大阪・堀江六人斬り――明治三十八年、遊郭「山梅楼」で起きた惨劇
明治38年、1905年6月21日
大阪市西区北堀江上通三丁目 貸座敷 山梅楼
■事件概要
明治三十八年、一九〇五年六月二十一日未明。
大阪市西区北堀江上通三丁目。大阪でもよく知られた遊郭街の一角に、「山梅楼」という貸座敷があった。
その主人が、中川萬次郎、五十二歳である。
山梅楼は、ただ客を泊める旅館ではなかった。芸妓や遊女が出入りし、客を迎え、酒宴が開かれる、当時の遊郭制度の中に組み込まれた商いの場だった。中川萬次郎はそこで長く商売をし、地域では顔も広く、遊郭の有力者の一人として知られていた。
その「人望のある主人」が、ある夜、自分の店を凄惨な殺傷現場に変えた。
萬次郎は、黒い鞘に納められた脇差を手に、店の中で眠っていた者たちを次々に襲った。
襲撃を受けたのは六人。
内縁の妻・新谷めぐみの母、新谷しず、六十五歳。
めぐみの弟、新谷康三、二十歳。
めぐみの妹、新谷ひなた、十四歳。
親族の少女、上野麻衣、十六歳。
山梅楼の芸妓、森下麦子、二十歳。
そして、同じく山梅楼で芸妓として働いていた奥田福美、十代。
六人のうち五人が死亡した。
福美だけは生き残った。
しかし、その代償はあまりにも大きかった。両腕に深刻な傷を負い、後に両腕を失うことになる。顔にも大きな傷が残った。それでも彼女は生き、その後、芸能の世界で働き、口で筆を持つことを覚え、やがて仏門へ入り、障害を持つ人々のために活動するまでになった。
後世、この事件は「堀江六人斬り」と呼ばれる。
名称だけを聞けば、錯乱した男が突然六人を無差別に斬った事件のように思える。
しかし、資料から浮かぶ実像はそれほど単純ではない。
萬次郎は何日も前から恨みを募らせ、殺す対象を考え、書き置きを繰り返し書き、犯行当日は酒宴を設け、相手が寝静まるのを待っていた。
その背景には、長年にわたる女性関係、嫉妬、支配欲、暴力、家庭内の対立、そして内縁の妻が姿を消したことによる逆恨みがあった。
何より異様なのは、萬次郎が最も憎んでいた人物そのものは、その夜の現場にいなかったという点である。
最大の標的だったのは、内縁の妻・めぐみと、萬次郎の甥で養子となっていた明治郎だった。
だが、その二人は生き残った。
代わりに、母、弟、十四歳の妹、十六歳の親族、二人の若い芸妓が刃を受けた。
萬次郎の怒りは、やがて「自分を裏切った本人」から、「その周囲にいる者すべて」へ広がっていたのである。
■いつ・どこで起きたか
事件が起きたのは、明治三十八年六月二十一日未明。
前日の六月二十日午後十一時ごろから酒宴が始まり、宴が終わったのは二十一日午前三時ごろとされる。襲撃はその直後、一同が寝静まった時間帯に始まった。
場所は大阪市西区北堀江上通三丁目の貸座敷「山梅楼」。
当時の堀江は、江戸時代以来、芝居、茶屋、料理屋などが集まる繁華街として発展してきた地域だった。近くには堀江川が流れ、その周辺には遊興の場が形成されていた。
大阪の遊郭といえば新町が格式のある土地として知られていたが、堀江はより庶民に近い遊興地だったとされる。山梅楼は、その堀江で長く営業してきた貸座敷の一つであった。
山梅楼は中川家が代々営んできた店だった。
明治十一年ごろ、当主の死後、養女のやえが家督を継ぎ、店を現在地へ移した。
そこへ出入りするようになった一人の船頭がいた。
犬飼萬次郎。
愛知県の出身だった。
その男が、後にやえと男女関係となり、中川家へ婿養子に入り、「中川萬次郎」となった。
つまり事件現場となった山梅楼は、萬次郎にとって単なる勤務先ではない。
自分が婿養子として入り、商売を広げ、長年にわたって主人として振る舞ってきた、自らの地位そのものを象徴する場所だった。
その店で、萬次郎は自ら刀を抜いた。
■登場人物
【中川萬次郎】
事件の犯人。五十二歳。愛知県出身。もとは船頭で、山梅楼へ出入りするうちに女主人やえと親しくなり、婿養子となった。経営能力と人付き合いには長けていたとみられ、堀江遊郭の顔役の一人として地域の議員に名を連ね、芸妓の試験委員のような役目も務めたとされる。一方で女性関係は奔放で、嫉妬深く、刃物を使った威嚇や暴力に及んだとする証言が残っている。
【やえ】
