い女性だった。
雪の中に横たわり、動かない。
首元には青いリボンが見えた。
誰かが警察へ知らせる。
仙台市北警察署へ通報が入る。
警察官たちが現場へ到着すると、墓地はただの「人が倒れている場所」から、殺人事件の現場へ変わった。
人をむやみに近づけない。
足跡や雪の乱れを確認する。
遺体の姿勢を記録する。
所持品を確認する。
周囲に遺留物がないか調べる。
捜査員の視線は、雪の上へ向かった。
墓地へ人が入り込んだ跡。
そこで争ったような動き。
雪は犯行そのものを語らない。
だが、人がどちらから来たか、どこで立ち止まったか、複数の足跡があるかといった情報を残すことがある。
その時点では、女性の名前すら分からなかった。
【再構成会話】
「身元を先に割り出せ」
「昨夜、この近くで若い男女を見た者がいないか当たれ」
「所持品を全部確認しろ」
遺体は法医学教室へ送られた。
解剖結果は、事故や病死の可能性を消した。
死因は窒息。
首を強く締められていた。
さらに、本人の意思に反する性的暴行が行われたことを示す所見があった。
この時点で事件の性格は明白になった。
若い女性が夜、何者かによって墓地へ連れ込まれ、
暴力を受け、
首を絞められ、
命を奪われた。
そして、死亡したのは前夜午後10時前後。
警察が次に知る必要があるのは、
「その時間、彼女は誰といたのか」
だった。
所持品の中から、ダンスホールの入場券が見つかる。
捜査員にとっては一枚の紙切れである。
だが、その紙切れは「前夜の行き先」を示していた。
そこから事件は、満願寺墓地だけを調べる捜査から、前夜の霞子の行動を一時間、一分単位でたどる捜査へ変わっていった。
・犯人の生い立ち
・事件の前兆
・当日の詳細
・逮捕
・裁判
・判決
・まとめ
