九大大学院生・死の堕胎事件
竹藪で命を落とした23歳の女性
事件概要
昭和二十四年 一九四九年。
戦争が終わって、まだ四年しか経っていない。
街には戦争の傷跡が残り、住宅不足も食糧不足も完全には解消されていなかった。闇市が存在し、復員兵が故郷へ戻り、人々は焼け跡の中から新しい生活を築こうとしていた。
その一方で、日本社会の制度そのものは大きく変わり始めていた。
新しい憲法が施行され、男女平等という言葉も語られるようになった。しかし人々の価値観までが一夜で変わったわけではない。
とりわけ未婚の男女の交際、女性の妊娠、堕胎といった問題には、現在とは比較にならないほど重い社会的圧力がかかっていた。
そんな時代の福岡で、一人の若い女性が命を落とした。
女性の名は――
立川照代。
二十三歳。
福岡女専を卒業し、小学校教師として働いていた女性だった。当時の報道では「才媛」と表現されるほど、高い教育を受けた女性でもあった。
そして照代と交際していた男が、
中島健三。
二十九歳。
九州大学工学部の大学院特別研究生だった。
当時としては、きわめて高い教育を受けた青年である。大学へ進学すること自体が珍しかった時代に、九州大学の大学院で研究を続けていた。社会から見れば、まさしく「将来を期待された青年」と呼ばれる立場だった。
ところが、その二人の恋愛は、やがて一つの妊娠によって大きく形を変えていく。
そして中島は、医師ではないにもかかわらず、義兄が所有していた医学書を読み、自分の手で照代に堕胎の処置を行うようになる。
一度目は、照代は死亡しなかった。
資料では、それを「成功」と記録している。
しかし、その一度目の成功こそが、二人をさらに危険な方向へ進ませた。
「一度できたのだから、二度目もできる」
そう考えたのかもしれない。
翌昭和二十四年。
照代は再び妊娠する。
しかも、処置が行われた時点で妊娠五か月に達していた。
それでも中島は医師に任せなかった。
病院にも連れていかなかった。
二人が向かったのは、診察室でも手術室でもなかった。
福岡県筑紫郡大野村上大利。
人目から離れた山中の、
竹藪だった。
そこで中島は照代の身体に処置を行った。
やがて照代は激しく苦しみ始めた。
意識を失った。
大量の出血が起きた。
中島は人工呼吸を試みた。
しかし止血の方法さえ分からなかった。
医師もいない。
看護師もいない。
輸血設備もない。
救命設備もない。
そして約一時間後。
立川照代は、竹藪の中で死亡した。
二十三歳だった。
中島は死亡した照代の身体に、自分のジャンパーを掛けた。
さらに、その頭のそばへリンゴを並べたという。
それから照代の遺体を竹藪に残し、一人で山を下りた。
翌朝。
中島健三は福岡地方検察庁へ姿を現した。
そして自ら事件を告白した。
>「堕胎手術に失敗し、愛人を死なせてしまった」
こうして、二人だけの秘密だった出来事は、戦後福岡を騒がせる刑事事件となった。
いつ・どこで起きたか
事件が起きたのは、
昭和二十四年十月二十四日。
一九四九年十月二十四日である。
その日の午前七時半ごろ、中島健三と立川照代は、福岡県筑紫郡大野村上大利の山中へ向かった。
現在の感覚からすれば、なぜ医療行為を山中で行おうとしたのか理解し難い。
しかし二人にとって、医療としての安全よりも、
「誰にも知られないこと」
のほうが重要になっていた可能性がある。
病院へ行けば記録が残る。
誰かに見られるかもしれない。
照代は小学校教師だった。
未婚女性の妊娠が明らかになれば、仕事、家族、将来、結婚、世間からの評価――あらゆるものに影響する可能性があった。
だが、人に知られない場所を選ぶということは、事故が起きたとき、同時に助けからも遠ざかることを意味していた。
二人の周囲には何もなかった。
医師はいない。
看護師はいない。
手術室はない。
輸血設備もない。
酸素もない。
緊急時に救命処置を行える人間もいない。
ただ山と竹藪があるだけだった。
そこへ中島は、自分が処置に必要だと考えた器具や薬品類を持ち込んだ。
そして、妊娠五か月になっていた照代に対し、自分の手で処置を始めたのである。
ここで重要なのは、中島が医師ではなかったという事実である。
医学書を読むことはできた。
研究者として専門書を読む能力もあった。
一度、似た処置を経験していた。
しかしそれは、
「医療行為を安全に行える」
ということとは、まったく違っていた。
その違いを二人が思い知らされるまで、長い時間はかからなかった。
・事件発覚
・犯人の生い立ち
・事件の前兆
・事件当日の詳細
・捜査
・逮捕
・裁判
・まとめ