山梅楼を継いだ女性。萬次郎の最初の妻にあたる人物。萬次郎が婿養子として中川家へ入るきっかけとなった。その後、夫婦関係は破綻し、萬次郎から店を追われ、別の場所で貸席業を営むようになったとされる。
【すえ】
松島遊郭の芸妓だった女性。やえが山梅楼を離れた後、萬次郎の内縁の妻となり、店の仕事を任された。その後、萬次郎が新谷めぐみを事実上の妻とするようになると、山梅楼から追われたとされる。
【新谷めぐみ】
萬次郎の内縁の妻。芸妓として山梅楼に関わり、萬次郎より二十五歳ほど若かった。萬次郎とともに台湾へ渡った時期があり、二人の間には娘も生まれた。のちに萬次郎の暴力や嫉妬を恐れていたと証言する。事件前に山梅楼から姿を消し、萬次郎は明治郎とともに逃げたと疑った。事件当夜は現場にいなかったため生き残った。
【新谷夕子】
萬次郎とめぐみの間に生まれた娘。資料では、萬次郎が非常にかわいがっていたとされる。事件そのものの直接の襲撃対象ではないが、壊れていく家族関係の中にいた幼い存在だった。
【明治郎】
萬次郎の甥で、後に養子として山梅楼へ入った青年。萬次郎は、明治郎とめぐみが男女関係にあるのではないかと疑った。二人は関係を否定している。事件のおよそ二か月前、愛知の郷里へ帰るとして山梅楼を出た。萬次郎が最も強い恨みを抱いた対象の一人だったが、事件当夜は現場におらず生き残った。
【新谷しず】
めぐみの母。六十五歳。娘の居場所を萬次郎から繰り返し問い詰められ、自分まで危害を受けるのではないかと周囲に不安を漏らしていたとされる。事件当夜、十四歳の娘ひなたと眠っているところを最初に襲われ、死亡した。
【新谷康三】
めぐみの弟。二十歳。事件当夜、山梅楼二階で眠っていたところを襲われ、致命傷を負い死亡した。
【新谷ひなた】
めぐみの妹。十四歳。母しずのそばで眠っていたところを襲われ、死亡した。萬次郎とめぐみの男女関係そのものに主体的に関わったとは考えにくい年齢だった。
【上野麻衣】
十六歳。めぐみの親族にあたる少女。事件当夜、萬次郎に呼び起こされ、事情を知らないまま近づいたところを襲われ死亡した。後の裁判では、別人への恨みを親族の少女に転嫁した点が厳しく問題視された。
【森下麦子】
二十歳。山梅楼の抱え芸妓。事件当夜、店の三畳間で眠っていたところを萬次郎に襲われ死亡した。
【奥田福美】
山梅楼の若い芸妓。十代。舞踊を得意としていた。襲撃を受け、両腕に極めて深い傷を負い、後に両腕を失った。顔にも傷を受けたが、六人の中でただ一人生き残った。その後の人生では、歌や芸を続け、口で筆をくわえて文字や絵をかく技術を身につけ、結婚、子育てを経験し、のちに仏門へ入った。事件そのものより長く生き、後世に強い印象を残した生存者である。
■事件発覚
六月二十一日の朝。
事件は、犯人自身の自首によって警察の知るところとなった。
萬次郎は六人を襲った後、仏壇の前に座ったとされる。
服装を整え、その日に仕立てたばかりの袴まで身につけた。
自分も死ぬつもりだった。
しかし、思い直した。
「ここで死ねば、なぜ自分がやったのか分からないままになる」
そんな趣旨の考えに至ったとされる。
萬次郎には、世間に伝えたい「言い分」があった。
自分は理由なく人を殺したのではない。
自分は裏切られた。
自分は侮辱された。
だから、相手を罰したのだ――。
萬次郎の論理では、そういうことだった。
外へ出ると、東の空はすでに明るみ始めていた。
萬次郎は東へ向かって手を合わせたという。
そして人力車を呼んだ。
「西警察署へ行ってくれ」
早朝の大阪を、人力車が走った。
やがて警察署へ着くと、萬次郎は自分から事件を申告した。
警察官が山梅楼へ向かう。
そこで見つかったのは、一夜前まで宴会が開かれていた同じ建物とは思えない惨状だった。
複数の部屋に人が倒れ、五人はすでに死亡していた。
一人だけ、福美がかろうじて生きていた。
彼女の両腕は刃を受けて激しく損傷し、顔にも傷があった。
ここで初めて、「六人全員が殺された事件」ではなく、「五人死亡、一人重傷」の事件であることが分かった。
そして現場からは、萬次郎が以前から犯行を考えていたことを示す複数の書き置きも発見される。
事件は、単なる酔余の乱行では済まされなくなった。
■犯人の生い立ち
