昭和24年・盛岡木伏 母娘殺傷事件
酒席のあとに忍び込んだ21歳の元鉄道員 名久井熙の強盗殺人
昭和24年、1949年12月7日
岩手県盛岡市駅前の木伏地区
■事件概要
昭和24年、1949年12月7日未明。
岩手県盛岡市駅前の木伏地区。
盛岡駅から遠くない一軒の菓子製造業者の家で、一人の母親が殺され、十四歳の娘が重傷を負う事件が起きた。
犯人は21歳の青年、名久井熙。
かつて盛岡駅で鉄道小荷物を扱っていた元鉄道員だった。
名久井は、同じ職場にいた沼倉孝雄とともに鉄道小荷物の抜き取り窃盗を繰り返し、その不正が発覚したことで昭和24年5月に懲戒免職となっていた。
二人には合計20万7000円の賠償問題まで残された。
職を失った後、沼倉は盛岡駅近くの菓子製造業者・梅川八郎方に住み込みで働くようになった。
一方、名久井は定職に就けず、実家の下宿屋を手伝う程度の生活を続けていた。
それでも二人の交友は続いた。
12月6日の夜、名久井は沼倉を訪ね、梅川家の二階で焼酎を飲んだ。
午後11時ごろ、沼倉は泥酔し、そのまま寝込んだ。
名久井はいったん外へ出た。
しかし夜が遅くなったため、再び沼倉のところへ戻って泊めてもらおうと考えた。
家の外から沼倉を呼んだ。
返事がない。
二階では沼倉が酔いつぶれていた。
家の中も静かだった。
全員が眠っている。
そこで名久井は、史料の言葉を借りれば、
「ふと悪心を起し」
家に忍び込み、金品を盗もうとした。
仕事場のガラス戸から侵入した名久井は、座敷を探った。
しかし金は見つからない。
さらに奥へ進む。
そこでは、50歳の母・梅川まどかと14歳の娘・洋美が同じ部屋で眠っていた。
名久井は枕元を探した。
それでも金はない。
ついには布団の中へまで手を入れて金を探した。
その動きで母親が目を覚ました。
暗い部屋で、自分たちの布団を探っている男。
母親は異変に気づいた。
名久井は逃げなかった。
ズボンの後ろポケットに入れていた短刀を取り出した。
短刀は母親の胸付近を襲った。
母は痛みに声を上げた。
そして、
「泥棒! 泥棒!」
と叫びながら玄関方向へ逃げた。
名久井は追った。
ここで逃げれば、まだ一人を負傷させた強盗事件で終わった可能性がある。
しかし名久井は、逃げる母親を追跡した。
仕事場付近で追いつく。
倒れた母親へ、さらに攻撃を加えた。
やがて母親は動かなくなった。
名久井自身も「死んだ」と思ったとされる。
ところが、母親の叫び声で娘・洋美も目を覚ましていた。
洋美は、暗い部屋に立つ男を見ていた。
母親が、
「痛い」
と訴え、
「泥棒、泥棒」
と何度も叫びながら逃げていく。
男がその後を追う。
そして母の声が消える。
やがて、男が戻ってきた。
十四歳の少女は逃げた。
茶の間から奥の部屋へ。
さらに廊下へ。
だが名久井は追いかけた。
廊下で追いついた。
短刀による攻撃を受け、少女は倒れた。
史料では、洋美に相当する娘は顔、肩、手、胸付近など計八か所の傷を負い、全治約一か月の重傷だったとされている。
それでも少女は生き残った。
倒れたあと、彼女は動かなかった。
死んだふりをしたのである。
この判断が、結果として命を救った可能性がある。
事件後、娘の証言から名久井が浮上した。
名久井は遠くへ逃亡していなかった。
盛岡市上田富士見町の自宅に戻っていた。
警察は自宅で名久井を逮捕した。
取り調べで、名久井は犯行を認めた。
裁判では、1950年12月21日、盛岡地方裁判所が死刑を言い渡した。
しかし控訴審の仙台高等裁判所は、1951年12月25日、一審判決を破棄し、無期懲役とした。
一人の母親が死亡した。
一人の十四歳の娘が八か所もの傷を負った。
それだけの結果を生んだにもかかわらず、名久井は結局、何一つ盗むことができなかった。
事件の出発点は、
「皆が寝ている。金を盗めるかもしれない」
という、ほんの一瞬の判断だった。
■いつ・どこで起きたか
事件が起きたのは、1949年12月7日未明。
場所は岩手県盛岡市木伏47番地とされる。
現在の盛岡駅周辺にあたる木伏地区である。
現場は駅前派出所からさほど遠くなかった。
盛岡駅は当然ながら当時も人と物が集まる場所だった。
鉄道が物流の中心を担っていた時代である。
現在の宅配便や高速道路網が整う前、鉄道小荷物は各地を結ぶ重要な輸送手段だった。
犯人の名久井熙も、店員の沼倉孝雄も、その盛岡駅で小荷物を扱う仕事をしていた。
事件当時、日本は終戦から四年しかたっていなかった。
1945年8月の敗戦から、まだそれほど時間が過ぎていない。
町には復員した者、戦地から引き揚げた者、職を失った者、住居を失った者がいた。
物価は高く、生活は不安定だった。
警察庁の後年の統計によると、昭和23年と24年の刑法犯認知件数は全国で160万件近くに達している。
昭和20年には約71万件だったものが、わずか数年で二倍以上になっていた。
