何が私をこうさせたか
――獄中手記――
金子文子
金子文子と朴烈事件: 『何が私をこうさせたか』現代語版と大逆事件・犯罪心理分析 (事件記録アーカイブ)
https://www.amazon.co.jp/dp/B0HJBZLBFM
添削されるについての私の希望
金子ふみ
栗原兄
一、記録外の場面においては、かなり技巧が用いてある。
前後との関係などで。
しかし、記録の方は皆事実に立っている。
そして事実である処に生命を求めたい。
だから、どこまでも『事実の記録』として見、扱って欲しい。
一、文体については、あくまでも単純に、率直に、そして、しゃちこ張らせぬようなるべく砕いて欲しい。
一、ある特殊な場合を除く外は、余り美しい詩的な文句を用いたり、あくどい技巧を弄したり廻り遠い形容詞を冠せたりすることを、出来るだけ避けて欲しい。
一、文体の方に重きを置いて、文法などには余りこだわらぬようにして欲しい。
[#改丁]
手記の初めに
大正十二年九月一日、午前十一時五十八分。
突如、帝都東京を載せた関東地方が大地の底から激動し始めた。
家々はめりめりと唸りを立て、歪められ、倒され、人々はその家の下に生き埋めにせられ、辛うじて遁れ出たものも狂犬のように吠えまわり走りまわり、かくて一瞬の間に文明の楽園は阿鼻叫喚の巷と化してしまった。
ひっきりなしに余震が、激震が、やって来る。
大火山の噴煙のような入道雲がもくもくと大空目がけて渦を捲いて昇る。
そして帝都は遂に四方から起った大火災によって黒煙に閉されてしまった。
激動、不安、そして遂にあの馬鹿気きった流言と騒擾だ。
それから間もなくであった。
私達があの、帝都の警備に任じているものの命令によって警察に連行されたのは。
何のためであったか。
私にはそれを語る自由がない。
私はただ、それからしばらくして、東京地方裁判所の予審廷に喚ばれて取調べを受けたということだけを語り得る。
看守に導かれて予審廷のドアをくぐると、そこにはもう、一人の法官が書記を従えて私を待っていた。
私の姿を見ると、廷丁は私のために被告席を用意し始めた。
その間私は、冠っていた深編笠を手に、部屋の入口のところに黙って立っていなければならなかった。
判事はそれを、冷静な態度でじっと瞶めていた。
やがて私は被告席につかされた。
判事はなおしばらくの間、私を腹の底まで観察しなければ止まぬといった風に眺めてから静かに口をきった。
「君が金子ふみ子かね」
そうだと私が答えると、彼は案外やさしい態度で、
「僕が君の掛りでね、予審判事立松というものです」と自分を名乗った。
「そうですか。
どうかお手柔らかに」と私も微笑をもってこれに答えた。
型のような予審訊問が始まったのはそれからであった。
が、その型のような訊問の間にも判事は、これから取調べ上重要な契機を握ったようであった。
で、私は今その時の会話をここにそのままに記しておくこととする。
それはこの後につづく私の手記についての理解を最初から手ッ取り早くわかってもらえると思うからである。
判事は始める。
「まず、君の原籍は?」
「山梨県東山梨郡諏訪村です」
「汽車で行くとどこで降りるんだね」
「塩山が一番近いようです」
「うむ、塩山?」と判事はちょっと首を傾げて「では君の村は大藤村の方でないかね。
実は僕は大藤村をよく知っているんだ。
あそこに僕の知合いの猟師がいてね、冬になるとよく出かけて行くんだ……」
私にはその大藤村がわからなかった。
「さあ、そう言われると少し困りますね。
実はそこは、つまり諏訪村はですね、私の原籍地とは言い条、今までに二年とはいなかったんですから」
「ふむ。
君はその原籍地で生れなかったんだね」
「そうです。
私の生れた処は父や母の話によると横浜だそうです」
「なるほど。
で、君の両親は何という名前で、どこにいるんだね」
既に大体のことを警察の調書によって知っていた判事は、わざとこれを訊きたかったのだろうと思って、私は内心苦笑せざるを得なかった。
私は正直にそして率直に答えた。
「少しこんがらかっているんですが、戸籍面では父金子富太郎、母よし、となっていますが、事実はそれは母の両親、つまり私の祖父母に当っているんです」
判事は驚いたような顔をして見せた。
そして私の本当の父と母とのことを訊ねた。
私は答えた。
「そうですね。
父は佐伯文一といって多分今静岡県の浜松にいると思いますし、母は金子きくのといって、委しい消息はわかりませんが多分郷里の実家の近所におることと思っています。
戸籍面で私との関係は、母は姉、父は義兄ということになっています……」
「ちょっと待った」判事は私を遮った。
「少しおかしくきこえるね、お母さんが姉になっているのはわかったが、お父さんとお母さんとは姓も違い所も違っていて他人になっているように思えるのだが……」
「そうです」暗い心で私は答えた。
「父と母とはずっと昔別れました。
けれども、母の妹、つまり私の叔母が父の後妻になって現に父と一緒に暮しているんです」
「ふむ、なるほど、そこに何かわけがあったんだね。
で、君のお父さんとお母さんとの別れたのはいつ頃のことだね」
「もうかれこれ十三、四年も昔でしょう。
父と別れたのは私がたしか七つぐらいの時のことです」
「そして? その時君はどうなったんだね」
「父と別れて母に引きとられました」
「ふむ、それでそれからはずっと母の細腕一本に育て上げられたというわけだね」
「ところがそうじゃないんです。
私は父とわかれてから程なく母ともわかれたんです。
そしてそれからはほとんど父や母のお世話にはなっていないんです」
こう答えた時私は、私の今までの全経歴、全経験を、私の胸の中にぱっと展げられたのを感じた。
不覚にも私は、微かな涙を私の眼に宿した。
それを見たのか見ないのか、判事は幾分私に同情を寄せたように「大分苦しんだらしいね。
ではその辺のことはいずれゆっくり訊くとして」と、書記のテーブルの前に置かれてあった書類を自分の眼の前にひき寄せながら、さていよいよ事件の審問に入った。
しかし前にも言ったようにそれはここに書き記すわけにはいかない。
また、そんな必要もない。
ただしかしその後判事は、私に、私の過去の経歴について何か書いて見せろと命じた。
何でも法律には、被告の不利なことばかりでなく有利なことをもよく訊ぬべしという条文があるそうだが、あるいはその滅多に用いられない条文に従って、私がかくの如き大それたことをしたからには、そうさせるような何かの理由が私の境遇のうちにあったということを知りたかったのかも知れない。
無論また、そうではなく、ただ新聞記者的な興味でそれを命じたのかも知れない。
それはどうでもよい。
ただ私は、命じられたままに、私の生い立ちの記を書いた。
それがこの私の手記である。
この手記が裁判に何らかの参考になったかどうだかを私は知らない。
しかし裁判も済んだ今日判事にはもう用のないものでなければならぬ。
そこで私は、判事に頼んでこの手記を宅下げしてもらうことにした。
私はこれを私の同志に贈る。
一つには私についてもっと深く知ってもらいたいからでもあるし、一つには、同志にしてもし有用だと考えるならこれを本にして出版してほしいと思ったからである。
私として何よりも多く、世の親たちにこれを読んでもらいたい。
いや、親たちばかりではない、社会をよくしようとしておられる教育家にも、政治家にも、社会思想家にも、すべての人に読んでもらいたいと思うのである。
[#改ページ]
父
私の記憶は私の四歳頃のことまで遡ることができる。
その頃私は、私の生みの親たちと一緒に横浜の寿町に住んでいた。
父が何をしていたのか、無論私は知らなかった。
後できいたところによると、父はその頃、寿警察所の刑事かなんかを勤めていたようである。
私の思い出からは、この頃のほんの少しの間だけが私の天国であったように思う。
なぜなら、私は父に非常に可愛がられたことを覚えているから……。
私はいつも父につれられて風呂に行った。
毎夕私は、父の肩車に乗せられて父の頭に抱きついて銭湯の暖簾をくぐった。
床屋に行くときも父が必ず、私をつれて行ってくれた。
父は私の傍に附きッきりで、生え際や眉の剃り方について何かと世話をやいていたが、それでもなお気に入らぬと本職の手から剃刀を取って自分で剃ってくれたりなんかした。
私の衣類の柄の見立てなども父がしたようであったし、肩揚げや腰揚げのことまでも父が自分で指図して母に針を採らせたようであった。
私が病気した時、枕元に附きッきりで看護してくれたのもやはり父だった。
父は間がな隙がな私の脈を取ったり、額に手をあてたりして、注意を怠らなかった。
そうした時、私は物を言う必要がなかった。
父は私の眼差しから私の願いを知って、それを充たしてくれたから。
私に物を食べさせる時も、父は決して迂闊には与えなかった。
肉は食べやすいように小さく※(「てへん+劣」、第3水準1-84-77)り魚は小骨一つ残さず取り去り、御飯やお湯は必ず自分の舌で味わってみて、熱すぎれば根気よくさましてからくれるのだった。
つまり、他の家庭なら母親がしてくれることを、私はみな父によってされていたのである。
今から考えてみて、無論私の家庭は裕福であったとは思われない。
しかし人生に対する私の最初の印象は、決して不快なものではなかった。
思うにその頃の私の家庭も、かなり貧しい、欠乏がちの生活をしていたのであろう。
ただ、何とかいう氏族の末流に当る由緒ある家庭の長男に生れたと信じている私の父が、事実、その頃はまだかなり裕福に暮していた祖父のもとで我儘な若様風に育てられたところから、こうした貧窮の間にもなお、私をその昔のままの気位で育てたのに違いなかったのである。
私の楽しい思い出はしかしこれだけで幕を閉じる。
私はやがて、父が若い女を家へつれ込んだことに気づいた。
そしてその女と母とがしょっちゅういさかいをしたり罵り合っているのを見た。
しかも父はその都度、女の肩をもって母を撲ったり蹴ったりするのを見なければならなかった。
母は時たま家出した。
そして、二、三日も帰って来ないことがあった。
その間私は父の友だちの家に預けられたのである。
幼い私にとっては、それはかなり悲しいことであった。
殊に母がいなくなった時などは一層そうであった。
けれどその女はいつとはなく私の家から姿をかくした。
少くとも私の記憶にはなくなってしまっている。
が、その代り私は、自分の家に父の姿を見ることもまた少くなった。
私は母につれられて父をある家へ――今から考えて見るとそれは女郎屋である――迎えに行ったことを覚えている。
そして、父が寝巻き姿のまま起き上って来て、母を邪慳に部屋の外へ突き出したことをも。
でもたまには父は、夜更けた町を大きな声で歌をうたいながら帰って来ることもあった。
そうしたとき母は従順に父の衣類を壁の釘に掛けたりなんかしていたが、袂の中からお菓子の空袋や蜜柑の皮などを取り出して、恨めしそうに眺めながら言うのだった。
「まあ、こんなものたくさん。
それだのに子供に土産一つ買って来ないんだよ……」
父は無論、警察をやめていたのだ。
ではこの頃彼は何をしていたのだろう。
今に私はそれを知らない。
ただ私は、いろんな荒くれた男がたくさん集まって来て一緒に酒を呑んだり「はな」を引いたりしていたことや、母がいつも、そうした生活についてぶつぶつ呟き、父といさかいをしていたことを知っているばかりだ。
恐らくこういう生活がたたったのであろう。
父はやがて病気になった。
そこで何でも母の実家からの援助で入院したとかで、母はその附添いになり、私は母の実家に引きとられた。
そして半年余り、私は実家の曽祖母や小さい叔母たちに背負われて過した。
父母に別れたのにもかかわらず、その幼い私は、この間、割合幸福であったように思う。
父が快復すると、私はまた父の家に引きとられた。
その時は私達は海岸に住んでいた。
それは父の病後の保養もあり、弱い私の健康のためでもあったのである。
そこは横浜の磯子の海岸だった。
私達は一日じゅう潮水に浸ったり潮風に吹かれたりして暮した。
そしてその時を境として、私の肉体は生れ変ったように健康になったということである。
それは私を幸福にしたのだろうか、それとも、私を来るべき苦しみの運命に縛りつけるための、自然の悪戯であったのだろうか、私にはわからない。
私達の健康が快復すると、私達はまた引越した。
それは横浜の街はずれの、四方を田に囲まれた、十四、五軒一叢のうちの一軒だった。
そしてその家へ引越した冬のある雪の降る朝、私に初めての弟が生れた。
私が六つの年の秋頃だった――その間私は、私達の家が無闇に引越したということだけしか覚えていない――私達の家に、母の実家から母の妹が、だから私の叔母がやって来た。
叔母は婦人病かなんか患っていたが、辺鄙な田舎では充分の治療が出来ないというので、私達の家から病院に通うためだった。
叔母はその頃二十二、三であったろう。
顔立ちの整った、ちょっと小綺麗な娘だった。
気立てもやさしく、することなすことしっかりしていて、几帳面で、てきぱきした性質であった。
だから人受けもよく、親達にも愛せられていたようでもある。
だが、いつの間にかこの叔母と私の父との仲が変になったようである。
父はその頃、程近い海岸の倉庫に雇われて人夫の積荷下荷をノートにとる仕事をしていたが、例によって何かと口実をつけては仕事を休んでいた。
そんな風だから私の家の暮し向きの裕であるはずはなく、そのためであろう、母と叔母とは内職に麻糸つなぎをしていた。
毎日毎日、母はそうしてつないだ三つか四つの麻糸の塊を風呂敷に包んで、わずかな工賃を貰いに弟を背負っては出かけるのだった。
ところが不思議なことに、母が出かけるとすぐ、父は必ず、自分の寝そべっている玄関脇の三畳の間へ叔母を呼び込むのであった。
別にたいして話をしているようでもないのに、叔母はなかなかその部屋からは出て来ないのが常だった。
私はこまちゃくれた好奇心にそそられないわけには行かなかった。
私は遂にあるとき、そっと爪立ちをして、襖の引き手の破目から中を覗いて見た……。
だが、私は別にそれほど驚かなかった。
なぜなら、こうした光景を見たのは今が初めてではなかったからである。
私のもっと小さい時分から、父や母はだらしない場面を幾度か私に見せた。
二人は随分不注意だったのだ。
そのためかどうか、私はかなり早熟で、四つぐらいの年から性への興味を喚び覚まされていたように思う。
母は火の消えたような女で、ひどく叱りもしなければひどく可愛がりもしない。
が、父は叱る時にはかなりひどい叱り方をしたが、可愛がる時にはまた調子外れの可愛がり方をした。
この二つの性格のいずれが子供の心をより多く捉えたであろうか。
小さい時には私はより多く父になついていた。
父のために母がひどい目にあっているのを見なかったならば、恐らく私はいつまでも父に親しんでいたろう。
けれどいつの間にか私は父よりも母に親しんでいた。
で、この頃は私は、どこへ行くにも母の袂にぶらさがって踉いて歩いていたが、叔母が来てからというもの、父は、私が母に踉いて出かけるのを妨げた。
いろいろとすかして私を家にひきとめた。
今から思うとそれは叔母に対する母の不安を取り除かせて自分達の行為をごまかすためであったに相違ない。
なぜなら母が出かけるとすぐ、父は私に小遣銭を握らせて外に遊びに出したからである。
いや、むしろ追い出したからである。
私は別に小遣銭をねだったのではなかった。
だのに、父はいつもよりはたくさんの小遣をくれて永く遊んで来いと言うのだった。
しかも母が帰って来ると父は、母にこう言って私のことを訴えるのだった。
「この子はひどい子だよ。
わしの甘いことを知って、あんたが出かけるとすぐ、お小遣をせびって飛び出すんだからね」
そのうちに年も暮になった。
大晦日の晩のことを私は覚えている。
母は弟をおぶって街に出かけた。
父と叔母と私とは茶の間で炬燵にあたっていた。
何とはなしにしめっぽいじめじめした夜だった。
いつもに似ず、父も叔母も暗い顔をしていた。
そのうち父はうつぶせにしていた顔をあげてしんみりとした調子で言った。
「どうしてわしの家はこうも運がわるいだろう。
わしにはまだ運が向いて来ないんだね、来年はどうかなってくれればいいが……」
人には運というものがある。
それが向いて来ないうちはどうにもならないものだ。
これが迷信家の私の父の哲学であった。
父がしょっちゅうそんなことを言っているのを私は小さい時から知っている。
二人は何かしきりに話し合っていたが、そのうち叔母は立ち上って押入れから櫛箱を出して来た。
「これにしましょうか」叔母はそのうちの一つの櫛を取って見まわしながら言った。
「でも少し好すぎるわねえ。
惜しい気がするわ」
父は答えた。
「どうせ捨てるんだ。
どんなものを捨ててはならんということはない。
櫛でさえあれば……」
叔母はそこで歯の折れた櫛を髪に挿して、頭から振り落す稽古をした。
「そんなにしっかり挿す必要はない。
そっと前髪の上に載っけておけばいいんだ」と父は言った。
「うちの玄関口から出て前の空地を少し荒っぽく走ればすぐ落ちるよ」
言わるるままに叔母はその折れた櫛を挿して出かけて行った。
そしてものの五分と経たないうちに櫛を振り落して叔母が帰って来た。
「それでよし、悪運が遁げてしまった。
来年からは運が向いて来る」
父がこう言って喜んでいるところへ、母が戻って来た。
母が泣いている弟を背からおろして乳を呑ませている間に、叔母は買い物の風呂敷包みを解いた。
何でも、切餅が二、三十切れと、魚の切身が七、八つ、小さい紙袋が三つ四つ、それから、赤い紙を貼った三銭か五銭かの羽子板が一枚、それだけがその中から出て来た。
これが私達の楽しいお正月を迎えるための準備だったのである。
翌年のお正月に母の実家から叔父が遊びに来た。
叔父が帰ると、すぐにまた祖母がやって来て叔母に一緒に帰れと言った。
けれど、叔母は帰らずに祖母だけが帰って行った。
何でもそれは、後で人にきくところによると、正月に遊びに来た叔父は父と叔母とのことを知って、家に帰って話すと、祖母が心配して、お嫁にやるのだからとの理由でつれに来たのだそうである。
だが、父は無論それを承知するはずがなく、かえって、叔母の病気がまだよくなっていないのに、今お嫁になどやると生命にもかかわるとおどかしたそうである。
「何、それはいいんだよ。
先方は金持ちなので、貰ったらすぐ医者にかけるという約束になっているんだから」
祖母はこう答えたけれど、父は今度は、いつもの運命論をかつぎ出して、自分が不運続きのため叔母の着物を皆質に入れた、だからこのまま還すわけには行かぬとか、叔母は身体が弱いから百姓仕事はとてもできない、自分もいつまでもこうしてはいないつもりだから、そのうちきっといい縁先を都会に見つけて、自分が親元となって縁づけるなど、いろいろの理窟をつけて還さなかったのだそうである。
哀れな祖母よ、祖母は無論父のこの言葉を信じなかったに相違ない。
けれど、祖母は無智な田舎の百姓女である。
この狡猾な都会ものの嘘八百に打ち勝つことがどうしてもできなかったのである。
祖母は空しく帰って行った。
父は厄介神を追っ払って安堵の胸を撫でおろしたことであろう。
ひとり胸の苦しさを増したのは母であったに違いない。
実際それから後の私の家は始終ごたついていた。
では叔母は?