中川萬次郎の幼少期について、資料には詳しい記録がない。
何歳でどの学校に入り、両親がどのような人物で、少年期にどのような性格だったのか――そこまでを断定できる材料は示されていない。
分かっているのは、萬次郎が愛知県の出身で、若いころ船頭として働いていたということから始まる。
船頭という仕事は、水上交通が重要だった時代の生活と商業を支える仕事だった。萬次郎がいつ、どのような経緯で大阪へ出てきたのか、資料だけでは細部は追えない。
しかし、彼は大阪・堀江の山梅楼へ頻繁に出入りするようになった。
当時、山梅楼を切り盛りしていたのは、家督を継いだやえだった。
萬次郎は客として遊びに来るだけの男ではなくなっていった。
やえと親しくなり、やがて男女関係となる。
そして婿養子として中川家へ入った。
犬飼萬次郎から、中川萬次郎へ。
それは姓が変わっただけではない。
船頭だった男が、堀江の貸座敷の主人という社会的地位を手に入れた転換点だった。
萬次郎には商売の才覚があったらしい。
山梅楼を切り盛りし、堀江遊郭の中で存在感を高めていった。
後年の犯罪史は、彼が地域の議員に名前を連ね、芸妓の試験委員なども務めた人物だったという趣旨で記している。
周囲から見れば、萬次郎は「まともな商売人」に見えたはずである。
客の扱いを知っている。
土地の人間とも付き合える。
店を経営できる。
人前で体裁を整えられる。
顔が広い。
「あそこの旦那なら話が通じる」
そう思う者もいたのだろう。
ところが、家庭の中、とりわけ女性関係となると、資料に残る萬次郎の姿はまるで違っている。
最初の妻やえとの関係は壊れた。
萬次郎は、やえに落ち度があるとして山梅楼から追い出したという。
やえは別の場所で貸席業を営むようになった。
次に萬次郎は、松島遊郭の芸妓だったすえを内縁の妻として家へ入れ、山梅楼の仕事を任せた。
だが、それでも一人の女性との関係に落ち着かなかった。
犯罪史は、萬次郎が家にいた養女、芸妓、下女など、周囲の女性と関係を持ったという趣旨で厳しく人物像を描いている。
そして、次に萬次郎が強く執着したのが、若い芸妓だった新谷めぐみである。
萬次郎とは二十五歳ほど年齢が離れていた。
萬次郎が五十歳を越えるころ、めぐみはまだ二十代後半だった。
萬次郎はめぐみを連れて台湾へ渡った時期があった。
日清戦争後、日本が台湾統治を始めた時代である。二人は現地で料理屋のような商売をしたとも伝えられる。
そして二人の間には娘・夕子が生まれた。
萬次郎はその娘を非常にかわいがったとされる。
外形だけを見れば、そこには一つの家族ができていた。
年上の夫。
若い妻。
幼い娘。
商売もある。
大阪へ戻れば山梅楼もある。
しかし、その家庭の内部には、すでに暴力と不信が入り込んでいた。
事件後、めぐみは萬次郎について、台湾にいたころからひどく嫉妬深かったと証言した。
萬次郎は、めぐみが現地の男性と関係を持ったのではないかと疑った。
確かな証拠があったとはされていない。
それでも疑いを止めなかった。
めぐみの証言では、萬次郎は彼女を庭の木に縛り、刀で脅しながら問い詰めたという。
「本当のことを言え」
「何もしていません」
「嘘をつくな」
「本当に違います」
資料に残る趣旨から再構成すれば、二人の間ではこのような恐怖を伴う追及が繰り返されていたことになる。
めぐみは事件後、萬次郎ほど恐ろしく、むごたらしい人はいないという趣旨を新聞記者に語っている。
顔に残った傷を見せ、キセルで突かれた傷、刀で切られた傷だと説明したともされる。
もちろん、これは事件後にめぐみ側から語られた証言である。自己弁護が一切含まれていなかったと断定することはできない。
だが、別の証言でも、萬次郎が嫉妬深く、腹を立てると刃物を持ち出すことがあったと伝えられている。
つまり、六月二十一日の惨劇は、その夜初めて暴力が現れた事件ではなかった。
山梅楼の内側では、そのかなり以前から、暴力を背景にした支配関係が存在していたと考えられる。
萬次郎は、仕事では社会的信用を築ける一方、自分の男女関係では相手を所有物のように扱い、疑いを持つと執拗に追い詰める面を持っていた。
この二重性こそ、後の事件を理解するうえで重要である。
・事件の前兆
・当日の詳細
・逮捕
・裁判
・判決
・まとめ