「毒婦」と呼ばれた女――高橋お伝事件
明治9年・浅草蔵前片町旅籠殺人事件
明治9年 1876年8月27日
東京・浅草蔵前片町にあった旅人宿
■事件概要
明治9年――1876年8月27日。
東京・浅草蔵前片町にあった旅人宿の二階で、一人の男が死亡しているのが見つかった。
男の名は後藤吉蔵。
古着商、あるいは古物商として生計を立てていた人物と伝えられている。
その首には、鋭利な刃物によって深く切り裂かれた傷があった。
寝具には血が広がり、男はすでに息をしていなかった。
そして、前夜から吉蔵と同じ部屋に泊まっていた女の姿は消えていた。
女の名は、高橋でん。
後世、「高橋お伝」と呼ばれ、「明治の毒婦」「稀代の悪女」として語られることになる女性である。
お伝は当時、生活に困窮していた。
同棲していた小川市太郎との暮らしは安定せず、借金の返済にも追われていた。
そのためお伝は、後藤吉蔵に金を貸してほしいと頼んでいた。
しかし吉蔵は、お伝に男女の関係を求めながら、金を貸すという話になると態度を変えたとされる。
事件前日、8月26日。
お伝と吉蔵は一緒に浅草方面へ向かい、蔵前片町の旅人宿に宿泊した。
そして翌27日午前11時ごろ。
二人の間で金をめぐる激しいやり取りが起きた。
お伝は持っていた剃刀を取り出した。
その刃は、吉蔵の喉へ向かった。
鋭い刃が首を切り裂き、吉蔵は致命傷を負った。
血は寝具へ流れ、彼はその場で死亡したとされた。
お伝はその後、吉蔵の金を持ち去った。
後世の資料では、奪われた金は十一円ほどとされている。
さらに現場には、
「この男に姉を殺された。姉の仇を討った」
という趣旨の書き置きが残されていた。
しかし裁判所は、この「仇討ち」という説明を信用しなかった。
後に東京裁判所が認定したのは、
高橋でんは金に困っており、後藤吉蔵から金を得ようとした。
思うように金を得られない場合には吉蔵を殺害する意思を抱き、あらかじめ剃刀を持っていた。
そして実際に吉蔵の喉を剃刀で切り、所持金を奪った。
という、金銭目的の計画的な殺人であった。
お伝は事件からほどなく逮捕された。
取調べの初期には犯行を認める供述をしたとされる一方、後に裁判では、
「吉蔵は自分で喉を切った」
と殺人を否定した。
さらに「姉の仇討ちだった」という説明も現れ、供述は変転した。
明治初期。
まだ近代的な司法制度が十分に整っていない時代の裁判は長期化し、お伝は二年以上にわたって拘束された。
最終的に下された刑は斬罪。
斬首刑である。
明治12年――1879年1月末。
市ヶ谷の刑場で、高橋でんは処刑された。
だが、彼女の物語は死刑執行で終わらなかった。
むしろ、そこから「毒婦・高橋お伝」という巨大な伝説が始まったのである。
■いつ・どこで起きたか
事件が起きたのは、明治9年8月27日。
西暦では1876年。
明治維新からまだ十年にも満たない時代だった。
江戸が東京と名を変え、武士の時代が急速に終わりを告げていた。
一方、人々の生活の中には江戸時代の価値観がまだ色濃く残っていた。
事件現場は、東京・浅草蔵前片町にあった旅人宿。
後世には「丸竹」と呼ばれる宿として知られるが、裁判関係資料では宿主として大谷三四郎の名が現れる。
前日の8月26日。
高橋お伝と後藤吉蔵は、夫婦のように装って宿へ入ったとされる。
二人は宿の二階へ通された。
食事や酒が運ばれた。
夜が更ける。
通りの物音が小さくなり、二人だけの時間が過ぎていった。
そして翌日。
明治9年8月27日午前11時ごろ。
その部屋で後藤吉蔵は命を落とすことになる。
■登場人物
■高橋でん――高橋お伝
本事件の加害者。
後世には「高橋お伝」の名で知られる。
出生年には複数の説があり、1848年生まれとする資料もあれば1851年生まれとする資料もある。
出身地は上野国利根郡下牧村。
現在の群馬県利根郡みなかみ町周辺とされる。
若くして高橋浪之助と夫婦になった。