叔母とても決して晴やかな気持ちでいたわけではなかろう。
叔母が時々、二月も三月も家にいなくなったのを私は覚えている。
そして、それは後からきいたことではあるが、叔母が父を遁れて独りこっそりと他人の家に奉公に行っていたのであった。
が、その度に父は根気よく尋ねまわって、しまいにはとうとう探しあてて来るのであった。
二度目に叔母がつれ戻されたとき、私達はまた引越した。
それは横浜の久保山で、五、六町奥に寺や火葬場を控えた坂の中程にあった。
父は相変らず何もしていないようであったが、そのうちどうして金をつくって来たのかその坂を降りたとっつきの住吉町の通りに今一軒商店向きの家を借りた。
父はその家で氷屋を始めたのだった。
氷屋の仕事は叔母の役目だった。
母と子供達は山の家に残り、父は昼間だけそこに行って帳面をつけたり商売の監督をするのだと言っていた。
が、それはただ初めの間だけのことで、ほどなく滅多に山の家には帰って来なくなった。
つまり体よく私達母子を、父と叔母との二人の生活から追ん出してしまったのである。
私はその時もう七つになっていた。
そして七つも一月生れなのでちょうど学齢に達していた。
けれど無籍者の私は学校に行くことができなかった。
無籍者! このことについては私はまだ何も言わなかった。
だが、ここで私は一通りそれを説明しておかなければならない。
なぜ私は無籍者であったのか。
表面的の理由は母の籍がまだ父の戸籍面に入ってなかったからである。
が、なぜ母の籍がそのままになっていたのか。
それについてずっと後に私が叔母からきいたことが一番本当の理由であったように思う。
叔母の話したところによると、父は初めから母と生涯つれ添う気はなく、いい相手が見つかり次第母を捨てるつもりで、そのためわざと籍を入れなかったのだとのことである。
ことによるとこれは、父が叔母の歓心を得るための出鱈目の告白であったかも知れない。
ことによるとまた、父のいわゆる光輝ある佐伯家の妻として甲州の山奥の百姓娘なんか戸籍に入れてはならぬと考えたのかも知れない。
とにかく、そうした関係から、私は七つになる今までも無籍者なのであった。
母は父とつれ添うて八年もすぎた今日まで、入籍させられないでも黙っていた。
けれど黙っていられないのは私だった。
なぜだったか、それは私が学校にあがれなかったことからであった。
私は小さい時から学問が好きであった。
で、学校に行きたいと頻りにせがんだ。
余りに責められるので母は差し当り私を母の私生児として届けようとした。
が、見栄坊の父はそれを許さなかった。
「ばかな、私生児なんかの届けが出せるものかい。
私生児なんかじゃ一生頭が上らん」
父はこう言った。
それでいて父は、私を自分の籍に入れて学校に通わせようと努めるでもなかった。
学校に通わせないのはまだいい。
では自分で仮名の一字でも教えてくれたか。
父はそれもしない。
そしてただ、終日酒を飲んでは花をひいて遊び暮したのだった。
私は学齢に達した。
けれど学校に行けない。
後に私はこういう意味のことを読んだ。
そして、ああ、その時私はどんな感じをしたことであろう。
曰く、
明治の聖代になって、西洋諸国との交通が開かれた。
眠れる国日本は急に眼覚めて巨人の如く歩み出した。
一歩は優に半世紀を飛び越えた。
明治の初年、教育令が発布されてから、いかなる草深い田舎にも小学校は建てられ、人の子はすべて、精神的にまた肉体的に教育に堪え得ないような欠陥のない限り、男女を問わず満七歳の四月から、国家が強制的に義務教育を受けさせた。
そして人民は挙って文明の恩恵に浴した、と。
だが無籍者の私はただその恩恵を文字の上で見せられただけだ。
私は草深い田舎に生れなかった。
帝都に近い横浜に住んでいた。
私は人の子で、精神的にも肉体的にも別に欠陥はなかった。
だのに私は学校に行くことができない。
小学校は出来た。
中学校も女学校も専門学校も大学も学習院も出来た。
ブルジョアのお嬢さんや坊ちゃんが洋服を着、靴を履いてその上自動車に乗ってさえその門を潜った。
だがそれが何だ。
それが私を少しでも幸福にしたか。
私の家から半町ばかり上に私の遊び友達が二人いた。
二人とも私と同い年の女の子で、二人は学校へあがった。
海老茶の袴を穿いて、大きな赤いリボンを頭の横っちょに結びつけて、そうして小さい手をしっかりと握り合って、振りながら、歌いながら、毎朝前の坂道を降りて行った。
それを私は、家の前の桜の木の根元に踞んで、どんなに羨ましい、そしてどんなに悲しい気持ちで眺めたことか。
ああ、地上に学校というものさえなかったら、私はあんなにも泣かなくって済んだだろう。
だが、そうすると、あの子供達の上にああした悦びは見られなかったろう。
無論、その頃の私はまだ、あらゆる人の悦びは、他人の悲しみによってのみ支えられているということを知らなかったのだった。
私は二人の友達と一緒に学校に行きたかった。
けれど行くことができなかった。
私は本を読んでみたかった。
字を書いてみたかった。
けれど、父も母も一字だって私に教えてはくれなかった。
父には誠意がなく、母には眼に一丁字もなかった。
母が買い物をして持って帰った包紙の新聞などをひろげて、私は、何を書いてあるのか知らないのに、ただ、自分の思うことをそれに当てはめて読んだものだった。
その年の夏も恐らく半ば頃だったろう。
父はある日、偶然、叔母の店から程遠くない同じ住吉町に一つの私立学校を見つけてきた。
それは入籍する面倒のない、無籍のまま通学のできる学校だったのだ。
私はそこに通うことになった。
学校といえば体裁がいいが、実は貧民窟の棟割長屋の六畳間だった。
煤けた薄暗い部屋には、破れた腸を出した薄汚ない畳が敷かれていた。
その上にサッポロビールの空函が五つ六つ横倒しに並べられていた。
それが子供達の机だった。
私のペンの揺籃だった。
おッ師匠さん――子供達はそう呼ばされていた――は女で、四十五、六でもあったろうか、総前髪の小さな丸髷を結うて、垢じみた浴衣に縞の前掛けを当てていた。
この結構な学校へ私は、風呂敷包みを背中に斜めに縛りつけてもらって、山の上の家から叔母の店の前の往来を歩いて通った。
多分私と同じような境遇に置かれた子供たちであろう。
十人余りのものが狭い路地のどぶ板を踏んで通って来るのであった。
父は私をその私立学校に、貧民窟の裏長屋に通わせるようになってから、私に噛んで含めるように言いきかせるのだった。
「ねえッ、いい子だからお前は、あすこのお師匠さんのところへ行ってることをうちに来る小父さんたちに話すんじゃないよ。
それが他人に知れるとお父さんが困るんだからね、いいかい」
叔母の店は非常に繁昌したようである。
がそれでいて些しも儲けがなかったようである。
いや儲けがあったのか知れないけれど、何分父が毎日お酒を呑んだり、はなをひいたりしているのだからうまく行くはずはなかったのだろう。
のみならず、父と叔母とはその頃、世間の噂にのぼるようなのぼせ方であったらしい。
それでも叔母の家はまだよかった。
困っていたのは私達母と子であった。
ある日のことである。
私達は何も食べるものがなかった。
夕方になっても御飯粒一つなかった。
そこで母は、私と弟とをつれて父を訪ねて行った。
父はお友達の家にいた。
が、母がどんなに父に会いたいと言っても父は出て来なかった。
恐らく母はもう耐えきれなかったのだろう。
いきなりその家の縁側から障子をあけて座敷に上った。
明るいランプの下に、四、五人の男が車座に座って花札をひいていた。
母は憤りを爆発させた。
「ふん、大方こんなことだろうと思ってた! うちにゃ米粒一つだってないのに、私だってこの子供たちだって夕ご飯も食べられないって始末だのに、よくもこんなにのびのびと酒を呑んだり花を引いたりしていられたもんだね……」
父も腹立たしそうに血相を変えて立ち上った。
そして母を縁から突き落し、自分も跣足のまま飛び降りて母に撲りかかって来た。
もし居合わせた男たちが父を後から抱き止めて、母をすかし宥め、父を部屋に連れ戻してくれなかったなら、憐れな母は父にどんなめに合わされたかも知れなかった。
人々のおかげで母は撲られなかった。
その代り、米粒一つも鐚一文も与えられずに、私達はその家をすごすごと立ち去らなければならなかった。
悲しい思いを胸におさめながら私達は黙々と坂道を上っていた。
「おいちょっと待て」
父の声である。
私達は父が米代をもって来てくれたのだと思って急に明るい心になった。
ところが実際はそうではなかった。
何と残酷な、鬼見たような男で父はあったろう。
立ち止まって救いを待っている私達に近寄ると、父は大きな声で怒鳴りたてた。
「きくの、よくもお前は人前で俺に恥をかかせたな。
縁起でもない、おかげで俺はすっかり負けてしまった、覚えてろ!」
父はもう片足の下駄を手に取っていた。
そしてそれで母を撲りつけた。
その上、母の胸倉を掴んで、崖下に衝き落すと母を脅かした。
夜だから見えないが、昼間はよくわかる、あの、灌木や荊が搦み合って繁っている高い崖下へである。
弟は驚いて母の背中で泣きわめいた。
私はおろおろしながら二人の周囲を廻ったり、父の袖を引いて止めたりしたが、そのうちふと、そこから半町ばかり下の路傍の木戸の長屋に小山という父の友人のいることを憶い出した。
おいおい泣きながら私はその家へ駈け込んだ。
「やっぱりそうだったのか……」とその家の主人は、食べかけていた夕飯の箸を投り出して飛んで来てくれた。
私立学校へ通い始めて間もなく盆が来た。
おっ師匠さんは子供に、白砂糖を二斤中元に持って来いと言いつけた。
恐らくこれがおっ師匠さんの受ける唯一の報酬だったのだろう。
けれど私にはそれができなかった。
生活の不如意のためでもあったろうが、家のごたごたは私の学校のことなどにかまってくれる余裕を与えなかったためでもあろう。
とにかくそんなわけで私は、片仮名の二、三十も覚えたか覚えないうちに、もうその学校からさえ遠ざからなければならなかった。
叔母の店は夏の終りまで持ちこたえられなかった。
二人はまた山の家へ引きあげて来た。
家は一層ごたつき始めて、父と母とは三日にあげず喧嘩した。
二人が争うとき私はいつも母に同情した。
父に反感を持ちさえもした。
そのために私は母と一緒に撲られもした。
ある時などは、雨のどしゃぶる真夜中を、私は母と二人で、家の外に締め出されたりなどした。
父と叔母とは相変らず睦じかった。
けれど、実家からはいつも叔母の帰宅を促してきた。
そしてとうとう、叔母も帰ると言い、父も帰すと言い出した。
母も私も明るい心になったのは言うまでもなかった。
父はしかし、叔母を帰すについては、叔母をまさか裸では帰されないと言った。
そして、店を畳んだ金で、その頃十七、八円もする縮緬の長繻絆や帯や洋傘などを買ってやった。
ちょうど私の小さい時に私の世話を一切自分でしたように、父は叔母のそれらの買い物を一切自分でしてやった。
以前、子に向けた心遣いが今は女に向けられたのである。
もう秋だった。
父は叔母のために、旅に立つ荷造りをし、私の家にあった一番上等の夜具までもその中に包み込んだ。
母は弟をおぶって私と一緒に叔母を見送った。
「お嫁入り前のあんたを裸にして帰すなんてほんとにすまない。
だけど、これも運がわるいんだとあきらめて……」
母は幾度か幾度かこんなことを繰り返して途々叔母に詫びた。
その眼には涙さえ浮んでいた。
私達は途中まで送って帰って来た。
停車場まで送って行った父は夕方になって帰って来た。
ああ何という朗らかな晩だったろう。
子供心にも私はほっと一安心した。
静かな、静かな、平和な晩だ※(感嘆符二つ、1-8-75) けれど、やがて私達は余りにも静かな生活を余儀なくされなければならなかった。
なぜなら、すぐその翌日だったか四、五日経ってからだったか、父もまた私達の家から姿をかくしたからであった。
「ああ、くやしい。
二人は私達を捨てて駈け落ちしてしまったんだ」
と母は歯を噛みしばって言った。
胸に燃ゆる憤怨の情を抱きながら、藁すべにでも縋りつきたい頼りない弱い心で、私達はそれから、二人の在所を探して歩いた。
そしてとうとうある日、私達の家から持って行った夜具を乾してある家を目あてに二人を見出すには見出したが、私達はまた、例の下駄の鞭に見舞われただけで、何一つそこからは救いを得なかった。
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母
父に捨てられた私達はただ途方にくれた。
初めのうちはまだ、売り食いをするだけのものがいくらか残っていたけれど、それもすぐになくなってしまった。
父からはもとより鐚一文の仕送りもなかった。
だが、私達は生きなければならない。
で、母がその後、中村という鍛冶職工と同棲するようになったことを私は、非難すべきではなかろう。
「その人はいい日給取りなんだよ。
何でも一日一円五十銭だってことだから……そうすりゃ、今までよりはずっと楽にもなるし、お前を学校にやることもできるからね」と母が私に、何も知らぬ頑是ない私に、宥恕を乞うような口調で言ったのを私は覚えている。
中村は小さな風呂敷包を抱えて来て、いつの間にか私達の家で寝起きするようになっていた。
毎朝彼は、菜っ葉服を着て、弁当箱をさげて、少し離れた工場へ通った。
中村はその頃四十八、九歳だったろう。
胡麻塩頭に、底意地わるく眼が窪んで、背が低くて猫背で風采のわるい男だった。
若い頃はかなり上品で貴公子然としていた私の父、しかもいやに労働者風情を軽蔑した父、その父に知らず知らず感化されていた私には、この風采のわるい中村に親しむことはおろか口をきくのもいやであった。
で、私は、かりにも養父であるこの中村を、まるで他所の人のように、いつも「小父さん、小父さん」と呼んでいた。
母は別にそれを改めさせようともせず、自分でも蔭では「ヒゲ」という綽名で侮蔑的に彼を称んでいた。
私は中村の言葉には何かにつけて口答えをした。
そして中村もまた、何かにつけて私を苛めた。
母がいない時などは、自分だけこそこそと御飯を食べて、飯櫃を私の手の届かぬ高い処へ載せておいたり、私を蒲団の中にくるんで押入れの中に投げ込んだり、ある夜などは私を細曳で手鞠のように搦げて、近くの川の水際近くの樹の枝に吊したりさえした。
母はもちろんそれを知っていたようである。
だけどどうすることもできなかった。
そしてただ、私達をこうした境遇におとした父と叔母とを呪った。
「あいつらは今に罰が当って野垂れ死するよ」と母はいつもこう言っていた。
中村と一緒に生活していた間に私の最も悲しかったことはしかし、中村に苛められ責まれたことではない。
それは弟と訣れたことであった。
ある日私は、母と中村との話を、それとなくちらと耳にした。
「それじゃなるべく早くつれて行ってやる方がいいね、どうせ先方の子なら余り大きくならないうちの方がいいよ」
こう中村が言う。
「あんな男にやるなあ心配でならないけれど、といってどうすることもできないし」
こう母が言った。
私にはそれが何のことだかよくわかった。
私は不安になった。
「ねえかあちゃん、賢ちゃんをどこかへやるの」ととうとう私は耐えられなくなってきいた。
母は私に、母と父とが別れるのについて、子供を一人ずつ、私を母が、弟を父が、育てることに約束しているのだということを説明した。
だが、私は悲しかった。
今のところ私の本当のお友達が弟一人であるようにも思っていたし、第一、私は私の愛するものをもっていたかった。
私は熱心に母に願った。
「ねえ母ちゃん。
私明日からお友達と遊ぶのをよして、朝起きてから晩寝るまできっと賢ちゃんを見るから、ちょっとも泣かせないように一生懸命お守をするから、お父さんのとこへ連れて行くのは止してよ。
ねえ母ちゃん、そうしてね、私ひとりぼっちになると寂しいから……」
けれど母は私の願いをきき入れようとはしなかった。
「そんなわけには行かないんだよ、ふみや。
あの子がいるとわしもお前も年中苦労しなきゃならないんだよ。
それにちょうどお前のお父さんからあの子を寄越せって言って来ているんだから……」
私が何と言って頼んでみても母は頑として応じないのを見た私は、とうとう、次ぎの日、中村のいないときに母にこう言った。
「ねえ母ちゃん。
賢ちゃんがどうしてもお父さんのとこへ行かなきゃならないんなら、私も一緒につれてってくれない? 賢ちゃんがいなくなって私独りぼっち小父さんのところにいるのが怖いんだから……」
だが、大人には大人の理由があって、子供のそうした感情なんかてんでわからないかのように母は冷酷に私の願いを却けた。
それは私には運命のようなものであった。
私はとうとうその力の前に屈従しなければならなかった。
それから間もなく弟は母の背に負ぶわれて父の所へ連れて行かれた。
父達はその頃、汽車に乗らなければ行けぬ静岡に住んでいた。
弟がいなくなって程なく、私たちはまた引越した。
引越したと言ってもそれは他人の家に間借りしたのに相違なかった。
線路脇の焼いた枕木の柵に接近した六畳と四畳半ぐらいの小さな家だったが、その六畳の方には五人家内の沖仲士か何かの一家族が住み、私達は四畳半の間に住むことになっていた。
恐ろしく汚い部屋で、障子に貼った新聞紙は煤けて真っ黄色に染まり、畳は破れて腸をはみ出していた。
中にも窓下の畳は一番大きな穴を見せていたが、母はその上に長火鉢を載せた。
その他のにはボール紙をあてて上から白い糸で畳に縫いつけた。
そうしてやっと穴から出て来る埃を防いだ。
中村は相変らず工場に通っていた。
母は少し離れた河岸の倉庫に豆選り仕事を見つけた。
でも私は独りで家に取り残されることはなかった。
母の熱心な願いがきき届けられて、私も附近の小学校に、無籍のまま通うことを許されたからであった。
無論私は嬉しかった。
弟と別れた悲しみも学校に行くことによって忘れられた。
第一その学校は、この前のような日蔭者の学校ではなかった。
設備の整った堂々たる学校であったように私には思われる。
子供達も総じて良家の子弟らしく、女の子などはみんな美しい衣物を着、毎日変ったリボンを着けて来、中には女中や小僧に送り迎いされるものもあった。
だがそれがまた私を苦しませた。
通い始めていくらも経たぬ間に、石版を使ってはならぬ――それは肺にわるいからというのであった――その代り鉛筆とノートをもって来いということになった。
ところが、私にはそれがなかなか思うに任せなかった。
中村は無論私にはかまってくれない。
といって母にはおいそれとそれを買ってくれる余裕がない。
で、私はその一冊のノートと一本の鉛筆とを買えるまで二、三日も学校を休まなければならなかった。
母は私を、もっと費用のかからぬ学校に転校させたかった。
けれど住居地の関係上それは不可能だった。
ある日、父がふと私達を訪ねて来た。
父はその頃、何か商売でもしていたらしく、何か大きな風呂敷包みを背負っていた。
が、その顔は子供の眼にも驚かれるほどやつれていた。
あれほど反感をもっていた父である。
けれどやっぱり私は何となく嬉しかった。
父が、持って来た荷物を部屋の隅に置いて、長火鉢の脇に座って中村と何か話している間にも、私は何となく父の方が遥かに偉いような気がしたばかりでなく、甘えたいような心にさえもなった。
で、中村がちょっと席をはずした時、私は父の耳に口を押しつけて小さな声で、「ゴム毬を買って」と頼んだ。
ああ私は、学校の遊び仲間の誰もが持っているそのゴム毬をどんなに欲しいと常々思っていたことか。
その夜、父は私を縁日につれて行ってくれた。
家の前の路地を出外れると、「さあおんぶしてやろう」と父は往来にしゃがんで私をその背にのせた。