特に昭和20年代前半は強盗事件が多く、昭和23年には約1万1000件に達し、その後も年間9000件前後が発生していたと警察白書は整理している。
若者の犯罪も社会問題だった。
昭和26年には刑法犯少年の検挙人員が12万6519人となり、戦後最初の少年非行のピークを迎えた。
21歳だった名久井は少年法上の少年ではないが、戦中に少年期を過ごし、敗戦後の混乱の中で成人した世代にあたる。
岩手の警察も、この事件を戦後の青年犯罪という時代背景の中で捉えている。
ただし、時代が混乱していたからといって、名久井の犯罪を社会情勢だけで説明することはできない。
彼が職を失った直接の理由は、自分たちで鉄道小荷物を盗んだためである。
賠償金が生じた原因も同じだった。
そして12月7日未明、他人の家へ忍び込み、短刀を使ったことも本人の選択だった。
戦後の混乱は背景ではある。
しかし、犯行の責任そのものを時代へ転嫁することはできない。
■登場人物
■名久井熙 21歳
本事件の犯人。
事件当時、盛岡市上田富士見町に住んでいた。
元盛岡駅小荷物関係の職員。
鉄道の小荷物を扱う立場にありながら、同僚の沼倉孝雄と共謀して荷物の中身を盗む「小荷物抜取り」を行っていた。
不正が発覚したため、1949年5月に懲戒免職。
その後は定職に就かず、実家の下宿屋を手伝う程度の生活をしていたとされる。
事件時には短刀を携帯していた。
なぜその夜に短刀を持っていたのかについて、史料は明確な理由を示していない。
事件後、自宅で逮捕され、取り調べで犯行を認めた。
一審で死刑。
控訴審で無期懲役となった。
■沼倉孝雄
名久井の元同僚。
盛岡駅で小荷物関係の仕事をしていた。
名久井とともに小荷物の窃盗を行い、1949年5月に懲戒免職になった。
二人には20万7000円の賠償責任が生じたとされる。
職を失った後、沼倉は同年8月ごろ、梅川八郎方の菓子製造業で住み込み店員として働き始めた。
事件当夜、名久井と二階の部屋で焼酎を飲み、午後11時ごろ泥酔して眠った。
階下で事件が起きている間も、当初は眠っていた。
「泥棒」という叫び声で目を覚まし、階下へ降りて重傷の少女を発見した。
すぐに店主を呼びに走った。
■梅川まどか 50歳
被害者。
菓子製造業を営む梅川八郎の母。
14歳の娘・洋美と同じ部屋で眠っていた。
侵入した名久井が布団付近を探っているところで目を覚まし、異変を察知した。
名久井から攻撃を受けた後、
「泥棒! 泥棒!」
と叫びながら逃げた。
名久井はその後を追い、倒れた母親へさらに攻撃を加えた。
死亡。
■梅川洋美 14歳
被害者。
まどかの娘。
梅川八郎の妹。
母と同じ部屋で眠っていた。
母親の声で目を覚まし、暗い部屋の中にいた男を目撃した。
母が襲われて逃げる様子を見た後、自身も名久井に追われた。
廊下で追いつかれ、短刀による攻撃を受けた。
顔、肩、手、胸付近など八か所を負傷。
全治約一か月の重傷。
倒れたあと死んだふりをし、生存した。
その後の証言が、犯人特定の大きな手がかりになった。
■梅川八郎
菓子製造業を営む人物。
まどかの息子で、洋美の兄。
沼倉孝雄を住み込み店員として雇っていた。
事件当夜は母娘と同じ場所にはおらず、沼倉から異変を知らされて現場へ向かった。
事件の直接の標的ではなかったが、母を殺され、妹を重傷にされた家族である。
■事件発覚
事件の発覚は早かった。
理由の一つは、被害者宅の二階に沼倉孝雄がいたことだった。
名久井が一階で母娘を襲っている間、沼倉は焼酎に酔って眠っていた。
しかし階下から、
「泥棒! 泥棒!」
という声が聞こえた。
眠りの深いところにいた沼倉は、次第に異変を感じた。
目を覚ます。
「……何だ?」
もう一度、声。
普通ではない。
沼倉は階下へ降りた。
そこで見たのは、十四歳の少女だった。
顔には傷があり、血に汚れていた。
「おい、どうした!」
返事を求めても、少女はまともに説明できる状態ではなかった。
母親の姿がない。
ただの空き巣ではない。
沼倉は店主の梅川八郎を呼びに走った。
「起きてください!」
「大変です!」
八郎とともに家へ戻り、母娘が襲われたことが明らかになる。
駅前派出所が近かったこともあり、警察への連絡は早かった。
捜査員が駆けつける。
母親は死亡。
娘は重傷。
ところが、金品が奪われた形跡はない。
家の中は探られている。
侵入目的は金品だった可能性が高い。
それでも犯人は何も得ずに逃げていた。
警察が最も重要視したのは、生存者がいることだった。
十四歳の洋美は、瀕死に近い状態でありながら、犯人につながる情報を持っていた。
その夜、二階へ上がっていった男。
何度も家を訪れていた男。
沼倉の友人。
名久井。
捜査の目は急速に一人の青年へ向かった。
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