浪之助は当時「癩病」と呼ばれた病気、現在のハンセン病を患ったとされる。
後世の読み物では、お伝が病気の夫を毒殺したという話まで作られた。
しかし資料では、そのような毒殺を裏付ける確かな司法記録はなく、むしろお伝が病身の夫を看病していたとする説の方が強いとされている。
浪之助の死後、お伝は小川市太郎と生活するようになった。
しかし貧困と借金に追われ、金策のため後藤吉蔵に接近した。
そして1876年8月27日。
後藤吉蔵を剃刀で殺害し、金を奪ったと裁判所に認定された。
■高橋浪之助
高橋お伝の夫。
若くしてお伝と夫婦になった。
病気を患い、夫婦は故郷を離れて療養生活を送ったとされる。
病気は、当時「癩病」と呼ばれたハンセン病だったとされる。
当時の社会には病気への強い偏見があり、患者本人だけでなく家族まで忌避されることがあった。
浪之助は明治5年、1872年ごろ死亡したとされる。
後世には「お伝が夫を毒殺した」という物語が作られたが、資料では確実な裏付けはないとしている。
■小川市太郎
高橋浪之助の死後、お伝と生活を共にした男性。
木挽職などをしていた人物とされる。
事件当時、お伝と市太郎は東京・新富町の行川やす方の二階に滞在していた。
二人の暮らしは安定しておらず、金に困っていた。
お伝が後藤吉蔵殺害後に戻った先も、市太郎と暮らしていたこの場所だったとされる。
■後藤吉蔵
本事件の被害者。
東京で古着商、あるいは古物商を営んでいたと伝えられる。
お伝から金を貸してほしいと頼まれていた。
事件前日の8月26日、お伝を浅草蔵前片町の旅人宿へ誘った。
翌27日、宿の二階で首を剃刀で切られ死亡した。
後世、犯人である高橋お伝の名前があまりにも有名になったため、被害者である吉蔵の人生はほとんど語られなくなった。
■行川やす
事件当時、お伝と小川市太郎が滞在していた東京・新富町の家の関係者。
裁判関係資料では、二人が8月10日ごろからその場所に暮らしていたことが確認される。
■大谷三四郎
事件現場となった旅人宿の宿主として裁判記録に名前が現れる人物。
■山田吉亮
高橋お伝の斬首を執行したと伝えられる人物。
八代目山田浅右衛門家に連なる人物とされる。
■仮名垣魯文
高橋お伝の処刑後、1879年に『高橋阿伝夜刃譚』を刊行した人物。
この作品をはじめとする読み物や芝居によって、現実の高橋でんとは異なる「毒婦・高橋お伝」のイメージが拡大していった。
■事件発覚
1876年8月27日。
高橋お伝は、旅人宿の二階に後藤吉蔵の遺体を残して部屋を出た。
すぐに騒ぎを起こしたわけではない。
助けも呼ばなかった。
警察へ駆け込むこともしなかった。
むしろ、宿の人間に不審を抱かせないように振る舞ったとされる。
後世には、お伝が宿の女中に対し、
「主人は気短だから、起こさないでほしい」
という趣旨の言葉を残したという話も伝わっている。
再現するなら、こんなやり取りだったかもしれない。
「私は先に出るよ」
「ご主人は?」
「まだ寝てる」
「起こしましょうか」
「いや、やめておくれ。あの人は寝起きが悪いんだ」
お伝はそのまま宿を出た。
部屋には、すでに死んでいた後藤吉蔵が残された。
宿の者はしばらく異変に気付かなかった。
やがて、
「いつまで寝ているのだろう」
という疑問が生まれる。
宿の者が二階へ上がった。
戸を開ける。
そこに広がっていたのは、普通の朝の寝室ではなかった。
寝具は血で汚れていた。
男の首には深い傷があった。
後藤吉蔵は死んでいた。
前夜、一緒に宿へ入った女はいない。
ここから警察の捜査が始まる。
宿帳。
宿の者の証言。
吉蔵の交友関係。
最近、吉蔵に金の相談をしていた女。
その線を追うと、一人の名前が浮かんだ。
高橋でん。
事件からわずか数日で、捜査の手は彼女へ届くことになる。
・犯人の生い立ち
・事件の前兆
・当日の詳細
・逮捕
・裁判
・判決
・まとめ