ちょうどもっと小さい時分に肩車にのせてくれたように。
縁日の屋台店で私はゴムまりを見つけた。
どれでも好きなのを取れと父は言った。
私は紅い花の模様のある毬を大きいのと小さいのと二つを取った。
屋台店の上にはまだいろいろなのがあった。
私はそれらにぼんやりと見とれた。
「まだ何か欲しいかい」と父は訊いた。
私は黙ってかぶりを振った。
「かわいそうに……」と父は急いでそこを離れてから声をうるませて言った。
「お前はまだいろんなものが欲しいだろう。
お父さんも買ってやりたいが……お父さんは今非常に貧乏をしているんだ……どうか我慢してくれ、ね、ふみ子や……」
胸から何かこみ上げて来るのを私は感じた。
けれど、やっと私はそれをおさえつけた。
子供心にも大勢の人の前で泣くのが恥かしかったのだ。
私達はなおしばらく夜店の街を歩いてから帰った。
明るい町を通りすぎて暗い寂しい路地に這入ると父は言った。
「ねえふみ子や、父さんが悪かったんだ。
堪忍しとくれ! 父さんが心得違いをしたばっかりに何にも知らないお前にまで苦労をさせて、ほんとうに済まない。
だけどねふみ子、お父さんはいつまでもこんなに貧乏してはいないよ。
その時は一番さきにお前を楽にしてやるよ。
それまで待ってておくれ……」
父は明らかに泣いていた。
声をうるませて、涙をすすっていた。
私も泣いた。
私はしかし子供のようではなかった。
義理人情をわきまえた大人のように私は言った。
「そんなことどうでもいいの。
どんなに貧乏してもいいの。
ただ、お父さんの家へ連れてって……賢ちゃんとこへ連れてって……」
「わかってる、わかってる」父は一層しゃくり上げて言った。
「出来るなら父さんは連れて行ってやりたい。
いくら困るからって、お前一人ぐらいは飢え死にはさせぬ。
けれど、今お前を連れて行ってはお母さんが寂しい。
お母さんはお前をばかり頼りにしているんだから。
だから今しばらく我慢おし。
そして母さんや今のお父さんの言うことをよくきいて温和しく待っていておくれ、そしたらお父さんが迎えに来る。
きっと迎えに来る……」
父は歩くのをやめていた。
路傍に立ったまま声をしぼって泣き続けた。
私も父の背にしがみついて、しゃくり上げながら泣いた。
だが、父はいつまでもそうしてはいなかった。
やがてはっきりとした口調で「さあ帰ろう、お母さんが待っているだろう」と強い足どりで歩き出した。
そして家の側の路地の入口まで来たとき、私を背から下ろして、白いハンカチで私の涙を拭いてくれた。
その夜おそく父は再び荷を負うて、とぼとぼと帰って行った。
それからというもの、私は夕方にさえなれば路地を駆け出して行って表の人通りを眺めた。
それは父が迎えに来てくれているように思われたからであった。
だけど父はもうそれっきり、私を迎えに来てはくれなかった。
私達はまた引越した。
引越すと、母は何よりもさきに私を小学校に通わせるために学校の校長に泣きついた。
そしてやっとその願いが叶えられた。
その学校は前の学校から見るとずっと身窄らしかった。
生徒にも貧乏人の子が多くて私にはまず相当した学校であった。
だのにそこでは明らさまに私は邪魔もの扱いにされた。
朝、授業が始まると、教師は子供らの名前をいちいち呼んで出席簿をつける。
けれど同じように出席していながら私の名だけは呼ばれない。
私の隣の子まで来て私がはねられる。
今考えると何でもないことだが、でも子供にとってはかなり肩身の狭い辛いことだった。
そのために私はわざと遅れて行くか、でない時は、教師が子供らの名を呼んでいる間じゅう机の蓋をあけてその中に顔を突っ込んでいたり、要もない本を披いて読んでいたりした。
そして教師に叱られると前掛けの下に手を入れてもじもじしていた。
入学した翌月――多分――のことだった。
ある朝、私は月謝の紙袋を先生に渡した。
すると程なく私は職員室へ呼び出された。
何のためだか私にはわからない。
私は平気な顔をして職員室に這入った。
受持ち教員は私に、私の渡した紙袋を見せて、こう言った。
「これは袋ばかりじゃないか。
中に何も這入っていない。
どうしたんだね」
無論、どうしたもこうしたもない。
私はただ母が月謝を入れてくれたのをもって来たばかりだ。
「どうもしません」
こう答えるよりほかはなかった。
「どうもしないのに中のお金がなくなっているはずはない。
途中で何か買ったんだろう」
「いいえ」
「それでは途中で落したんではないか」
「いいえ、鞄の中に入れてあったんですから……」
校長も恐い眼をして私を責めた。
買い食いでもしたろうと私を脅かした。
遂には私の鞄までもしらべられた。
けれど、鞄の中にはお金もなければ買ったらしいものもなかった。
校長と受持ち教員の眼はますます光った。
彼らは私が何か買ったのに違いないときめているらしく、そんなことをする不心得を詰った。
私はしかしいくら責められても知らぬことは知らなかった。
何も知らないと私は言い張った。
小使が私の家に走って、母が呼び出された。
校長の前に呼び出された母は、初めはちょっと面喰らったような風だったが、母にはすぐ事の真相が掴めたらしかった。
「それはあの娘がしたのではありますまい。
大丈夫そんなことはしません」
こう言って母は、私のために弁解してくれた。
母は言った。
「月謝は昨晩、私が入れて、落すといけないから鞄の中に入れておいたのです。
それを良人が見ていました。
鞄は壁に掛けておいたんですが、多分良人がそれを、工場に行くときに抜き取って持って行ったんでしょう。
そんなことは今日が初めてではないんです」
そうして母はなお、そうしたいろいろの実例を話してくれた。
実際私もそれを知っている。
雑記帳の中に入れておいた鉛筆が、学校に行ってあけてみるとない。
私は泣きながら家に帰った。
そうしたことは二度や三度ではなかった。
母の話が校長の心を動かしたに相違なかった。
私はその時校長が私の母に話したことを傍できいて憶えている。
「こんなしっかりした娘をそんな境遇に置いとくのは可哀相だ。
どうだね。
できるだけ世話を見てあげるから、いっそのこと私の養女にくれないかね」
今から考えて見て、それは校長が本当に私に同情したためであったか、それとも校長に子がなかったのでちょうどいいと考えたためであったか、それはわからない。
けれど、とにかく私には、いやな疑いから解き放たれて、かえって私のために考えてくれるようになったのが嬉しかった。
「ありがとうございます」と母は校長に感謝した。
けれど、母は無論私を手放すことはできなかった。
母はつづけた。
「けれどこの娘は私のたった一人の子で、私もこの子ばかりが楽しみなんですから、どんな苦労をしても自分の手で育てあげたいと思っているんでございます……」
校長はそれでも無理にとは言わなかった。
私はまた母の手にひかれて私達の巣に帰った。
このことから、母と中村との間にいさかいがあったに相違なかった。
中村は今までにも外で酒を呑んでいたらしかったが、そのために私の月謝までも必要だったのかも知れないが、その後は一層それが甚しくなったようだった。
中村の脱ぎ捨てた仕事着のポケットの中からは時々、小料理屋の勘定書や請求書などが出てきた。
その癖彼は、台所の入費を節約しろの、炭の使い方があらいだのと母に小言を言っているのだった。
母はまた悩ましい日を送り始めた。
思うにそれは、私の父に対するが如くに好いて一緒になったわけでもなく、ただ、生活の便宜のためにのみ一緒になった中村との間のことだから、一層つらかったのに相違ない。
が、そのうち中村は、何でも工場の機械か何かを盗み売ったとかいうので、会社から解雇された。
それをしおに、母は中村と別れた。
中村と別れてから、私達はひとまず世帯を畳んで、知合いの家に身を寄せた。
母は私をその家に預けておいて、自分は毎日、働き口を探してまわった。
そして朝出かけるたびに母は私にこう言うのだった。
「ねッ、表の往来なんかに出て遊ぶんじゃないよ。
中村に見つかるかも知れないからね」
察するところ母は、中村が不承知なのを無理にわかれたものらしかった。
母は毎日仕事を探してまわった。
が、市内には好ましいのが見つからなかった。
ただ、母の知合いのおかみさんの兄が、郊外の田舎の製糸場で監督をしているとかで、母はそこへ行くことにきめたらしかった。
母は嬉しそうに私に話してきかせた。
「その人は何しろ、監督さんだっていうことだからね。
監督さんならはばもきくから、その人を頼って行けば、わしらに同情してくれるに違いないよ。
きっと何とかなるよ」
子供の私にさえはがゆいほど、母は依頼心が強かった。
母は、独りでは一歩も踏み出し得ない女だった。
一足歩むにも何か自分を支えてくれるものがなくてはならぬ女であった。
といって私は子供である。
私は母に従わなければならなかった。
製糸場に行っても、しかしいいことはなかった。
第一、頼って行った人は監督でも何でもなかった。
実はごく下っ端の釜番だったのにすぎなかった。
でも私達はそこで三ヶ月ほどを過した。
その間の記憶は不思議に何も残ってはいない。
たった一つ残っているのは、ある日、朝鮮飴をもって父がひょっくりと姿を現わしたことだった。
ああ私はその時どんなに喜んだであろう。
約束を守って父は私を迎えに来てくれたのに相違ない。
父は私を迎えに来てくれるほど、楽な生活をしているに違いない。
私はそう思った。
けれど、実際はそうではなかった。
父には相違なかった。
けれど何とまあ身窄らしくなった父であったろう。
彼はもうゴム鞠を買ってくれた父ではなかった。
父が来ると母は工場を休んで父と暮した。
別れなかった前のように二人は暮した。
が、いつとは知らず、父の姿はまた見えなくなった。
何日ぐらい父がいたのか、いつ去ったのか、それさえ印象されてないほど、私も父もお互いに無関心になっていたように思われる。
私達はまた町に舞い戻って来た。
母は紡績工場に職を見つけたらしかった。
私達は長屋の一軒を借りて住み、私はまた、以前の同情ある校長を戴く学校へ通い始めた。
もともと何もないので楽だとはいわれないが、今度は二人っきりで、何も足手纏いもないので、生活は比較的順調だった。
二人の上に何か災難でも振りかかって来ない限り、私たち母子は、淋しいながらも親しみ深い生活を続け得るだろうと考えられた。
いつまでもこのままでいてくれればいい。
子供心にも私はこう祈りたいような気がした。
ところがやっぱりそれが駄目だった。
依頼心の深い母だ。
それに、男なくてはいられぬ女だったに相違ない――今から考えて見て――母はまた若い男と同棲した。
その男は母よりも七、八つも年下で、その頃何でも二十六、七だったろう。
母の知合いの後家さんの家に下宿しているというので、私も無論その男を見て知ってはいる。
髪を長くのばして油をこてこてに塗って綺麗に分け、青い絹のハンカチを首に捲いて、そして巻煙草をふかしながらよくそこいらをふらついていた。
この男と同棲することに決めたらしい時に、母は私に言った。
「とても働き者だっていう評判だよ。
それに何しろ若いんだからね、うまく働いてくれさえすれば今度こそお前もわしもずっと楽になるよ」
私はいやだった。
何となく悲しくさえあった。
私は少しこまちゃくれてはいたがそれとなく母に反対してみた。
「あまり働きものでもないらしいよ母ちゃん、昨日だって、一昨日だって、先だって、いつでもぶらぶら遊んでいるのを私見て知ってるわよ」
母はしかし私の抗議には耳をかさなかった。
昨日や一昨日遊んでいたのは風邪をひいたので工場へ勤められなかったのだとその男のために弁解して、何しろ稀らしい働き者だと、後家の小母さんが話したということを力説するのだった。
こんな話があってから三日とは経たぬうちに、その男は私達の家に来て、そのままずるずるべったりに私達の家で寝起きすることになった。
その男は小林といった。
小林は沖人夫であったが稀に見る怠け者だった。
で、彼を下宿させていた――事実は夫婦だったのだが――前科二、三犯もある年増の後家さんも手にあまして、それを私の母に押しつけたのだった。
後のたたりのないように母をそそのかして母に乗りかえさせたのであった。
小林は家に這入り込んだきりちょっとも外へは出なかった。
たまに仕事に出かけて行っても、時間が遅れてあぶれてしまったとか何とか口実をつけてはぶらりと帰って来た。
母もまた、いつの間にか工場をやめて、二人はただ寝て暮した。
そしてなるべく私を遠ざけようとした。
ある夜のことだった、もう九時も過ぎたが、私はまだ起きていて、たった一つしかない六畳の部屋の片隅で学課の復習か何かしていた。
小林と母とはすぐ脇の布団の中で、無遠慮にふざけ散らしていたが、そのうち突然母が私に、焼芋を買って来いと言いつけた。
寝たまま腕をのばして、母は枕もとの蒲団の下から蟇口を引きずり出して私の方へぽいとそれを投げた。
中から五銭の白銅貨と銅貨が三つ四つばらばらと畳の上にころがり落ちた。
「今ごろ焼芋だって母ちゃん」私は不服で母に抗議した。
「あそこの焼芋屋は早仕舞いだからもう寝ているわよ」
母はじれったそうに荒っぽく言った。
「焼芋屋はあそこ一軒じゃないよ。
裏通りのお湯屋の隣へ行けばまだ大丈夫起きている、はやく行っといで……」
裏通りのお湯屋の脇の焼芋屋。
それをきくと私は、子供の私は、身震いするのを感じた。
そこに行くには八幡様の森の大樹の下を通らねばならない。
「ねえ母ちゃん、お菓子にしようよ、お菓子屋ならすぐそこの明るいところにあるから」
「いけない! 焼芋でなけりゃいけない」母は疳声をたてて怒鳴りつけた。
「お前は親の言うことを聴かないのかい。
早く行っといで、この意気地なしめ。
何が怖いものか」
母の権幕に怖れて私は決心した。
「じゃあいくら買って来るの」
「ちゃぶ台の脚のところに五銭ころがっている。
それだけ買っといで」
母は蒲団の中から顎をしゃくって言った。
私は不精不精白銅を取り上げて起ち上った。
そして台所の風呂敷を持って勝手元の土間へ降りた。
戸を開けて恐る恐る外を見て私は躊った。
ヒューヒュー風が吹いていて外は真っ闇だった。
遠くの方からかちかちと火の番の拍子木の音が聞える。
斜め左の方に真黒な八幡様の森が聳えている、その森は昼間見るよりも近くに拡がっていて、どしんとおっかぶさっていた。
その樹の下を私は一人で通らねばならないのだ。
けれど仕方がない。
私は行かねばならぬ。
閾の外に立ちすくんで私はもじもじしていた。
と、いきなり母は起き上って来て「はやく行かないか」と私を外へ突き出して、ぴしゃりと戸を締めた。
こうなればもう運命だ。
私はありったけの勇気を出して、死んだ気になって息もつかず駆け出した。
森の下をいつどうして通ったのか私は覚えていない。
焼芋屋で温かい芋を風呂敷に包んでもらって、再びまたもとの森の下を何物かに追っかけられるような気に追い立てられながら、ひた走りに走って家の中に飛び込んだ。
だが、ああその時! 私は思わず顔をそむけて再びまた暗い戸の外へ跳ね返されないではいられなかった。
母は焼芋が食べたくはなかったのだ。
ただ私を追ん出したかったのだ。
春になって学校の修業式が来た。
が、お慈悲で通わせてくれている私には免状など与えられないとのことであった。
それでは私は進級することもできないわけだ。
母はまた校長のところに行って私のことを頼んでくれた。
その結果、私は、尋常一年の課程をおさめたという証明書がもらえることになった。
そこで私は、母の知合いの家の男の子の絣の筒袖に鬱金縮みの兵子帯を結んでもらって終業式に出た。
式場の正面の、白い布で覆うたテーブルの上には免状やら賞品やらが高く積み上げられている。
左右には白襟紋つきの子供の母達や教師たちが虔しやかに居並んでいる。
テーブルを前にして、それ相当の晴衣を着た子供達がずらりと並んでいる。
式が始まった。
校長は何か話をしてから、テーブルの前にいちいち子供達を呼んで免状や賞品を渡した。
子供達は嬉しそうにニコニコと笑いながら誇らしげに賞品や免状をもらって引きさがった。
最後に私の番が来た。
呼ばれるままに私は、子供達の列の間をぬけて、やはりニコニコとしてテーブルの前に立った。
最敬礼をして、私は両手を高く上げた。
校長は私に紙を渡した。
ああ、実際それは紙だったのだ。
ほかの子供達には四角で堅くてぴんとした紙に活字で刷った修業証をくれたのだが、私のだけは、半紙を二つ折にして、筆で何か小さく書いたものだったのだ。
校長の手からそれを受け取ると、それはぐにゃりと折れ下がってしまうのだった。
私はどんなに侮辱を感じたことだろう。
仲間の皆が手にした上等な免状も賞品も、左右に並んでいる父兄や教師たちも、一体、修業式が行われるというそのことさえも、すべて私を侮辱するためのものだとしか私には思われなかった。
こんなことならむしろ来なければよかった。
男の子の着物まで借着して来た自分が恨めしかった。
それはまだいい。
私の家の暮し向きは日一日と苦しくなって行った。
私達はただ売り喰いをしていたのだった。
で、鼠入らずももうなくなった。
長火鉢も売られてしまった。
金に替えられるものは片っ端から売りとばされた。
そしてとうとう、私の番になって来た。
つまり、私を女郎屋の娘としてだ。
ある日のことだった。
私の家は食うにも困っているということが子供の私にさえわかっているのに、母は私にビラビラの下った赤い梅の花簪を買って来てくれた。
それはかねて私の欲しがっていたものだったので、私の喜びようッたらなかった。
母は私の髪を梳きつけて、それを頭に挿してくれた。
着物は無論不断着一つしかないのだから新しいのには更えてくれなかったけれど、でも、きちんと格好よく着せなおしてくれた。
そうしてくれながら、母は私に、うちはどんなに困っているかとか、お前をこんな風にしておくのは可哀相だとか、いったような話をしみじみと話した。
私はついつまされて涙が出そうであった。
だが、そのうち母は、急に言葉の調子をかえて晴々しく私に言うのだった。
「だがねふみや、仕合せなことに、お前を貰ってくれるところがあるんだよ。
そこは、うち見たいに貧乏でないし、しまいには玉の輿にさえ乗れるかも知れないんだよ」
私は母と離れて余所の家にやられることが寂しかった。
けれど、子供ではあっても、私のために母がどんなに苦労するかを知っていたので、そういったところがあるなら行ってもいいと思った。
私は無論「玉の輿」って何だか知らなかった。
けれど、そんなものに乗れるということは、きっといいことに違いないと思った。
そうして私は悲しいような嬉しいような何ともいえぬ気持ちで母について家を出た。
母は私を、ちょっと小意気な家につれて行った。
私達はその家の上り框に腰を掛けて、しばらく待った。
すると黒襦子の帯を引き抜きに締めた年増の女が出て来て横柄に私の母に挨拶を返した。
今から考えると、それは芸妓や娼妓の世話をする、つまり人身売買業ともいうべき口入屋だったのである。
年増女はじろじろと私の顔を眺めた。
そしてこの一箇の商品を前に置いて二人の間に取引きが始まった。
「何といってもこの娘は余り小さすぎるじゃないかね、これがものになるまでには、どんなに割引きして見積っても五、六年はかかる。
その間の費用が大変だ。
第一ただ遊ばせておくわけにも行かんから学校にもやって、せめて尋常小学校だけでも卒業させにゃならん。
その上、お客の前に出て応待のできるように仕込まにゃならん。
だから、それまでにするにゃ、かなりのもとでがいるというわけだからね……」
これが先方の懸引であった。
母は……母は、真実悲しい思いをしたに違いなかった。
泣きじゃくりしながら母は答えた。
「私は、……私は、ほんとうは金が欲しくてこの子を娼妓にしようというんではないんです。
だからお金のことなんかはどうでもいいんです。
ただ、私が余り貧乏しているので、そうした方がむしろこの娘の仕合せになると考えたからなんです」
「それはそうだろう。
いくら娼妓でも出世すればまたたいしたものだから……」
と、買い手は私の母の弱点につけ込んで、それに相槌を打つと、母はここぞとばかりに持って来ていた私の父の戸籍謄本や系図の写し見たようなものを見せて、私の家が、父のいわゆる何とかいう氏族の末裔に当るということを対手にわからせようと努めた。
そして附け加えるのだった。
「そうすれば何かにつけて肩身が広いだろうと思いまして、そして、出世にも都合がよかろうと思いまして……」
多分対手の女はいい小鳥が網にかかったと思ったのだろう。
お金のことは母もさほど不服そうでなく話は大体きまったようだった。
私は無論、母がつれ出すときと話が大分違っているのを知っていた。
けれど私にはまだ娼妓はどうの芸妓はどうのといったようなことがわからなかった。
その上、学校にもやってくれ、行儀作法も教えてくれるのだと思えば、さほどいやでもなかった。
ところが、それでは私がどの方面にやられるのかということになってから、母が考え出した。
年増女は私を、東海道の三島にやるのだと言った。
三島と聞いて母は急に憂鬱な顔になった。
「もっと近いところへやってもらえないでしょうか」母は嘆願するように言った。
「三島といえば余り遠すぎて時々会うこともできませんから……」
「そうねえ」相手もちょっと当惑した顔をして答えた。
「生憎近いところには口がなくて、ただ三島からだけ口がかかっているんでねえ……」
母は幾度か、もっと近いところを主張したが、相手はそれでは駄目だと言った。
そこで母はとうとう断念したらしかった。
「それではまた、いつかお願いすることにしましょう」
こう母は残念そうに断って、そして私達は、また暗い寂しい家に帰った。
今から考えてそれはどんなにか私の幸福だったろう。
のみならず、母が私を、そうする方が私の幸福だと考えたからだと言ったこともうそのような気がする。
なぜなら、ほんとにそうだったら、私にたびたび会えないからといって断る理由がないと私は考えるからである。
最後のものを売り損ねた一家はどうにもこうにもならなくなった。
家主は毎日のように家賃の居据り催促をする。
近所の小店は何一つ貸売りしてくれない。
そこで、母と小林とはこっそり相談をしたのであろう、ある夜私達は家財道具のありったけをてんでに背負って夜逃げをした。
落ちついたさきは、ずっと場末の木賃宿だった。
私達はとうとう「どん底」生活に落ち込んだのである。
私達は三畳の部屋を借りていた。
他の部屋には人夫や蝙蝠傘直しや易者や手品師や叩き大工といったような手輩が一緒くたにゴタゴタ住んでいた。
多くは雨が降ろうが日が照ろうがブラブラ遊んでいて、いよいよ切迫つまって初めて不精不精に印袢纏をひっかけたり破れ袴の皺をのしたりして出かけた。
そして、帰りには安酒を呷ってぐでんぐでんに正体もなく酔っ払って来た。
するとまた乱ちき騒ぎが始まる。
ばくちを打ち、辻褄の合わぬちぐはぐな駄ぼらを吹き合う、そしてその揚句のはては恐ろしい喧嘩だ。
こうした空気の中に在って、怠け者の小林が働こうはずはない。
子供の私にさえじれったくなるほど、そして、しまいにはよくもこんなに飽きないものだとほとほと感心したほど、来る日も来る日も小林は、朝から晩まで部屋の隅にころがってぐうぐう眠っていた。
私達は一日に三度の飯を食べたことは滅多になかった。
まるっきり食べない方がかえって多かった。
私はいつも空腹であった。
今でも私は空腹の時には思い出す。
私が空っぽの胃を曳きずってひょろひょろ街を歩いているうちに、ある家の芥溜めの中に、焦げついて真黒な飯が捨ててあるのを見て、そっとそれを口に入れたことを。
そしてそれをどんなに美味しいと思ったかを。
「ほんとにお前に苦労をかけてすまない」と母は常に面目なさそうな顔をして私に詫びた。
私が、「あんな男と一緒にいるからだわ」と言うと、母は一層困ったような顔をして言うのだった。
「今少し働き者だろうと思っていたのに、ほんに呆れた奴だ。
もう懲々だ、ほんとにこりた。
誰が何と言っても、石にかじりついても独りで暮した方がよかった。
あの時からずっとお前と二人きりでいたら、こんなにも落ちぶれはしなかったろうに」
母は悲しそうに首を垂れた。
しばしば言葉もとぎれた。
もう一度顔をあげたときには諦めたように、ややはきはきとものを言った。
「だけど今じゃもう別れたくっても別れられない破目になっている。
こんなことだったら、いつか別れかけたときに一思いに思い切ってしまえばよかった……」
私には何のことだかわからなかった。
ただ母の意気地なさがはがゆかった。
母はしょっちゅう小林に文句を言いつづけた。
けれど小林は挽臼のように動かなかった。
母は諦めたように独りで麻糸つなぎの内職をしていた。
そのうち母さえもそれを止めてしまった。
どこか悪いらしく生気のない顔をしていつも寝転んだり起きたりしていた。
でも私は何といっても子供だった。
そんな苦しい目にあっていても、やはり外に出て遊びたかった。
ある日も私は近所の子供と附近の土手下で遊んでいると、そこへ母がひょっくりと大儀そうな足どりでやって来て、私を呼びとめた。
「なあに母ちゃん」と私が答えると母は力のない声で、そこいらに鬼灯の木がないかと訊いた。
子供は親切である。
みんなしてそこいらを探してくれた。
そして容易にそれをすぐ側の橋の下にあるのを見つけた。
中にはとっくからそれを知っていて、それの大きくなるのを待っているものもあったのだが、自分でそれをひっこ抜いてくれた。
「ありがとう」と母は言って、根もとからぽっきりと折って根を袂の中に入れて帰って行った。
その夜私は、その鬼灯の黄色い根だけが古新聞にくるまれて、部屋の棚の豆ランプのわきに載せてあるのを見た。
今から察すると、母は妊娠していたのだ。
鬼灯の根で堕胎しようとしたのだ。
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小林の生れ故郷
やがてもう秋であった。
母と小林とはどうして金をつくったのか、とにかく二人は私をつれて小林の郷里へ帰って行った。
小林の郷里は山梨県北都留郡の、村の名は忘れたがかなり遠い山奥だった。
小林の家は農家でまあどうやらこうやら困らぬ程度に暮してはいたが、三人の兄弟のうち一人としてまともな奴がなく、二男の小林がそのうちでも一ばん悧巧な方であった。
で、父が死んでからは小林は兄に代って家の経済をきりまわしていたが、そのうちいくらかの金を掻っ浚って家出をしたのだった。
身内のものは小林のことを案じていたが長い間何らの音沙汰もなかった。
そこへひょっくり小林が年上の妻をつれて帰ったので、みんなは驚きもし喜びもした。
そして小林のためにできるだけの便宜を計ってくれた。
前にも言ったように村の名は忘れたが、そこは小袖という部落であった。
氏族社会のような縁続きから成る十四、五軒の小さな静かな部落だった。
私達がその部落に帰ったとき、そこには私達の住むべき家がなかった。
そこで、みんながいろいろと相談の上、小林の嫂の実家の西にある薪小屋を片づけて私達の住家としてくれた。
何しろ薪や藁をどさくさと積み込んであったので、床板は腐り、壁は落ち、雨はもり、ちょっと手もつけられないほどだったが、でもともかく古板を打ちつけたり、泥を捏ねて壁を塗ったり、藁をおし込んだりしたので、どうやら寝起きぐらいはできるようになった。
部屋は十畳の四角な板の間であって、奥の方に古畳二枚を敷いたきりだった。
つまりその二畳が私達の寝間であり居間であり食堂であった。
炉は入口に近い板の間に切ったが、もともと田舎の薪小屋のことなので戸もなければ閾もなかった。
夏の夜はその入口に筵を吊って戸代りにしたが、冬はさすがに余りに寒いので他家から戸板を二枚貰って来て入口に押しつけて縄で縛りつけた。
それでも吹雪の晩などは、雪交りの冷い風が遠慮なく部屋の中に吹き込んで、朝起きて見ると炉の脇に雪が積っているようなことがたびたびであった。
おまけに荒壁一重のすぐ左隣は馬小屋で、右側は大家との共同便所だったので、不潔この上なしだった。
小林はその家に落ち着いてから、不思議に思われるくらい仕事に精を出し始めた。
さし当り彼の仕事は実家の炭を賃焼きすることであった。
母は母で、近所の家のお裁縫をしてやったので、そのお礼に大根や芋やその他の野菜ものが始終持ち込まれて食うだけの保証はまずこれで安心であった。
そして私は、例の終業式以来ずっと御無沙汰していた学校へ再び通えるようになった。
そこでまた私は、私のこの憧れの国のことを話さなければならないが、その前にまず、この小袖部落の生活振りを一通り示さなければならない。
都会にいて七層八層のビルディングを見、銀座の眩しいショウ・ウィンドウを見ている人には自家用自動車で待合通いやカッフェー入りをする人には、夏は扇風機、冬は暖炉に、思うようしたい放題のことのできる人には、この話は嘘としか思われないだろう。
しかしこれは決して嘘でも誇張ですらもない。
私は考える、都会の繁栄は田舎と都会との交換で、都会がすっかり田舎をだましつつ取ったからであると。
小袖部落は、前にも言ったように十四、五軒の縁続きの家から成る、いわゆる原始社会という種類のものである。
部落はかなり勾配の急な山裾の、南向きの日当りの好い谷間にあった。
田というものは一枚もない。
あるのは山と、それを開墾いた畑とだけであった。
だから部落としての産業は、春から夏にかけて主として養蚕で、畑には少しばかりの麦と桑と自家用の野菜と、そして砂地にはわさびを植えることで、冬は、男は山に登って炭を焼き、女は家にいてその俵を編むのがその役目だった。
が、この村人の収入は何といっても、部落が山間部落である関係上、そのほとんど全部――七、八割がこの炭からあがる代金であった。
こんな風だから部落民が非常に粗末な食事しかとれないのが当然で、御飯は私が今食べさせられているような挽割麦であるが、実はその監獄飯よりも劣っていた。
というのは監獄のはいわゆる四分六飯とかで南京米が四割入っているようだが、部落には白い米などはただの一粒もなかったからである。
もっともその代りには、監獄の御飯のように虫だの石だの藁屑だのは入れてなかった。
野菜の煮物は監獄と同じだと言っていいだろう。
なぜなら、どちらもそれを煮る時一塊の砂糖すら入れられはしないのだから。
部落で食べる魚といえば飛び上るほど塩辛い鮭、ただそれだけであった。
それも一ヶ月に一度ぐらいしか食べられないのだった。
しかし、こんな粗食で健康が保たれるはずはないなどと思ってはいけない。
なぜなら、一度山にわけ入って見るがいい。
そこには近頃流行のいわゆるビタミンを多量に含んだ、そして常食で欠乏している糖分やカロリーのたくさんなあけびだの梨だの栗だのが、素晴らしく豊かにみのっているからである。
私達子供はもちろん、大人でさえもこれを採って食べる。
それでもなお余ったのが烏や鼠の餌となるのだが、中にはそれらの動物の目にも触れないで、撓わんだ枝のまま地に埋って腐っているのもあった。
それだから、子供達が追いまわすほかに、誰も殺しはしなかったが、もし狩猟さえすれば多分に食料となるべき野生の動物が、殊に兎が、村のすぐ後ろの山や、学校往復の途中の林などにはしょっちゅう跳ねまわっていた。
私が本当に自然に親しんだのはこの頃である。
おかげで私は村の生活がどんなに理想的で、どんなに健康で、どんなに自然であるかということを今日も感じている。
それにしても村の人の生活をこんなに惨めにするものは何であろう。
遠い昔のことは知らない。
徳川の封建時代、そして今日の文明時代、田舎は都市のために次第次第に痩せこけて行く。
私の考えでは、村で養蚕ができるなら、百姓はその糸を紡いで仕事着にも絹物の着物を着て行けばいい。
何も町の商人から木綿の田舎縞や帯を買う必要がない。
繭や炭を都会に売るからこそそれよりも遥かにわるい木綿やカンザシを買わされて、その交換上のアヤで田舎の金を都会にとられて行くのだ。
ところが、部落はもちろんそんなことをし得なかった。
お金という誘惑があるものだからお金欲しさに炭や繭を売る。
すると町の商人は、これにつけ込んでこんな部落にまで這入って来る。
行商人は、半襟を十枚ばかり入れたのが一函、昆布や乾物類が一函、小間物が一函、さまざまの乾菓子を取りまぜて一函といった工合に積み重ねた高い一聯の重ね箱に、なお、下駄や昆布や乾物等をも加えて、大きな背負包みに包んで背負って来るのであるが、それが一軒一軒に立ち寄って荷物を開くのではない。
比較的裕福な家の炉端がその臨時の店棚となる。
「商人が来た」
誰言うとなく部落じゅうに伝えられる。
すると部落じゅうの女どもが集まって来て、いずれも欲しそうに手に取っては見、手に取っては見して値段をきいては、
「まあ高い、おまささんは十日ほど前に町でこんなのを二十銭で買って来たわ」などと言う。
行商人はそうした取引にいちいち叮嚀に、何か理窟をつけては、決して高くないとか、品が違うなどと言いくるめてしまう。
いやただにそう言いくるめるばかりでなく、ぜひ買いたいと思わせてしまう。
随分気永な取引である。
だがそれも別に不思議はない。
どんなに永くかかってどこかの家に泊らなければならなくても、泊賃は町の商人宿の四分の一、五分の一ぐらいですむ。
ことによると旅人として歓待されて宿賃などは取りもしない。
そんなのだから永びくことは何でもない、ただ、そうしている間に少しでも多く売れればいいのだ。
娘達は父親に内緒で半襟や簪を買う。
母親達はあるいは繭を、あるいは手繰の生糸を、あるいは乾柿を、あるいは藁つとに入れた泥だらけのわさびなどをそっと持ち出して来ては、その三分の一にも値いしないものと交換する。
そうして部落は毎年これらの旅商人に自分の丹精こめた労力の結果を奪われて行くのである。
郵便配達は五日に一度、七日に一度ぐらいしか来なかった。
冬などは靴を投げ出しては炬燵にあたり込み、家人とお茶を飲みながら世間話をしたり、他家へ来た端書を、いちいち読んで聴かせたり、写真をあけて見せたりして時をつぶし、時分時には御飯をよばれては悠々と立ち帰るのだった。
時たま寺に郵便でもあるときには、庫裡に上り込んで和尚さんのザル碁の相手になっては日の暮れるのをも忘れることもあった。
さていよいよ学校であるが、学校は鴨沢と呼ぶ小さな町のはずれにあった。
尋常科だけで、児童は六、七十ぐらいはあったろう。
お師匠さんの学校以来初めて見た不備な学校であったが、先生というのは大酒呑みでひどく乱暴な男だった。
小袖からは淋しい山道を一里ばかりも離れていたが、冬になると雪がひどいので、男の子も女の子も竹の皮で拵えた靴見たいな物を履いて、手拭ですっぽりと頬冠りをして、毎日毎日同じ道を往復するのだった。
わずかではあるが、筆とか、紙とか、墨とかがやはり必要だった。
けれど部落には現金というものは一つもない。
そこでそれらの必要品のある時には、子供らは自家製の炭俵を一、二俵背中に背負って、朝登校がてらに、学校のすぐ隣の店まで運んで行くのだった。
子供たちはその代価のなくなるまでは、ちょいちょいとその必要品を貰うことができるのであった。
つまりこれもやはり物々交換である。
だが、私は今一つの重要なことを書き落すことはできない。
それはこの一里にも余る山道を一俵の炭を背負って登ったり降りたりするのは一体、いくつぐらいの子であるかということである。
それは実に九つぐらいの女の児なのである。
私も実はやって見たかった。
けれど都会に生れた私にはどうしてもそれは不可能だった。
第一、私の家には背負って行く炭がなかった。
ついでだから私は今一つの事実を記しておこう。
些事といえば些事だが、都会に育ったものには、これこそほんとに想像も出来ないことであろう。
それはこの部落では決して便所で紙を使わないということである。
部落民にとっては、便所で紙を使うなんて何という贅沢なことであろう。
手紙を書くにも彼らは、煤けた破障子の不用なのを用いるくらいであった。
だが、紙の代りに一体何が用いられるのであろう。
彼らは竹のきれや、木の枝を箸ぐらいの長さにきって便所の箱の中に入れておく。
そしてその御用済の分は別の箱の中に入れておく。
溜まると一纏めにして山裾の清流で洗ってまたそれを使う。
これが嘘も偽りもない事実なのである。
早春のある日、私の家には子供が生れた。
小林の家のお婆さんは大喜びだった。
そして春生れたというので「春子」と名をつけ、初児のお祝いをした。
五、六俵の炭が馬の背に載せられた。
馬は馬子と一緒に五、六里離れた街を指して行った。
帰りには米や煮乾や着替やが炭に変ってちょんぼり馬の背にあった。
それが初児の誕生祝いであった。
でも春子は丈夫に育った。
三月の終りになって私はまた終業式に出ることになった。
いつもいつも辱しめられる終業式に。
でも今年は何らの苦痛もなかった。
なぜなら、教師が私達にたとい無籍者でも田舎のことであるからほかの子と同様に免状を下げてくれると言ってくれたからである。
母はその日のために苦しい中から工面して木綿の縞の筒袖と、対の羽織とをつくってくれた。
私はそれを着せてもらって、みんなと一緒に、喜び躍りながら学校に行った。
型ばかりの寂しい式が始まった。
みんなは免状をもらってニコニコしていた。
けれど私にだけは、教師の約束があったのにもかかわらずくれなかった。
今か今かと最後まで私は待った。
そしてとうとう待ちぼうけであるのを発見した。
式が済んでみんなはもう帰り仕度をした。
けれど私はまだ観念がしきれずにぼんやりと立っていた。
するとそこへ、教師がやって来て、普通の免状と優等賞状との二枚を鼻先に見せびらかした。
「お前の免状はこの通りここに、ちゃんと二枚出来ているんだよ。
欲しきゃお母さんが貰いにくればやるって、そうお言い」
終業式の前頃に、子供達の家からは何かと教師に贈られるのが常だった。
中にも一番多いのは酒だった。
つまり酒と免状とを交換しようと教師は言うのだった。
私の家では教師に何も贈らなかった。
贈ろうにも贈るものがなかった。
一つには、母が気がきかなかった所以もあったろう。
でも、そう言われたとき私は口惜しかった。
仲間をはずれて口惜しまぎれに独り裏道から帰った。
帰って炉の傍で、私は思う存分泣き通した。
母は見かねて、
「心配することはないよ。
わしがお酒を持って行って、免状をもらって来てやるから」と私を宥めてくれた。
けれど、どうしても私はあの侮辱を忘れられなかった。
「いいよ母ちゃん、いやだよ」
私はただこう言い張った。
そして、とうとう、学校を無断でさがってしまった。
私は寂しかった。
私は今その時の心持ちを充分に説明することはできない。
ただ強いて言えば、駄々っ子が泣きくたびれて泣き止んだ時のような状態だったと思う。
そうした幾日を過ごしているある日、思いがけもなく実家の叔父が――母の弟が私達二人を訪ねてくれた。
叔父がどうして私達の住所を知っていたのか、私はそれを知っている。
それは私がここに来てから初めてのお正月に、実家への年賀状を母に代って書いたのを覚えているからである。
その時母は言った。
「今さら迎えに来てくれとも言えないが、この年賀状を見たら連れに来てくれるだろう」
それから後も母は時々言った。
「うちへ帰れば悪口も言われようが、何といってもこんな貧乏しなくてもすむ、そればかりでない、お前の祖父さんも祖母さんもどんなに喜ぶか知れん」
母はだから、あの年賀状を出しさえすれば、父と別れた私達のことを心配している実家のものがきっと迎えに来てくれると信じていたのである。
「おお、姉さんいたか」と叔父は閾をまたぐなり言った。
「よく来てくれた」と母はもう涙をぼろぼろと流していた。
それから二人は、ほんとに嬉しそうに立てつづけに話しつづけた。
私にわかったのは、年賀状を見てすぐにもとんで来たかったのだが――そこは女でも二日とはかからぬ所なので――雪が深くて三度も途中から引き返し、雪の解けるのを待ってやっとのことでやって来たのだということと、叔父が来たのは母を実家へ連れ帰すためだったということとであった。
小林が仕事場から帰って来る。
すぐ談判が始まる。
小林の父も母も、近しい親戚も、寄って来る。
随分長い談判の結果、母は帰ってもいいが、乳呑児をどうするということに悶着が起きた。
小林の老母は母に詰め寄って詰った。
「こんなことになるのならどうしてもう少し早く言ってくれなかったんだい。
そう言ってくれればくれるで何とかするのだったのに……」
何とかする? それは何を意味するのか、最初のほどは私にはわからなかった。
けれど私にも次第にそれがわかってきた。
母は言った。
「わしも気はついていたにはいたのだけれど、でも可哀相で……」
母のこの言葉で私は一つ思い出したことがあった。
それは隣村に片づいている西隣の家の娘と母との談話から知り得た一つの知識である。
「大きな声じゃ言えんがね、それは造作なくやれるんだよ」とその女は、炉の側で小さな声で母に話し始めたのだった。
「いいかね、×××××××××××××××××××××××××××、×××××××、××××××××××××××××××××××。
×、××××××××××××××××××××××××××××××。
××××××子をじっと瞶めながら、まだかまだか××××××××××。
××××××××××××××××、×××××、××××××××××××××××××××××……。
現に隣の嫂さんは娘時代に父無し児を生んだのを、家同志の情けから、その子をそんなにして闇に葬ってしまったのよ」
黙ってきいていた母の顔は土色になってむしろ何かに怯えているようだった。
そしてただ最後に、「まあ可哀相に……」と呻いたばかりであった。
春子も「何とかされるのではないか」と私は心ひそかに心配した。
けれど三、四日のすったもんだの揚句、ともかくも春子は小林の許に置いて行くでけりがついた。
けりがついた翌朝、私と母とは叔父につれられて村を出た。
大家の末娘の雪さんがねんねこで春子をおぶって村はずれまでと言って送って来てくれた。
情に跪い[#「跪い」はママ]雪さんは途々泣いて泣いて眼を紅くしていた。
が、春子は何も知らずに、ねんねこにくるまって眠っていた。
心地よさそうに、すやすやと。
村はとうに出はずれていた。
けれど私達はまだ別れ得ない。
小山の裾を繞って道の曲がるところでやっと私達は別れることができた。
が、母の足はどうしても進まなかった。
別れて四、五歩したかと思うと母はふらふらと後ろへ引きかえした。
そして雪さんの背から子供をおろして、路傍の土手の芝生の上に腰をかけ、まだ眠っている子を揺り起して、しゃくり込むように泣きながら乳首を無理に子供の口に押し込んだ。
そうして母は、乳を呑んでいる子の顔を撫でたり、頬ずりしたりしながら、側で泣きながら立っている雪さんに、
「頼みますよ、雪さん、頼みますよ」と、今までにもう幾度となく言った同じ言葉を繰り返した。
母はいつまでも子供を離そうとはしなかった。
それを叔父が一町もさきから、大きな声で呼びたてた。
母はやっとのことで立ち上った。
そして春子を雪さんの背におぶわせた。
せき来る涙を止めもあえずに。
母と私とは二足歩いては立ち止まり、三足歩いては立ち止まって、後を振りかえって見た。
雪さんはいつまでも元の道の廻りかどにじっと立っていた。
二、三町歩いて道が再び曲がろうとする所で、私達はまた後ろを振り向いて見た。
その時は雪さんの姿は濃い朝霧に包まれて朦朧としか見えなかった。
ただ、夢を破られたらしい春子の泣き声だけが、捨てて行く母と姉とを怨むようにはっきりと、朝の山のしんとした静けさを破ってきこえていた。
いつまでも、いつまでも……。
この時を限りに、私は一人妹の春子と訣れた。
そしてそうだ。
別れたきりだった。
あれからもうかれこれ十年の余になる。
春子はまだ生きているだろうか。
それとももう死んでしまったろうか。
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母の実家
小袖を発って二日目の昼すぎ、私達は母の実家から一里足らずのところにある窪平という小さい町に着いた。
そこからはもう一息である。
けれど母はそこで足が鈍った。
昼の日中、村に帰るのは恥かしいというのである。
そこで叔父だけが先に帰って、私達は久し振りに床屋に行って顔を剃ったり、祖母への手土産を買ったりなどした。
母の実家に帰ったのは日もとっぷり暮れて暗くなった頃であった。
祖父母は無論喜んだに相違なかった。
けれどもその喜びのうちには悲しみも秘んでいたに相違なかった。
そしてそれは私達にも同様に。
実家では、祖父母は母屋を仕切って裏の方に隠居し、母から三番目の叔母は二里ばかり離れた町の商家に嫁づき、小さい叔父は出家し、大きい叔父――私たちを迎えに来てくれた――が後を嗣いで戸主となり、二つになる子供さえあった。
私は叔父の家に引きとられた。
母は私の大きくなるのを待つ間、若かったときに通った製糸場に稼ぎに行った。
私はもう寂しさを知ってはいたが、それでも何とはなしに心に安心があった。
落ち着いた気持ちで日が過ごされた。
ところが、ああ、何という不幸で私はあったろう、その夏のある夜、ぐっすり眠り込んでいた私は突然叔母に喚び起こされた。
睡い眼をこすりながら叔母について行くと、思いがけなくも母が来ていた。
帯をといたまま台所続きの茶の間で御飯を食べていた。
母は私にモスリンの単衣と丈長とを買って来ていた。
無論私は嬉しくなかった。
けれど私は同時にまた、「また母が仕事をやめて帰って来たのかしら」と心のうちでおどおどした。
家には別段変ったことはない。
母は遠い町に働きに行っていたはずだ。
どうして今時分帰って来たのだろう。
私にはわからなかった。
けれど私は母にも叔父にも叔母にも何も訊かずにまた眠った。
真相はしかしすぐわかった。
母は「チチキトクスグカエレ」という電報を見て急いで帰って来たのであった。
けれど祖父はもちろん危篤どころかピンピンしていた。
その翌日、危篤であるはずの祖父も交って、祖母も叔父夫婦も母も寄って何か重要な話をし始めた。
私は外で遊んでおいでと言われたのにもかかわらず、その側を離れなかった。
「子供が三人あるというけれど、みんなもう大きいちゅうことだから手もかかるまい」
祖父がこう言うと、祖母はすぐにそれを引きとって、
「家の暮し向きはいいちゅうし、それに第一こんな田舎でなく町家だから、今までそこいらうろついて来たお前にはもって来いの縁だよ」
と言った。
よくきくと、それは何でも塩山の駅の近くに雑貨店を営んでいる割合暮し向きのいい、古田という家の主人から、母を後妻にと望んで来たことからの話らしかった。
母がそんなところへ行ったらどうしよう……こう思って私は、おろおろしながら黙って母の顔を瞶めた。
それだのに母は、そんなことには気もつかぬように、「それもそうだねえ」と答えて、別に何か考えるらしい様子をしていたが、しばしばすすめられると、
「じゃ行って見るか。
げに嫌だったら無理に苦労して御厄介になっていなくても、そうとなりゃこの子がいるから心丈夫だあね」
とこともなげに承諾してしまった。
私はびっくりして跳び上った。
心細さが胸にこみあがって来た。
「母ちゃん後生だから行かないでちょうだい。
行かないで……」
母の首っ玉にしがみついて私は泣いた。
「お前にはすまないが」と母は言った。
母がお嫁に行ってもそこは近いのだからいつでも逢える。
お前も町に行く機会が多くなってかえってよい、こんな理由を並べたてて、祖父母たちは私を宥めた。
そして母は遂に行くことになった。
そうだ。
母はとうとう行ってしまったのだ。
自分の幸福を求めて私を置き去りにして、また、かつて私の父が私や母に対してしたように……、
私達を捨てて去った父が突然やって来て、私にゴム鞠を買ってくれた時のことを私は既に話した。
その時私はどんなに父を懐しく思ったろう。
ところが私は[#「私は」はママ]その後、私に約束した「きっと迎えに来てやる」を少しも実行してくれなかった。
私はもう父を、父の愛を断念していた。
たった一人、母をのみたよりにして来た。
ところがその母もとうとう、私を捨てて行ってしまったのだ。
私は母が私を女郎屋に売ろうとしたことを思い出さずにはいられない。
母はその時、私の幸福のために私を売りたいのだと言った。
だが、何でそんなことがあろう。
母はただ自分の苦しい暮し向きを救おうと思って私を売ろうとしたに違いないのだ。
ああ、できるなら私は、声をかぎりに世の中に向って叫びたい。
殊に世の父や母に呪いの声をあげたい。
「あなた方は本当に子供を愛しているのですか。
あなた方の愛は、本能的な母性愛とやらのつづく間のことで、あとはすっかり御自分達の利益のためにのみ子供を愛するような風を装っているのではないのですか」と。
そして「私の母のように、真実その子を愛するのでなく、自分の幸福のために子供を捨てて置きながら、げに嫌だったらもう一度帰って来てその子の世話になろうといったような横着な心でのみ子供を愛しているのではないのですか」と。
思わず私は感情的なものの言い方をした。
けれどこれも、私のその時の、そしてそれからずっとの、私の絶望的な気持ちから出た言葉であると許してもらわねばならない。
母は行った。
私はやはり叔父の家に在って小学校に通った。
私はもう小学校にもさほどの憧れをもっていなかった。
そして事実またここでもまた余計者として取り扱われただけのことである。
体操の時などは、私より背の低い子がまだ幾人もあるのに、私は「お前は余計者だ」と言わぬばかりに、一番最後に立たされた。
偶数番に当ったときはまだよかった。
けれどそうでないときはたった一人、余計者としてその後にくっついて行かねばならなかった。
教室では私が一番よくできたのに――書き方と図画とは一番上手とは言われなかったけれど――私はみんなの貰う通知簿さえもらえなかったのだ。
もうそろそろ涼しくなりかけた頃、母は一ばん小さい継子をつれて遊びに来た。
あれほど呪った母ではあったが、母がやっぱり懐しくはあった。
けれど私は、母が私を縁先の家へ連れて行こうとしたときにはいやと言った。
ただ無理に言われるので跟いて行ってみた。
母の家は食料品や荒物や文房具などを売っていた。
私はそこの子供達とすぐ仲よしになった。
けれど母の夫となった人にはどうしても親しめなかった。
二晩ほど泊ったきりで私はもう帰りたくなった。
「まあ、もう帰りたいのかい」と母は寂しい顔をした。
そしていろんなことを言っては私を引き止めようとした。
が、私はどうしても帰ると言い張った。
母もとうとう断念したらしく、鏡台を縁側に持ち出して私の髪を結ってくれたり、箪笥の一ばん上の抽斗から赤い支那緞子の片でつくった巾着と細紐とを私にくれたりした。
それを私に渡しながら母は、
「この間見たら箪笥の底にこんな片があったからね、お前にやろうと思って、内緒で拵えておいたんだよ」と言った。
それから店へ行っては、鑵詰を三つと、白砂糖を一袋と赤いレザーの緒のついた麻裏を一足、すばやく風呂敷にくるんで、袂の影に蔽すようにして私をつれて家を出た。
そして街はずれの竹藪の側の水車の前まで来ると、その風呂敷包をしっかりと私に背負わせ、近所の菓子屋から駄菓子を買って私にくれた。
「途々喰べながらお出で、遠いから路を間違っちゃいかんよ、そのうちわしもまた隙をみてあがるからって家に帰ったら言っておくれ」
母は今にも泣き出しそうにしていた。
私も何だか泣きたいような気持ちで、ただ黙って頷いた。
そうだ、私はたしかに泣きたかった。
けれど、何者かが私の涙をせき止めた。
何と悲しい性格に私はその時分からなっていたことだろう。
家に帰った私はまた学校に通い始めた。
どんなに余計者にされても私は学校はいやではなかった。
学校に通う。
それが唯一の私の楽しみのようでもあった。
やがてもう冬も来ようとしている頃だった。
朝鮮の父方の祖母が私の村にやって来た。
この祖母はこちらの祖母と同い年で、その時はもう五十五、六歳であった。
が、こちらの祖母よりは元気でもあり、血色もよかった。
それに何よりもまずその服装は、大島紬の被布などを着込んでどこかの大家の御隠居さんとでもいいたいようないでたちなので、田舎の百姓家のこちらの母などとは大違いで、年もよっぽど若く見えた。
用件は、私を朝鮮につれて行って育てるというのであった。
それには理由があった。
朝鮮にはこの祖母と私の別れた父のすぐの妹が住んでいたのだが、その叔母には子供が生れそうになかった。
そこで、私が三つ四つの頃から、もしいつまでもその叔母に子供がなかったら、私を育てるということになっていた。
ところが父と母とはあんな工合になって別れて、その後母の行衛がわからなかったのでどうしようもなかったのが、母が実家に帰って来たので、急にまたその話をもとに戻したためだった。
先方では、たとい私の叔母が父と一緒になっているとはいえ、父と母とがあんな風になってしまったということにも多少の責任を持ってはいたろうし、第一、朝鮮の叔母にはもう子供を待ち望むことができなくなったというところから、ちょうどいい、哀れな私を育てようという気になったし、私の今の家でも、今度こそは母も縁附先に落ち着きそうなので、それに何しろ先方は金持だからそんな家で育てられるのは仕合せに違いないと考えて、早速話がきまったらしかったのである。
朝鮮の祖母は私に美しい衣裳を持って来てくれた。
三十五円もしたという赤い襦珍の丸帯や、それまでは見たこともないような縮緬の長袖や、被布や、袴や、紋附や、肩掛や、下駄や、リボンなどがそれであった。
祖母の話によると、なおこのほかにたくさんなものがあるのだけれど、荷物になるからうちに置いて来たということであった。
朝鮮の祖母は、祖母の家柄上、私が無籍者であるのは困るというので、私を母方の祖母の第五女ということにして私をつれて行くことにした。
私にとって、こうした衣裳は何という華やかさであったろう。
こんなものは少し大袈裟に言えば私などは拝んだこともないものだった。
私はそれを着せられた。
何ともいえぬ恥しさと喜ばしさとを一緒に感じながら、私は幾度も幾度も自分の着ている着物の袖をあげて見たり、帯のあたりを眺めて見たりした。
「さあ、もうすぐ朝鮮に行くんだから、そのおべべを着てそこいらへ挨拶に行って来るんだ」
と、みんなのものに言われて、私は叔母と一緒に学校や近所の家へ暇乞いにまわった。
私の着たのは縮緬の重ねに、襦珍の帯、大きな赤いリボン、そういったものであった。
あまり綺麗だから見せてくれと、附近の女達はそっと裏口から私の家に集まって来た。
そして、
「ほんにふみさんは仕合せなことで……」
と、今までの私の苦労を帳消しにして、口を揃えて言った。
母ももちろん来てくれた。
そして同じように喜んでくれた。
「この服装で写真を撮っとくといいんだがなあきくのさん」と叔母が言うと、
「ほんになあ、近所に写真屋があるといいだがなあ」と母も答えた。
「なあに写真ぐらいはうちへ帰ったらすぐ撮って送りますよ」と朝鮮の祖母はみんなの驚き方に満足したように「わしの家へは月に一回や二回はきっと写真屋が来ますからなあ、すぐおくりますよ」とつけ足して言った。
「それではぜひそうして!」とみんなが揃って言うと、祖母はなおそれにつけ加えて、
「でも、逢えんのもほんのしばらくの間で、尋常を卒業しさえすればすぐ女学校にも入れ、成績がよかったら女子大学にも入れにゃならんが、そうするのにゃ、やっぱり東京へ寄越さなきゃならんから、いつでも逢えるというものですよ」と、ますます大きな希望を私にもたせるように話すのだった。
いや、そればかりではない。
私をつれて行った限り、決して何不自由をさせぬこと、必要なものはもちろんのこと、ただの玩具でも、思う存分買ってやるから決して心配しないようにといったようなことまでも話した。
みんなが涙を流して喜んだのは言うまでもない。
私も無論嬉しかった。
降り続いた雨も上って空はからっと晴れて、少し冷たさを覚える朝、みんなに送られて、みんなの祝福の言葉を浴びて、祖母と一緒に私は旅に立った。
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新しい家
私は遂に朝鮮に来た。
私の幸福を待っていてくれる希望の光に充ちた朝鮮に来た。
だが、朝鮮は果して、その約束したものを私に与えてくれたであろうか。
それは以下私の記すところを読んでくれれば自然とわかることだが、私は今、ここへ来るまでの途中での私の感じだけを述べておかねばならぬ。
なぜと言うに、それを述べておかない限り、読者は恐らく余り唐突な変化に判断の心を掻き乱されるかも知れないと思うから……。
で途中での私の感じは?
一言でそれは述べられる。
それは、祖母に私が期待していたものを――孫としての祖母の愛を――私ははなはだわずかしか与えられなかったという微かな失望の感じと、祖母もまた、私に期待していたものをはなはだ些ししか私のうちに見出し得なかったに相違ないという私の不安と、これである。
私はしかし、これくらいのことで決して私の希望を失ってはいないのだ。
私は私を待っていてくれる幸福の神を掴まねばならぬ。
私はいよいよ朝鮮に着いた。
朝鮮の私の家に着いた。
そこは忠清北道の芙江というところで、家は岩下とよばれていた。
岩下? 読者は恐らく、ここで疑惑の眼を私に向けるであろう。
なぜなら、私の家は佐伯であるのに父の母の家が佐伯ではなくして岩下となっているからである。
私はまずそれを説明しておかねばなるまい。
祖母は十五、六の年に広島で結婚した。
ところが、二十七の年に九つを頭に四人の子供を残して祖父に先立たれ、引き続いて、末二人の子供に死なれた。
しかも長男――私の父――はやがて家を飛び出してしまったので、家にはたった一人の女の子、今の叔母が、残ったばかりであった。
その私の叔母は広島で女学校を卒業した。
するとすぐある海軍軍人から求婚されたが、祖母は考えるところあってこれを断った、次ぎの求婚者は今までかつて知らなかった一人の官吏であったが祖母は一目見て「この男なら」とその男を見込んだ。
そして立ちどころに婚姻が成立し、長男の私の父がいなくなっておるのにもかかわらず、その男を養子としてではなく、正式にその男のもとに私の叔母をやった。
という意味は法律的に叔母をその男に嫁がせたのだ。
けれど、祖母は何しろ一人ものだし、その上、その婿が気に入りだというので、祖母はこの若夫婦と共に一つ家の中に住むことにした。
ただ、何といっても法律上、叔母はその夫の家に嫁いだのであるから、夫の姓である岩下が、祖母や父の家の佐伯に代って代表するようになった。
こんな訳で、私が今連れて来られた私の新しい家は岩下なのである。
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芙江
岩下一家が芙江に住んでいるということは前に言った。
そこで、その芙江とはどんなところか?
芙江は京釜沿線に在る小村であった。
日鮮雑居地で、かなり多くの鮮人とわずか四十家族ばかりの日人とが住んでいた。
けれど、その日鮮両民族がほんとうに融和しているのではなく、各自別々の自治体を構成していた。
鮮人側には「面事務所」というのがあって、一人の面長が鮮人に関する一切の事務を管理し、日人側にもまた、内地なら役場のような一つの事務所があって、村長格の一人の管理者が、日人に関する一切の事務を処理していた。
日人部落は何をもって構成されていたかというと、旅館、雑貨店、文房具店、医者、郵便所、理髪店、苗舗、菓子屋、下駄屋、大工、小学教師らが各一戸、五戸の憲兵、三戸の百姓、二戸の淫売屋、それに、駅に勤めている駅長及び駅員の四戸に、鉄道工夫の三、四戸、並びに、鮮人相手に高利貸渡世をするものが六、七戸、同じく海産物などの仲買をするものが二戸、煙草や駄菓子の小売店が二、三戸、まあざっと、こういった種類のものから成っていた。
それではこのわずかな日人部落内の状態はどうであったかというと、これはもともと利益を求めて集まって来た連中であるから、ほんとうに共同的な精神で繋がっていようはずはなく、村を支配する精神も力もすべては皆、金であった。
で、金のあるものは自然と勢力があって、村の行政――というと少し大袈裟のようであるが――についても、そういった連中がはばをきかせていた。
すなわち、金があって、ぶらぶら遊んでいて、流行おくれの都会風の着物を着ているような、そんな階級人が威張っているのであった。
中でも一番有力なのは、ただに金を持っているというばかりでなく、いくばくかの田や畑をもって、ここに生活の根をおろしているものであった。
――それには高利貸業者が一番多かった。
――それに次いでは、憲兵、駅長、医者、学校教師といった連中が有力で、この辺までの女は「奥さん」という敬称でよばれていたが、これより下の、商人や百姓や工夫や大工などの細君は一からめに「おかみさん」の名をもってよばれていた。
だから、部落はまさに二つの階級から成っていると見ていいのだが、この二つの階級は水と油とのようにはっきりと区別されていた。
余程のことでもない限り互いに往き来するようなことがなく法事をするのにも、祝い事をするのにも、招かれる範囲はきまっていた。
同じ階級内では、節句や七夕の団子などはもちろん、定りきったお正月の餅までもやり取りした。
それもしかし血縁につながれた部落内の親情からの贈答ではなく、ただ義理一点ばかりで、先方のくれただけの数を、もしくはそれだけの価格のものを、こちらからも返すといっただけのことであって、内輪ではかなり苦しい算段をしながらも、総じて嵩の張る派手なものを贈答し合うのが常であった。
だが総体に交際は派手で、虚栄的で、お祭りとか葬式とかの時にはできるだけ金目のかかった衣裳をつけて出るのが女の習慣だった。
今も言った通り、芙江は小さな村ではあったが、何しろそれは本線の停車場を控えたところなので、たびたび通過するいわゆる名士や高官連の送迎に、小学生や憲兵はもちろん、村の有志、さては女どもまでも飛び出して来て、駅頭に整列する半ば義務的なものを負わされていた。
そしてその時は背広服に「赤十字社員」章を、小紋縮緬の胸に「愛国婦人会」の徽章を、それはまだしもとして「清州芙江間道路開通記念」などいう二銭銅貨と間違えられそうなメダルをまでもぶらさげて来るのが普通であった。
しかも多くの場合、御本尊の名士高官連が車の何輛目にいるのかさえも知らさぬうちに汽車は通過するのだった。
たまには、十度に一度は、一分間停車をすることもあったが、そうした時には、羽織袴の管理者が、参列有志の名刺を、赤い帛紗をかけたお盆にのせてうやうやしく車の窓から捧げるのだった。
それから、村ではまた世の中に何か変ったことでもあるとすぐ、提灯行列や仮装行列をやった。
時には高台の空き地に小屋をたてて、踊ったり、跳ねたり、弾いたり、唄ったり、芝居や狂言の真似までもした。
まことにこれは新開の植民地にふさわしい風俗習慣であった。
男も女もこうしたことをすることによってわずかにその単調な生活を破って自らを楽しむことができるのであった。
――しかし無論これは、第一階級に属するものどもの催しであって、第二の階級のものはただ茫然とそれを眺めているといった風であった。
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岩下家
私の叔母の家――岩下家――は、ざっとこうした空気の中に包まれた最も有力な家族の一つだった。
そう広くはないが、五、六ヶ所の山林と、鮮人に小作させている田と畑とを持っていて、それからあがる収入で、鮮人相手に高利貸をしているのであった。
家は線路の北側の高地にあった。
南側の人たちは自分らのところを本町といい、北側を田舎とよんでいたが、北側の者らは南側を下町とよび、自分達の方を「山の手」といって、互いにその自負心を満足させていた。
叔母の家はこの「山の手」でも一番高い部分にあった。
四畳半ぐらいのオンドル附きの部屋が四ッきりの、二間ずつ鍵形に列なった低い藁葺の家で、建物は至極みすぼらしかったが、屋敷内はかなり広かった。
家の裏手には納屋が二棟と、庭先の畑を越えては米倉が一棟、庭には果樹や野菜がつくられていた。
叔父は長野県生れで、無口な温厚な男だった。
以前は鉄道の保線主任であったとかだが、汽車が脱線顛覆して死傷者までも出したので責を引いて辞職し、それ以来、この田舎にひっ込んで楽に暮しているのであった。
趣味は草花弄りと謡曲を唸るくらいで、至極平凡な男であった。
叔母は叔父とは十も年の違った、背のすらりと高い、上品な、悧巧な、その上しっかり者だった。
だからてきぱきした男性的な女だったともいえる。
かるたが好きで、お正月頃は無論のこと、その他の時でもよく同階級人を自分の家に集めていたが、その他にも琴や踊りもやれば、春は野に出て蕨狩りをし、秋は山に茸狩りをするといった調子で、ブルジョアの奥様には相当した趣味の持ち主であった。
祖母はこの家では近所の人達から「御隠居さん御隠居さん」とよばれていたが、実際は御隠居さんどころではなく、叔母の家の一切のことに采配を振っていた。
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朝鮮での私の生活
その一
私は私の母や祖母や叔母や村人に、私を迎えてくれる幸福について祝福されながら送り出されたのだ。
私もまた、胸にいろんな楽しい夢を描きながらこの朝鮮にやって来たのだ。
が、来て見てすぐに私は、私の踏み込んだ生活がそれほど楽しいものではなかったということに気がついた。
祖母の言葉を信じて来た私は、縮緬の長袖やシゴキの帯とまでは望まなかったが、今までよく見たお嬢さんたちの着物ぐらいは着せてくれることと思っていた。
望み通りに買ってやると言われたおもちゃは別に欲しいとも思わなかったが、好きな本ぐらいは何でも買ってくれるものと思っていた。
そしてまた、父もない母もない私を、父となり母となって愛してくれる人達のいることをも予想していた。
が、それらの何一つも私には与えられなかった。
私は無論、多少は失望した。
けれどそんなことにはもう、小さい時から馴れきっていたからさほど苦痛ではなかった。
ただ一つ、叔母の家に連れて来られてから間もなく、何ともいえぬ寂しさに襲われたことのあるのを覚えている。
ある日、誰かしら、私には初めての女の人が来て、私を見て、多分お世辞のつもりだったのだろう?
「まあ、いいお娘さんね」と言うと、祖母は喜んだ顔もせず、至極無造作に、
「なあに、ちょっと知合いの家の子なんですよ。
何しろひどい貧乏人の子なので、行儀作法も知らず、言葉なんかも下卑っぽい言葉しか知らず、ほんに赤面することがあるんですが、余り可哀相でしてね、つい引きとってやったんですよ」と答えるのだった。
貧乏人の子、それは何でもない。
私はいかに小さくともあれだけ貧乏して来たからにはどんなに自分が憐れな貧乏人の子であったかを知っている。
けれど、けれど、祖母はなぜ私を、これは私の長男の娘、私の孫だと言ってくれなかったのだろう。
今考えているような判然とした気持ちをもってではないが、私はそれを、何となく物足らない寂しいことと感じないではいられなかった。
これはこの時一度のことではなかった。
祖母はいつも誰に対してもそう私を説明した。
いや、そればかりではない、私にも、もし他人からきかれた時には、こういった意味の返事をしろと言いつけた。
しかもそれに附け加えて、まことしやかに囁くような声で私に話してきかせるのだった。
「でないと、お前はまだ何も知るまいが、お前とわしらとは籍の上で他人ということになっているんだから、もし真実のことが知れると、お前もお前の親もみんな赤い着物を着なきゃならんのだよ」と。
それは何のことだか私にはわからなかった。
でも、赤い着物を着るということの意味は私にもわかっていた。
だから、何もわからないながらも、私はたしかにこの言葉に脅かされた。
で、私は遂に、足掛け七年も暮した朝鮮で、誰に対しても一度だって真実のことを話したことはなかった。
思うにこれは、余りに逆境に育った私がひねくれていたり、言葉遣いがぞんざいだったりしたので、このお上品な家の娘とするには余りに不似合な、家名をけがすものだということを、祖母たちが感じていたためであったろう。
しかし子供の私にはそんなことがわかろうはずはない。
私はやはり叔母の家の子とされているのだと信じきっていたのである。
その二
朝鮮に来てから十日足らずの間に、私は村の小学校に通いはじめた。
学校は村の中程にあって、藁葺の屋根をもった平家だった。
教室の一方、腰高障子をあけると二、三枚の畑を隔てて市場の人だかりや、驢馬や、牛や、豚などが見えた。
学校は村立で、児童の数は全部でやっと三十人足らずであった。
先生というのは六十をすぎた実直な老人で、何でも村医者の親戚とかに当るおかげで教えているのだということであった。
私の入学したときには生憎と三年という組がなかったので、私は、四年に入れられた。
尋常一年をビール箱の寺小屋で半月ぐらいと、とびとびに四回――だからせいぜい半年ぐらい、二年を五ヶ月、三年を四ヶ月足らずしか学校に行ってない私が九つになってもう四年だ。
無理と言えば無理であったには違いないが、私はかえってそれを嬉しく思った。
ことに、
「なあふみや、金子のような貧乏人の子なら差し支えないが、かりにもこれからは岩下の子として学校にあがるんだ。
そのつもりでしっかり勉強するんだぞ。
百姓の子にまけたり、恥かしいことをしたりするとすぐ名前をとり上げるよ……」
と言われた時には一層嬉しかった。
のみならずやっぱり私は岩下の子だと思って晴々した。
事実私は仲間からも岩下さんとよばれた。
学年試験には叔母の家のおかげで優等賞をもらい、修業証には、立派に岩下ふみ子と記されていた。
ところが、五年生になってからは成績通知簿はいつの間にか金子ふみ子になっており、修業証書にも同じく金子ふみ子となっているのを私は知った。
わずか半年かそこいらで、私はもう岩下の姓を名乗る資格を奪われたのだろうか。
私は別に百姓の子に負けてはいない。
岩下の姓をけがすようなことをした覚えがない。
それだのに私はもう岩下ふみ子ではないのだ。
それはどういうわけであったろうか。
今に私にはその理由がわからない。
私はただ次ぎのように臆測するばかりだ。
私が通学するようになってから、叔母たちから私は、庭園のうちにある空き家の一間を勉強部屋として与えられた。
そして、学校から帰るとすぐ、その一間にとじこもって一時間ずつ復習するようにと言いつけられた。
だが、自分のことをこういうと少し変だが、私にはその必要がなかった。
何しろ私は、どこで覚えたのか自分でも知らないが、尋常二年の時は六年の読本が、三年の時には高等二年の修身が、たいした苦痛なしに読めたのだ。
数学では小学校の全課程中一度だって頭をひねるほどの問題にぶッつかった覚えがないくらいよく出来て、十一、二の時には四ケタと四ケタの掛け算を頭の中で計算し得たくらいだ。
歌も教師が四、五度歌ってさえくれれば、後はすっかりと覚えられた。
下手だったのは、習字だとか図画だとかいったような技巧的なものばかりだった。
だから、復習だの予習だのする必要は全然私にはなかった。
そこで私は、自分の部屋に這入るや否や、鞄を肩からおろして、叔母のくれる煎餅をポリポリと噛りながら、今か今かと祖母の呼んでくれるのを待つばかりであった。
ある時私は、余りに、退屈なので時間半ばに飛び出して行った。
祖母たちに甘えるような気もちで訴えた。
「私、復習なんかしなくっても大丈夫だわ、祖母さん……」
すると祖母は眼をいからして私に言った。
「金子のような貧乏人とはわけが違うんだ。
そんなだらしのない真似はどんなことがあってもさせられません」
私は私を理解してくれないことを悲しく思った。
私は勇気を出してもう一度訴えてみた。
「だって私、無理に復習なんかしなくても立派に読めるんですもの、私、もっと難かしい、そしてもっと面白い本が読みたいの……」
この願いはもちろん斥けられた。
「生意気なことをお言いでない。
本は学校の本だけでたくさんだ」
これが祖母たちの絶対命令であった。
そして私は、それを守らなければならなかった。
で、私は、初めのうちこそは諦めて復習もして見たがどうしても馬鹿らしくてたまらないので、やがては、人形をつくったり、鞠をついたりして遊ぶようになった。
そして、同じ遊ぶくらいなら外に出て遊びたいと願うようになった。
が、そうするとまた叱られるにきまっているので、本やノートをひろげて復習でもしているような風をして、内緒で遊ぶことにした。
ところが、祖母はやがてそれに気づいたらしかった。
祖母は時たまそうっと忍び足でやって来て、いきなり部屋の障子を開けた。
その時、無論私は大抵遊んでいた。
そしてひどく叱られた。
そうしたことが四、五度も続いた。
そして私はとうとう、勉強時間を取りあげられてしまった。
これは私にとって後にも先にもない大失策だったのは言うまでもない。
私の考えでは、このために私が、岩下の後とりになる資格がないと決められた最初の最も大きな理由を祖母たちに与えたのに相違ないのである。
その三
習字や図画や、それからもっと後には裁縫のような技巧的なことは私の最も不得手な課目であった。
が、私は別にそれらがいやなのではなかった。
また、生れつき下手なのでもないと思っている。
けれど今から思うと、横浜の学校からこの方、私はろくに筆や紙や鉛筆を与えられたことがない上に、ろくに学校に通いもしなかったお陰で、そんなものの熟達するひまがなかったのだ。
私はそれを朝鮮に来てから初めて自覚するようになった。
朝鮮に来てから私は、自分の字の下手なのに気づいて、しっかり練習しようとした。
が、叔母たちは私に肝腎の紙さえも充分にあてがってくれなかった。
「今日はお習字の日よ」と私が訴えると、叔母はたった二枚の半紙を私にくれるのだった。
その二枚も、他家へお遣いものをしたときに器物に入れてくれた半紙をしまっておいたものなので、筋目がついたり、皺がよったりしているものばかりだった。
私は余り神経質でもなく几帳面でもない性質だったが、でもそんな紙には何となく気を入れて書く気がしなかった。
しかもその二枚を書き損じると、後にはもう書くものがなかったので、それをいいことにして私は、四年から高等を卒業するまで、三度に一度ぐらいしか清書を出さなかったのである。
そのためかどうか、今に私は、ただに字が下手いばかりでなく、筆というものが使えないくらいである。
図画については忘れられぬ憶い出がある。
尋常五年に進級したとき、私達は絵具をつかうことになった。
私はそれを買ってもらわなければならなかった。
だが、どんな入用なものでも容易に買ってくれないことを知っていた私は、それを願うのにも気がねをした。
恐る恐る私は、絵具を買ってほしいと訴えた。
すると叔父は、
「絵手本を持って来て見せろ」と私に言った。
私が絵手本を見せると、叔父はそれをちょっと見てから、
「うん、これくらいならこれだけあれば充分だ」と、自分の絵具箱から粗末な使いふるしの、赤、青黄の三原色と、使いふるしの画筆を二本くれたばかりだった。
この絵具はやがて使い果されてしまった。
ちょうどその頃、村の学用品店では、墨のようにすって使う新式の絵具を取り寄せて売っていた。
色の出工合もよし、特にそれが新規なので、みんなはそれを使っていた。
私もそれが欲しかった。
で、さんざん思案した揚句、何しろ無くてはならぬものだったので、思いきってある朝、それを買って欲しいと願った。
そのたった十二銭の絵具を。
「要るものなら買ってやろう」
叔父はそう言った。
叔母も賛成してくれた。
だが、祖母はそれを許さなかった。
「お前はな」と祖母は食べかけていた箸を下ろして睨めつけるようにして私に言った。
「お前はな、よもや忘れはしまいがな、お前は無籍だったのだよ。
無籍ものとはな、いいかい。
無籍者とは生れていて生れていないことなんだよ。
だから学校なんかへ行けないんだよ。
行っても人に馬鹿にされるんだよ。
それをわしが不憫と思って籍を入れてやったんだよ。
わしが救ってやらなければお前は今にまだ無籍者で、こうして人並みに学校なんかへ行かれなかったんだよ。
だから、お前はいわばわしらのお慈悲で学校へ行ってるんだということをわきまえておかにゃならないんだよ。
だのにお前はその身分も忘れて、人並みに何が要る彼が要るとつけ上ってばかりくる。
そんな我儘を言うともう学校からさげてやるからな、そのつもりで口をおきき。
お前を学校へやるもやらないのもみんなわしらの権限だからな……」
そして私は遂にその絵具を買ってもらえなかった。
それはしかしまだいいけれど、いつも言われる、この無籍者という言葉のためにどんなに私の自信を傷つけられたか知れない。
私はそれを忘れられない。
読者よ、私はもっと小さかった時分に学校に行けなかったことや、行っても別扱いにされたことの理由として、私が無籍者だったからだと言ってきた。
が、それは今、大人になってから書くのだからそう書いたので、実は、その時分そんなことを知っていたのではなかった。
なかったからこそ、なおさら悔しかったり恥かしかったりしたのだ。
何で私が、特別扱いにされたり免状を貰えなかったりするのかとそれが悲しかったのだ。
私が無籍者だったのを知ったのは朝鮮に来てからのことである。
だが、私が無籍者だったのは私の罪であろうか。
私が無籍者であったのは私の知っていたことではない。
それは父と母のみが知っていることであり、その責任も二人のみが持つべきである。
だのに、学校は私にその門を閉じた。
他人は私を蔑んだ。
肉身の祖母さえがそのために私を蔑み脅かした。
私は何も知らなかったのだ。
私の知っていたのは、自分は生れた、そして生きているということだけであった。
そうだ、私は自分の生きていたことをはっきりと知っていた。
いくら祖母が、生れていて生れないことだと言っても、私は生れて生きていたのだ。
その四
私が五年に進級した夏だった。
学校は公立に改まって高等科が出来た。
老教師は師範出の若い教師に代られた。
それにちょうどその頃、附近にかなり大仕掛けな線路移動工事が始まるし、近くの山からはタングステンが発見されたというので、この辺の人気は沸騰して、多くの日人がそのために村に這入り込んで来た。
そして学校の児童数も一足跳びに百人以上になった。
学校は狭隘をつぐるようになった。
そこで、村の中央にある叔母の家の所有にかかる山の麓に校舎が新築された。
私達はその新しい学校に移った。
とはいっても、教室はやっと二つに増えたきりで、先生もやっぱり一人きりだったので、完全な教育の行われるはずはなかった。
私はやはり叔母たちから必要なものを与えられず、そのためこの新任の教師の服部先生から始終絵具や鉛筆を貸してもらっていた。
先生はたしかに私を憐んでいてくれた。
けれど先生は村の有力者の御機嫌をとらなければならなかった。
だから、よく私の叔母の家に遊びに来る癖に、私のために叔母や祖母に何らの意見も注意もしてはくれないのだった。
哀れな服部先生よ、と、私は今は言いたい。
その五
十二、三の時から私は勝手元で祖母の手伝いをさせられた。
岩下家の後嗣ぎから女中に貶されたのだ。
女中にされた私は、家事万端をしなければならなかった。
冬の寒中に米もとげば、手拭を冠ってオンドルの下に火もたいた。
ランプのホヤ拭きから、便所の拭き掃除までもした。
私は別にそれを不服には思わない。
むしろ人生の修業をさせてくれたことを感謝してもいい。
けれど、けれど、何といっても人は人である。
殊に私は女である。
随分辛いことがあった。
春だったか秋だったか、雨のそぼふる薄ら寒い日だった。
叔父は謡の会に出て行き、下男の高は庭先の米倉の軒下で米を搗いており、部屋の中では、障子をしめきって、祖母が三味を弾いて叔母が踊りのおさらいをしていた。
静かな日だった。
私はただ独り、竈の前の土間にしょんぼり蹲りながら、だるそうに打ち落される杵の音や、しょぼしょぼと降る雨の音や、しっとりとしめやかにきこえて来る三味線のしらべに聴き入りながら、何とも言えぬわびしさに浸り込んでいた。
私はその寂しさのうちの静かさを愛していた。
が、やがて、菜もゆだったので、湯から揚げて水に浸した。
それから、鍋を持ちあげて井戸端の溝のところまでもって行き、溝に煮え湯をこぼそうとした。
と、途端にその熱い湯気がはだけた腕に濛々と触れたので、少し無理をしたと見えその拍子に鍋から蔓の片方が外れた。
そして鉄の鋳鍋は落ちて微塵に砕けた。
しまったと思ったが、もう遅かった。
でも、私はこれを別にわるいこととは思わなかったので、祖母が再び台所に出て来たときに、何のわだかまりもなく鍋を壊したことを話した。
すると祖母はいきなり私を怒鳴りつけた。
「鍋を壊したって? この不行き届き者め……」
私は全く縮み上った。
そして呆然として祖母の顔を見た。
祖母はさんざ私を叱った。
そしてその揚句、それを弁償しろと言った。
私はただ言わるるままに「はい」と答えた。
そしてそれから約半月も経った時分に、町に行った祖母は別の鍋を買って来た。
前の鍋は何でも四、五年前に七十銭だったとかであったが、その後物価が非常に騰貴していたので、今度のは一円二十銭だったとかであった。
祖母は言った。
「蓋は壊れなかったのだし、他の用のついでに買って来たんだから汽車賃だけはわしがもってやろう……」
祖母の家に来てからたった一度十銭の小遣しか貰わなかった私なのだ。
その私がどうしてこの一円二十銭を払ったのであろうか。
女中の月給のうちからか。
今言ったとおりそんなものは一文だって貰ったことがない。
この金は実に、私が郷里を立ってこちらへ来るときに貰い集めた十二、三円の餞別のうちから払わされたのである。
その六
とはいえ、物を壊したとき、祖母の怒りの一部分を金で買えることは私にとってせめてもの悦びであった。
また、救いでもあった。
金で償うにも償えぬ過失をした時の辛さったらなかった。
私は時々、金の代りに体刑を課せられた。
私が十三になったお正月の二日のことだった。
朝、岩下一家は卓を囲んで雑煮を食べていた。
とどうしたはずみか、祖母の祝箸がぽっきりと折れた。
その箸は暮に私がめいめいの袋に入れたものだったので、責任は無論私に来た。
祖母は顔色を変えて箸を私に投げつけた。
「これはどうしたんだ。
縁起でもない」こう祖母は罵り始めた。
「正月早々のことでないか。
ふみ、お前はわしを祈り殺そうとしたんだな。
よし、覚えてるがいいよ」
投げつけられた箸を拾って見ると、なるほど箸は中ほどのところを虫に喰まれて二つも大きな穴が開いていた。
私はそれを知らなかったのだ。
それに気がつかなかったのはたしかに私の過失でなければならぬ。
だがどうして私に、祖母を祈り殺そうなんていう気があろう。
第一、そんなことをすれば祈り殺すお呪いになるなんていうことをすら私は知っていなかったのだ。
「ごめんください。
ちっとも気がつかなかったんですから……」
私はこう謝った。
けれど祖母は私を赦さなかった。
そうした場合、私はどうすべきであるか。
今までの経験上、私は二つの方法しかないのを知っていた。
それはどこまでも過失だと言って頑張り通すか、でなければ「まことにそうでした。
以後は慎みますから」と言って謝るかのいずれかである。
だが、「そうです。
私は祖母さんを祈り殺そうとしたのです」などとどうして言えよう。
それは私自身殺されてもいいほどのわるいことでもあり、かつ、断じてそうではなかったからだ。
けれど、そうでないと言ったとて赦してくれる祖母さんではない。
どう答えたらいいか、私にはわからなかった。
私は迷った。
けれど結局私はただ真実を言って、私の知らなかったことですと言うよりほかはなかった。
そこで祖母はとうとういつもの刑を私に課した。
いつもの刑罰! ああ思い出すだけでもぞっとする。
私はすぐ、雑煮も食べさせられずに屋外に追いやられた。
朝鮮の氷点下何度の冬の朝だ。
私は寒い。
私はひもじい。
私は、しょんぼりと立たされている自分の姿を人に見られるのが辛い。
私は人目のつかぬ便所の裏の方に隠れた。
そこは、一方は便所の壁、今一方は家を建てるために高台を切りとったところだ。
太陽の光は朝から晩まで見向いてもくれないのだ。
積った雪は堅く凍りついてともすればすってんころりんところばねばならぬ。
折々、満州おろしが、雪交りの砂を遠慮なく顔や脚に叩きつける。
私は立ってみる。
しゃがんでみる。
しゃくり上げては泣く。
苦しさを忘れようとして幸福な生活を空想してみる。
が、そんなことで苦しさが忘られるはずはない。
祖母が鶏に餌をやりにそこを通った。
「どうだい? 遊んでいられていいだろうが……」
意地わるい祖母の口もとが歪んだ。
けれど救いの手を差しのべてくれようともせず、祖母はさっさと通りすぎた。
私は後を追うて祖母の袂に縋りついてわびた。
が袂を振り放された。
ああその時の私の悲しみは……。
日が暮れて、みんなの食事が済んだとき私はやっとゆるされた。
夕方の冷たさはどうだ。
夕方になると気温はめっきりとさがる。
寒さと疲れとで顔の皮は板のように硬ばり、脚は棒のように堅くなり、かつ痺れる。
つねって痛ささえ感じないくらいになる。
お腹は空いて眩暈さえしそうになる。
だから、赦されて部屋に上っても、ガックリと気抜けがして、ガチガチと歯の根が慄え、だるくて箸さえもとれなかった。
こんなことは算えたてれば際限もない。
もっとひどいのになると、わざと私に過失をさせたり、自分でどうかしておいて、それを私の過失かのように言い張って、この同じ刑罰を私に加えるのだった。
けれど、もうこれでたくさんであろう。
私はただ一つのことを附け加えずにはおられない。
それはこうした刑罰の後で、理が非でも私に謝らせ、「これからは決してこういうことは致しません」と誓わされるということである。
祖母たちは、そうしなければ自分達の威厳が保たれないと考えるのであろうか、それとも、そうすれば私がよくなるとでも思うのであろうか。
が、私は私のこの深刻なる体験から言いたい。
――子供をして自分の行為の責任を自分のみに負わせよ。
自分の行為を他人に誓わせるな。
それは子供から責任感を奪うことだ。
卑屈にすることだ。
心にも行為にも裏と表とを教えることだ。
誰だって自分の行為を他に約束すべきではない。
自分の行為の主体を、監視人に預けるべきではない。
自分の行為の主体は完全に自分自身であることを人間は自覚すべきである。
そうすることによってこそ、初めて、人は誰をも偽らぬ、誰にも怯えぬ、真に確乎とした、自律的な、責任のある行為を生むことができるようになるのだ――と。
祖母たちの子供の責め方は、事実私を、ねじけた嘘言いにさせた。
私は皿一つを壊しても痩せるほど煩悶した。
髪の毛が多いためによく櫛を折ったが、その櫛一本折っても飯も咽喉を通らぬほど心配した。
私はそれを隠しておくのはいやだった。
だのにそれをすぐに申し出ることを恐れた。
私は私に浴びせかけられる叱言や折檻やを恐れた。
そうして私は常に、懺悔の第一の機会を失った。
それからは今日言おうか明日言おうかと悶えつつ苦しみつつずるずると日を延ばして行くのだった。
そうして私は、ひたすらに自分の過失を隠そうとするようになった。
壊れた丼を紙に包んで箱の底に押し込んで置いたり、折れた櫛を御飯粒で継いでそおっと箱の中に平らに並べて置いたりするようになった。
私の胸は、いつも暗く重々しかった。
それでいて私は、いつもそわそわして、おびえて、落ち着きがなかった。
その七
こうして自分のことを記していると、下男の高のことを憶い出さずにはいられない。
そして些しでも彼のことを書いてやらねば済まないような気にもなる。
高は余り悧巧な男ではなかったが、その代り正直で、素直で、その上珍らしいほどの働きものだった。
わずかの間もずるけずに何かしていて、主家の物などは間違ってもちょろまかすような男ではなかった。
家族は夫婦と三人の子供とであった。
上の娘は器量よしなので、玄米三斗で買いたいという男もあったが、十二、三にもなれば大丈夫百円には売れるから今売るなと祖母にとめられて、困りながらも辛抱して養っていた。
月給は一般の相場よりは二、三円も安く、わずか九円かそこいらであった。
だが、それも初めの間のことだけで、間もなく祖母は、現金を出すよりも米をやった方が得だという考えから、何とか理窟をつけて、うち二円だけは五升について二銭だけ安く見積った米をやることにした。
――特別にわるい米を。
そんなわけで、高は非常に貧乏していた。
彼の家内の誰だって腹一ぱい飯を食うことができなかった。
子供らは冬の寒中に、南京米の麻袋に這入って慄えていることさえあった。
肝腎な働き手の高自身さえ着のみ着のままだったが、それをまた祖母は、世間の手前、余り汚い風をしていては困ると、口うるさく叱言を言っていた。
ある寒い寒い夕方だった。
高は戸外から障子越しに、家の中にいる祖母におずおずと言った。
「御隠居さん、すみませんが明日一日休ませていただけませんか。
ちょっと手の引けない用事がございますので……」
祖母が炬燵の中から叱りつけた。
「何だって? 休ませてくれだって? そろそろお前もずるけたくなったのかい。
横着きめたら承知せんぞ」
「いいえ、そういう訳じゃございませんのです。
どうしても出て来られないことがあるんでございます」
「ふん、それじゃ何かい。
あしたはお前の家へ、京城からお金持ちの親戚が来るとでも言うのかい?」
叔母は祖母と顔見合わせて、くすくすと笑いながら、こうからかった。
「いいえ、そんな訳では……実は」高はきまりわるげに答えた。
「洗濯をしますので……」
「洗濯? 洗濯なら別にお前がしなくてもいいじゃないか。
そのための女房じゃないか。
お前も随分甘いんだね」
ああ、内のこの悪戯と外の悼ましい心とのこの対照よ。
子供ながらに、いや、子供なればこそ私は、叔母と祖母とをこの時ほど純真な正義感の上から憎んだことはなかった。
高は答えるのだった。
「別に女房に甘いってわけじゃないんですよ、奥さん。
実は私、他に着物がないから、洗濯して火で乾して、綿を入れて、元通りに縫う間、裸で寒いから布団にくるまっているって算段なんですよ」
二人はきゃっきゃっと笑った。
そして、別に着物をやろうとも言わずにその嘆願だけをゆるした。
高は実直な働きものだった。
けれどそれほど貧乏しなければならなかった。
そこで彼は、もと勤めていた線路工夫に戻って、十七、八円の給料を貰う方がいいと思って、暇をとろうとしたけれど祖母はそれをゆるさなかった。
十七円もらっても十八円もらっても、祖母の家にいるほどよくないことをさとして、その上、祖母の家にいることの功徳を数えたてた。
「だいちうちにいれば家は只貸しだし、ほんとに困るときは給料の前貸しもしてやるし、そしてその金を貸しても普通の相場の七割の利子しかとらないし、狭くはあっても野菜畑を一枚に、釜や鍋までも貸してやってあるじゃないか。
……」
そうして弱い高は、何といっても実際は工夫の方がいいということを知っていながらも、無理にとは言いかねて、この苦しみのうちに縛りつけられているのだった。
その八
やはり私が五年生の時分だった。
いや、五年になったときだった。
二、三十名の児童が新たに入学したうちで、一人、器量のいい、無口で、温和しい、どことなく寂しそうな、それでいて大変悧巧な女の子があった。
私は何となくその子が好きであった。
するとその子にも私の心がおのずと通じたのか、いつとはなしにその娘も私の側によって来て甘えるようになった。
私はますますその子が好きになった。
そうして私達はまるで、姉と妹とのような睦じい日を学校で送った。
私にはそれがこの頃の唯一の楽しみだった。
うちでは私は愛されない、けれどこの子には愛し慕われる。
そして私は私の愛するものをこの子のうちに見出す。
ああ、もしこの頃の私にこの喜びがなかったなら、私は生きている心持ちもしなかったであろう。
その子はたみちゃんといった。
たみちゃんは学校から一、二町離れたところで下駄や文房具を商っている家の娘であった。
父はたみちゃんの小さい時分に死に、母は実家へ戻されたので、たみちゃんと妹との二人は祖父母の手で育てられていたのだった。
二人はもとより、祖父母に憎まれるというようなことがなく、かなり愛されているようであった。
けれど、それにもかかわらず、私は、祖父母の下に育てられているたみちゃんを何となく哀れに思った。
たみちゃんの寂しそうな顔もそのためだろうとさえ考えた。
岩下さん、岩下さんと、たみちゃんは私にばかり従いてまわった。
読み方や算術でわからないところがあると、きっと私のところへ持って来て尋ねた。
私も出来る限りの真心でたみちゃんに教えた。
たみちゃんはしかし体の弱い子であった。
しょっちゅう風邪をひいたとか、熱を出したとか言っては学校を休んだ。
冬の間はいつも首に白い真綿を捲いて学校に通った。
で、私は時々、学校の行きか帰りにはたみちゃんを見舞ってやった。
そのためか、たみちゃんの祖母さんも私を可愛がってくれた。
よく私にお菓子だの学用品などをくれもした。
私達の愛はだんだんと深められていった。
一年と経ち二年と経つに従って、ますます私達は仲よしになった。
無論その妹をも私は可愛がった。
けれど、私達の仲よく遊ぶのは主として学校でだけであった。
私はほかの子供のようにお友達の家に遊びに行くことも、近所の原ッパで遊ぶことも許されなかった。
近所の子供らは大抵、学校から帰るとすぐ、鞄を投げ出して、叔母の家から一町とはない草原に集まって遊んだ。
私が家に帰って庭のお掃除なんかしていると、子供同志、誰々さんと呼び交う声がきこえた。
じゃんけんをしたり、拗ねたり、怒ったり、泣いたり、笑ったりする声がはっきりと手にとるようにきこえた。
庭先の垣根の合い間からすかして見ると、男の子も女の子も入り乱れて、帯をひきずりながら駆け廻っていた。
つかまえたり、つかまえられたりする姿がよく見えた。
何という楽しさだろう、何という自由さであろう。
それを眺めながら私は、「下司の貧乏人」でない今の私の境遇が悲しかった。
「わしの家はな、下司の貧乏人とは格が違うんだからな、ふだん子供を外へおっぽり出して遊ばせるような真似はできないんだよ」と祖母から常に教訓されて、その「高尚な」教育方針のもとに家の中にとじ込められている自分が悲しかった。
そしてそれも、ただ私を、自分の家で奴隷のように使うための口実だということを知ってからは、一層に悲しかった。
近所の人々は、どんなに私が、厳格に育てられ、どんなに重い労働を課せられているかを知っていた。
子供たちもやはりそれを知っていた。
だからそうした遊びにも私を別に誘いには来なかった。
それでも折々は、人数が足りなかったり、何となく私と遊びたくなった時などは、子供たちはやはり「岩下さん遊ばない?」などと門の外から声をかけた。
「市場の方から、明さんや、みっちゃんも来てるのよ」などとも誘い出すのだった。
私とて子供である。
行きたいのは山々である。
けれど、どうせ行けないことを知っているので私は大抵黙って答えなかった。
時には外にいても慌てて裏の方に遁げ込んで息もつかずに隠れていると、その声をききつけた祖母は腹立たしそうに出て行ってこう言うのだった。
「ふみ子はふだんは外には出しませんよ。
誘いに来ないでおくれ!」
その声をきくと、子供達は鬼にでも追われるように遁げて行くのであるが、その後で叱られるのは私だった。
私が友達に頼んでおびきよせさせたのだとか、横着者だとか、その根性が憎らしいとかいった調子に……。
その九
学校から帰って来て子供達と遊べなかったくらいならまだいい。
やがて学校が退けるとすぐ私は帰らねばならぬと命ぜられた。
そこで私は、ほんの五分か十分の間でも寄り道なんかしてはならなくなってしまったのだ。
もっともそれは、学校のひけがいつも同じときまっているわけではなかったから、たまには五分や十分の寄り道はできるにはできたが、その代り見つかったら最後、大変だった。
無論また、五分でも早く学校に出かけることも許されなかった。
ところが、私に大変心苦しいことが起ってきた。
今まではつい近くの線路を踏み切って町や学校に行けた私達は、いや、いわゆる山の手の人々は、駅長が代ってからその道をふさがれてしまった。
そのために私達は遠廻りをしなければいわゆる下町のほうへは行かれなくなった。
そこでその不便に耐えかねた人々は皆、線路の南側に転居し、北側には叔母の家のような暮し方をしている二、三軒と、貧乏な理髪屋の一軒だけとしか、日人の家というものがなくなってしまった。
それはしかしまだいい。
いけないことは、ここから学校に通うのは、私とその理髪屋の娘と――お巻さん――ばかりになったということである。
理髪屋は、叔母の家から半町たらず下の往来に沿うたところにあったが、狭いじめじめした土間に、水銀の剥げちらした鏡一つと、壊れた脚を麻縄でくるくると捲いた木の椅子が一つあるっきりの身窄らしい理髪屋であった。
私はお巻さんと二人でつれ立って学校に行き、つれ立って帰って来た。
が、これを知った祖母は私にこう言うのだった。
「ふみ、お前はな、あんな他人の頭の垢のお蔭で暮している家の子なんかと一緒に学校に行ったり帰ったりしちゃあいけないよ」
私は無論この命令を守らねばならなかった。
で、朝はわざと茶碗の洗い方や椀の拭き方にひまをかけて、ひとり遅れて行くようにしたり、裏口からこっそりと一人で出かけたりした。
行きはそれでよかった。
けれど、帰りにはどうしても一緒に帰らなければならなかった。
お巻さんはいつも私と一緒に帰ろうと言った。
私はお巻さんと一緒に帰ることを禁じられている。
でも私はまさか「あなたのような貧乏人の子とは一緒に帰れないのよ」とも言いかねたので、祖母たちの怒りを気にしながら、恐る恐る、そして、いつもなるべく、少し速めに歩いたり、遅れて歩いたりして、ろくに口もきかずに帰るのであった。
ある夏のことだった。
お巻さんと私とは、お昼すぎに一緒に校門を出た。
町筋を半丁ばかりも来かかると、お巻さんはふと立ち佇って思案しいしい私に言った。
「私、伯父さんとこへ寄って、貰って行きたいものがあるんだけど……ねえ、待っててくれないふみちゃん? すぐだから……」
伯父さんの家とは私達が今立ち佇っているすぐ前の金物店であったが、相当の生活をしているのでお巻さん親子の生活費の幾分を補助しているらしかった。
別れるのにちょうどいい機会だ! 私は救われたような気がして――、ありッたけの勇気で言った。
「そう? じゃ済まないけど私、うちが忙しいから、先に帰らしてもらうわ」
お巻さんはしかし人なつッこい娘だった。
「ねえ」とお巻さんは拝むようにして頼んだ。
「すぐだから待っててちょうだいよ、すぐだから……」
私はそれでもとは言い張ることができなかった。
気が気でなかったけれど私は結局、その家の側の垣根に凭れながらお巻さんを待つことにした。
お巻さんは喜んで元気よくその家の中に這入って行った。
けれどすぐ出て来るはずのお巻さんは容易に出て来なかった。
三分、五分、七分、時間はぐんぐんと経った。
私はだんだん心配になり出した。
私は今言った自分の言葉を後悔した。
心配やら、腹立たしいやらで、お巻さんに断って帰ろうと、私はその家の外から声高に叫んだ。
「お巻さん、私もう帰るわ」
「遅くなってすみません」お巻さんは気の毒そうに私に答えて「早くしてよ、岩下さんを無理に待たしているんだから」と伯母をせきたてた。
お巻さんの伯母さんが姿をあらわして私に言った。
「まあお巻が無理をお願いしたんですってねえ、ちょっとも知らなかったものですから……、そこは暑うございますから、どうかこちらへ……この頃の暑さったらどうしたんでしょうねえ……」
私はその頃、少しでも柔しい言葉をかけられるとすぐ涙ぐましくなるようになっていた。
腹立ちも心配もどこかへ吹ッとんで、つい家の中に這入り込んだ。
そしてなるべく外から見えないように店の隅っこの方に腰をかけた。
が、腰をかけるとすぐ心配はまた戻って来た。
落ち着かない気で私はただおずおずと外を眺めていた。
と、何とまた運のわるいことだったろう。
私の眼は、その家の前を自転車で走って行く叔父を認めた。
いや、私が認めたばかりではなく、叔父もまた私に冷たい一瞥を与えながら過ぎ去ったのだった。
私はぎょっとした。
生きた心地がしなかった。
愕きと怖れとに、その刹那、心臓の鼓動もとまったかとさえ思ったくらいだった。
けれど私はじきに、私の心臓の鼓動が激しく打ち始めたのを感じた。
そしてやっと我に帰ったとき、むっくと立ち上って「お巻さん、私さきに帰ってよ」と言うなり夙く店を飛び出した。
ぶらりぶらりする鞄を抱えて、七、八町もある道を私は夢中で走り続けた。
が、うちの門のところまで来て、また気おくれがして、中に這入る気にもなれなかった。
私の足はにぶった。
けれど勇気を鼓して家の中に這入った。
叔母はいつもの通り祖母の部屋で裁縫をしていた。
私は慄えながら縁側に座って「ただいま帰りました」と挨拶した。
と、叔母はいきなり私を縁から土間に突き落した。
いや、蹴落した。
それでもまだ物足らなかったのか、自分も跣足で飛び降りて来て、二尺ざしで私をところ構わず撲りつけた。
祖母も降りて来て、
「あのくらい言われてもまだ解らないのか。
よし、解らなきゃ解るようにしてやる!」と、下駄穿きのまま私を蹴った。
打ちのめされた私は、ぐんにゃりとして起き上ることもできなかった。
地べたに倒れたまま、私はただ泣いた。
そうしたとき、泣くよりほかに自分をいたわる方法を私は持たなかったのだ。
散々折檻された後、私は祖母に引きずられて庭の籾倉の中に押し込まれた。
そして、ちょうどこの監獄のように外から錠をかけられた。
永い夏の日の暑さに、倉庫の米はむっとするほどいきれていた。
激動からさめて心の張りが弛むと、私はまず、撲ぐられたり蹴られたりしたところの痛みを感じ出してきた。
櫛が折れて頭に傷をつけていたこともわかった。
それにおひるもまだ食べなかったので耐えやらぬ空腹を感じた。
けれど何も食うものはない。
力なく私は籾俵に凭りかかって、足下にこぼれている籾を拾っては一粒一粒と爪で皮を脱いて噛んだ。
そして憶い出してはしくしくと泣いた。
疲れが出たのだろう、私はいつの間にかぐっすりと睡り込んでしまった。
倉庫から出されたのは翌日の夕方だったが、祖母の怒りはまだ解けていなかった。
南瓜のお菜をつけた食事が黙ったままあてがわれた。
私はガツガツした野良犬のように御飯をたべた。
食べ終ると叔父が来た。
そして一通の手紙を私に渡した。
「これをもって学校に行っといで……」
見れば先生に宛てた手紙だった。
「はい……ただいまですか」
「そうだ。
今すぐ行くんだ……」
顔を洗って、着物を着かえて私は出かけた。
何のことだかわからない。
が、多分先生に説諭を願った手紙だろうと途々私は思った。
が、何と考えても私は、それほどわるいことをしたとは思えなかった。
修身の本には友達と仲善くしろと書いてある。
自分より貧乏な家のものを軽蔑してはならぬとも書いてある。
「友愛」ということについて先生の話したのはほんの二、三日前の事ではなかったか。
私はその言葉をそっくりそのまま覚えているのだ。
で、先生はきっと私を叱りはしないだろうと私は思った。
そして、ただ一人の味方のところに行っているのだと思ってかえって嬉しかった。
夕飯も済んだと見えて、先生は浴衣がけで子供を抱いて、庭で花を眺めていた。
「先生、こんにちは」
「ああふみ子さんかね、今日休んだがどうしたんだ、また叱られたね」と、先生は笑いながら私を迎えてくれた。
しょっちゅうのことなので、先生はもう、私の叱られることをそう大きなこととは思っていなかったらしかった。
それとも私に同情して、そう言ってくれたのかも知れない。
途々私は、先生に会えば、先生にだけは本当のいきさつを話して正しい判断をしてもらおうと思って来たのだ。
が、こう言葉をかけられるとすぐ、ただもう涙ばかりが出て来て何とも言えなかった。
私は泣きながら懐中から手紙を出して先生に渡した。
先生も黙ってそれを取りあげて、封をきって、ざっと一通り目を通してから、再びまたさらさらと巻いて封筒の中に納めた。
「どんなわるいことをしたのか知らんが、お父さんは、ふみちゃんに不都合な廉があるから退校させると書いてあるよ」
この言葉をきいて私の胸はどしんと打たれた。
眼がまわって倒れそうにさえ感じた。
先生はつづけた。
「が、心配することはないよ。
無論これはほんとうの退校でなくて、少しばかりの間、学校を休ませるということだろう。
僕もよく話してあげるけれど、何しろふみちゃんの家の人は皆、言い出したら最後、後へはひかんという質だから始末がわるいよ。
だから、今しばらく、みんなのことをよくきいて、おとなしくして辛抱していなさい。
それよりほかに仕様がない……」
私はもう、この先生にも訴えることができなかった。
とりつく島もなく、私はただ、黙って先生に別れた。
期待を裏切られた心は一層に悲しかった。
私は教室に這入って思う存分泣いた。
が、応えるものとてはガランとした教室の天井に響く私の泣き声ばかりであった。
私はこの時ほどはっきりと自分の孤独であることを感じたことはなかった。
先生の言葉からして私は、昼間既に、先生と叔父との間に、私のことについて話し合っていたのだということを感じていた。
そして、今、こうした孤独にまで蹴落された刹那、私ははっきりと知った。
教師なんて、どんなに臆病な、不誠意な、そしてその説くところがどんなに空虚な嘘ッ八であるかということを。
その十
それは七月も初めのことであった。
先生の言った通り、九月の新学期から私は再び登校を許された。
が、一学期の通知簿には、私の操行点は後にも先にもたった一度、「乙」に下っていた。
私はまた学校に通うことができた。
そして、学校に通えるようになったことだけで私は元気を恢復した。
中でも一番嬉しかったことは、私の可愛いたみちゃんと会えることだった。
たみちゃんはもう三年だった。
その妹のあいちゃんも学校にあがっていた。
私は高等一年だった。
この二人を見ることだけで、この二人の世話をしてあげることだけで、私の心はやっと慰められていた。
しばらくの間、学校に行かれなかった間、私はどんなにたみちゃんやあいちゃんに逢いたかったろう。
だが、それから私が、たみちゃんと仲善く遊んだのもほんの少しの間だけだった。
二学期が始まってから間もなく、たみちゃんは例の通り風邪の気味で学校を休んだ。
二日、三日と日は経ったがたみちゃんの顔は見えなかった。
で、私は、ちょいちょい学校のお昼の休みを利用しては見舞いに行ってあげた。
たみちゃんは私の来るのをどんなに喜んだことであろう。
病気が少しも快くならず、医者から肺炎だと診断されてからも、私が行くと急に元気になって話し出すので、私は、かえって病気によくないだろうと思った。
で、しばらくは見舞いにも行かなかった。
がその後私は、あいちゃんから、たみちゃんがますますわるくなり、今は脳膜炎にまでも進んだということをきいた。
今一度、私はお昼休みの間に見舞いに行ってみた。
だが、その時はもう、今までのたみちゃんではなかった。
この前私が行ったとき、蒼白い顔に微笑を浮べてわずかにその悦びを見せたその時のようですらなかった。
たみちゃんは、仰向けに寝かされたまま、ただ、大きな眼をじっと見ひらいていた。
医者はその瞳に反射鏡の光を集中してみたが、まばたきさえもできなくなっていた。
医者は匙を投げたようだった。
祖父さんと祖母さんとはその傍にしょんぼりと座ってただ黙々としていた。
私は泣いた。
たみちゃんはもう死んで行くのだ。
私達はもう永遠に会えないのだ。
私は悲しかった。
それから二日経って、生徒がみんなしてたみちゃんを遠い山の火葬場に送った。
そしてその翌日私は、学校から選ばれて二、三の友と一緒に、たみちゃんの骨拾いに加わった。
たみちゃんと私とは偶然に知り合ったのだ。
そして三年足らずの間の友だちであったに過ぎないのだ。
が、前にも言ったように、私達の間には何か特別な因縁でもあったように親しかった。
父に死なれ、母に去られたたみちゃんを、自分の境遇から察して特別に同情したのかも知れないが、私はとにかく、心の中ではたみちゃんを自分の妹のように思い込んでいたのだ。
そんな風だったから、たみちゃんがいなくなると、私はただ寂しいばかりでなく、何か大切なものをもぎ取られたような気がした。
学校にいても、家にいても、何かにつけてたみちゃんを憶い出しては私は、たまらない寂しさに泣かされるのだった。
そうした日が一ヶ月も経った。
運動場では、子供達が愉快そうに遊んでいた。
けれどこの頃の私はもう、その遊戯にも加わりたくはなかった。
庭の隅のポプラの幹に凭れて、私はただぼんやりと考え込んでいた。
するとそこへ、あいちゃんが無邪気に駆けよって来た。
「ねえ岩下さん、こんなとこにいたの?」あいちゃんは私の手をとって引っぱりながら言った。
「みんなが探してるのよ。
あっちへ行きましょうよ。
ね、何考えているの?」
私はたまらなくなって、あいちゃんを両手でしかと抱きしめた。
「あたし、あなたの姉さんのことを考えてるの」
さすがに無邪気なあいちゃんも急に寂しそうな顔をした。
そして思い出したように私に言った。
「ねえ岩下さん、私がこの間もって行ったもの見て?」
「この間もって行ったもの? どこへ?」
「あら、あなたまだ知らないの?」あいちゃんはこまちゃくれた口のきき方をした。
「姉さんがこの間買ってもらった裁縫箱よ。
姉さんの形見にって、うちの祖母さんが私に持って行けって言うから私持って行ったのよ」
たみちゃんの裁縫箱! 私は覚えている、黒塗りに金のまき絵のある、立派な、まだ新しい裁縫箱だ。
それを私に贈ってくれたのだ。
ああ嬉しい。
せめてそれでも肌身放さず持っていたい。
私はまだうちの誰からも受け取った覚えはない。
けれど私は、あいちゃんが失望するかも知れないと思って、そうは言いかねた。
かなしい心持ちで私は答えた。
「あああれですか。
見ました……どうもありがとう……」
それを私が実際もらっていたならどんなに嬉しかったろう。
こんな物足りないお礼なんか言ってはいられなかったろう。
けれど私としては、せいぜいこれくらいのお礼しか言い得なかった。
そしてそれではほんとにすまないと思って、その心をごまかすために、
「さあ行って、みんなと遊びましょう」と、今度はあべこべに私からあいちゃんの手を引いて駆け出した。
その十一
私はその裁縫箱がほしかった。
それを見るとたみちゃんに会えるような気がした。
で、その日家に帰るとすぐ、私はほかの用にかこつけて、押入れや箪笥の抽斗をそっと探してみた。
だがどこにもそれを見出すことができなかった。
「どうしたのだろう」と私は考えた。
また「ないはずはない」とも考えた。
それで、明くる日も明くる日も、何かにかこつけては押入れの整理や部屋の掃除をしたが、どうしても見つからなかった。
私はもう諦めていた。
意地のわるい祖母さんだ。
どこか私には気のつかぬところに仕舞い込んであるのだろうと、それからはもう探すことをやめた。
また幾月か経った。
ある日の夕方、祖母の部屋を掃除していると、箪笥と壁との間に何か紙片のようなもののあるのを私は発見した。
「何だろう」こういう好奇心も伴って、私はそれを骨を折って引きよせた。
塵にまみれた一通の手紙がそれであった。
その手紙は、子供の筆蹟で書かれていて差出人はたしかに貞子と書かれていた。
貞子とは、祖母の兄の子で、一度この家に貰われて来たが、祖母とその兄との感情の行違いから戻された娘である。
そしてその代りに私が育てられることになっていたのであった。
それを懐の中にそっと入れて、私は自分の部屋の中に持って帰った。
そして読んだ。
私はもうその文章を覚えてはいない。
が、それに書かれてあったことはどうしても忘れられない。
それによって私は、私の代りに今一度この貞子さんが岩下家の後嗣ぎに定められているのを知った。
岩下家からいろいろのものが貞子さんに贈られているのも知った。
郷里で私に着せてくれた縮緬の重ねも、しごきも、帯も、――そして私があれほど探していたたみちゃんの形見の裁縫箱までもが貞子さんに贈られているのを知った。
それから、私がこうした女中よりもひどい取扱いをされているのとは反対に、貞子さんは踊りも裁縫も生花もすっかり稽古させてもらっているのを知った。
しかもその手紙の終りには「御母上様」と立派に書いてあるのを見た。
私はしかし、ここでめめしいことを言うまい。
私にと私の眼の前で贈られたものをさえ、私にはくれないで貞子さんに送っていることや、その他のいろいろのことを語るまい。
私はだた[#「だた」はママ]、たみちゃんの形見が貞子さんのところに贈られたことに対してだけは何といっても腹立たしい。
悲しい。
その十二
服部先生が来てから三年ほど経った時分であった。
若くて、恰幅がよくて、運動好きのこの先生は、広い校庭に遊動円木や、廻転塔など、つぎつぎに運動器械を据えつけて子供を喜ばせていた。
ところが今度は、ただ運動ばかりではいけないという理由の下に農業の実習を始めると言い出した。
先生はまず、学校の後ろの方にあるかなり広い土地を借りた。
それを子供の農場とされた。
農場は四、五人を一組に、いくつかの区画に分たれた。
そして手始めにまず、あまり手のかからない馬鈴薯をつくることが選ばれた。
子供達は大喜びであった。
おのおの、自分の受持ちの土地に鍬を入れて土地を掘り起した。
そして先生の教えてくれるようにサクをきった。
先生は先生で、みんなに鍬の使い方から教えながら、自分でも自分の分をつくった。
生徒たちは先生の畑のつくり方を真似て、どうなりこうなり、薯が植え付けられるまでに仕上げた。
その時分にはもう、馬鈴薯の種がどこからか取り寄せられていた。
うなわれた畑には化学肥料が施された。
それからその次ぎには種子が蒔かれた。
先生が自分の畑でして見せるように生徒達はそれを真似た。
「さあ、いいかい」と先生は大きな声で愉快そうに言うのだった。
「これから十日も経てば芽が出て来る。
不思議だろう! こんな泥みたいな塊から芽が出て来て、それからまた子を産むんだ、そしてそれが人間の口に這入って滋養になるんだ。
だがだ、百姓のうちでこれは一番やさしい方だが、それでもほったらかしておいては好くみのらない。
充分可愛がって世話をしてやらなけりゃいけない。
その骨折りは一通りでない。
だからみんな、百姓を馬鹿にしちゃいかんぞ。
百姓こそ日本国民の親だ。
いや、日本だけじゃない。
どこの国だって同じことなんだ」
みんなは緊張した顔で先生の話をきいた。
教室で教わる時の十倍もの上の興味と注意とをもって。
温い陽の光を吸うて、種薯は小さな芽を出し始めた。
子供達は創造の歓びに小おどりした。
芽はぐんぐんと伸びた。
子供らは隙さえあれば畑に行って見た。
自分の領分の薯の芽と他の領分のそれとを比較して互いに自慢の仕合いをした。
物尺を持ち出して芽の長さをはかったり、芽が長く見えるようにそっとあたりの土を掻きのけておいたりした。
時間割の上では、農業は一週に一度だったが、それでは足りないというので、ほかの時間を繰り合せてその方に廻すようにまでした。
先生は白いシャツ一枚になり、女の子は着物をからげて跣足になり、男の子は股引一つになって、草を採ったり、うなったり、肥料をやったりした。
皆は汗だくだくになり、顔も手も足も泥だらけになった。
けれど誰もそれをいやがるものはなかった。
「いいかい」と先生は時々どなるような大きな声で話してきかせるのだった。
「人は互いに愛し合わなきゃいかん。
いや、人ばかりでない。
何をでも愛さなきゃいかん。
だが、ほんとの愛は自分で骨を折って育てなきゃ起らない。
どうだ。
みんなもこのジャガイモがかわいくなったろう……」
ある時はまた、こうも言った。
「だがジャガイモ一つつくるのにも随分と骨の折れるもんだなあ。
我々は八百屋でジャガ薯を買って来て食う時には、何の考えもなくこのイモはうまいとかうまくないとか贅沢なことを言っているが、実はこれをつくるだけにでも百姓はどんなに骨を折ってくれているかわからんのだ」
そして最後に先生は、いつも、「だから百姓を軽蔑しちゃいかん。
百姓は生命の親だ」をつけ加えるのだった。
雨が降らなかった。
土が余りに乾きすぎて、せっかく出た芽が枯れそうになった。
そこでみんなは競って朝早くから出かけては井戸の水をかけた。
あるものは学校がひけてから、夕方に今一度来て水をやるものもあった。
それほど子供らは真剣な輝かしい希望をこのイモにかけていた。
そして無論私もまた、その子供らのうちの一人だった。
ところがある日私は、学校から帰って来るとすぐ、叔母と祖母とのいるところによびつけられた。
「ふみ、この頃学校で百姓の真似をさせているっていう話だがほんとかい」と叔母がまず私に訊ねた。
何かまた怒られるのかとびくびくしながら、私は「ええ」と答えた。
叔母はしかし別におこった様子も見せず、ただ、
「この暑いのに、女の子までも畑に出して百姓なんかさせられちゃたまらんなあ。
第一着物がやけて仕様がない」と呟くように言って、「今つくりかけているのは仕方がないが、この次ぎからはもうおよし……」と私に命じた。
この次ぎから止めさせられるのは辛いが、でも今すぐでないことを私は喜んだ。
だが、祖母は叔母のようではなかった。
祖母は言った。
「この次ぎからじゃないよ、今すぐやめなきゃいけないよ。
わしの家じゃ、月謝を出してまでも百姓なんか習わせる必要がないんだからなあ、それにせっかくだがお前なんかに百姓して稼いでもらわなくても、まだ生計には困らんでな……」
私は黙ってきいているよりほかはなかった。
祖母はつづけた。
「明日からは百姓なんか一切してはならんぞ、ふみ。
なに、正科の時間だからと、では、百姓の時間のある日は休みなさい。
いいかい」
私の顔には恨めしそうな色が表われていたに相違ない。
それを見た祖母はますます疳癪にさわったと見えて、ほかのことにまでも叱言を言い始めた。
祖母はまたつづけた。
「それにお前はよく下駄の鼻緒を切って来るが、ありゃきっと、あの、何とかいうブランコにぶらさがって飛んだり、男の子なんかと一緒になって跳ねまわるからだろう。
下司の貧乏人の子の真似ばかりしてさ。
女の子なら女の子で、少しゃ高尚な女の子の真似でもして見るがいい。
だから明日からはこれも厳禁だ。
――ブランコや鬼ごっこもさ。
学校でするこたぁわからんと思ってやっても駄目だぞ、わしゃうちの上の山に登ってちゃんと見張りしているからな……」
ああ、とうとう私は、こうして私の自由を全く奪われてしまったのだ。
私自身も奪われてしまったのだ。
十二、三歳の遊びざかりの私だ。
その私が、着物が陽にやけるとか、下駄の鼻緒がきれるとかいった理由のために、規定の時間の運動のほかのどんな遊戯をも禁じられてしまったのだ。
人一倍お転婆の私にとっては、こうして手足を搦げられてしまったような生活がどんなに苦しかったことか。
だから、私は、その後大人になって往来を歩いている時分、よく、路傍で泥捏ねなどしている子供達を、母親がそこへ飛んで来て、着物が汚れるから止せと叱り、子供がなおもその遊びに執着して止さないと、泣き叫ぶ子供を無理にも引っぱってゆくのを見たことがあるが、そうした光景を見るたびに私は叫びたくなるのを覚えた。
――何でそんな無理をなさるのです。
あなたは一体、子供が大切なのですか、着物が大切なのですか。
子供は着物のためにあるのじゃありません。
子供のために着物があるのです。
そんなに汚していけないのなら、わるいお粗末な着物を着せておけばいいじゃありませんか。
――大人は自分の見栄や骨惜しみのために子供を犠牲にしています。
大人は、ことに母親は、子供を危険から譲り[#「譲り」はママ]、子供の天分をのばしてやるのがその職分です。
子供の自由を奪い、子供の人格を奪うのは恐ろしい罪悪です。
子供を自由に遊ばせなさい。
自由の天地に遊ぶことは自然が子供に与えた唯一の特権です。
そうされてこそ、子供は伸び伸びと人間らしい人間にまで成長するのです――と。
私は決して、これを間違った考えだとは思わないのである。
その十三
祖母たちからこうした宣告をうけてから、四、五日後のことであった。
何かの時間の後で服部先生は、ふと憶い出したように、教壇の上から生徒たちを見渡しながら言った。
「どうだね、今度学校で農業を始めたことについて、君たちの家で何とか言っていやしないかね、……たとえば、いいことを始めたとか、困ったことだとか、いった風に……」
子供たちは黙っていた。
先生は私のクラスの細田という男の子を名指してきいた。
「細田のうちはどうだ。
兄さんが何とか言わなかったかね」
肺病の兄と二人で暮している細田は答えた。
「兄さんは身体が丈夫になって好いと言って喜んでいます」
先生は嬉しそうな顔をして、今一度教室を見まわした。
「うちのお父さんもそう言ってたわ」
「うちのお父さんも……」
子供たちは小さな声で囁くように言い合った。
けれど自分から進んで大きな声で答えるものがなかった。
先生は誰かをまた名指しそうにしていた。
私は私を名指されるのでないかと、心の中ではらはらしていた。
それで、なるべく私に気づかないようにと、隠れるように俯向いてじっとしていた。
それだのに先生はわざと私を名ざした。
「岩下の家ではどうだ。
祖母さんがきっと何か言われたろう……黙っちゃいないはずだ……」
先生は何もかも知っていて私にそう訊いたのだと私は思った。
また、よし祖母たちが何と言ったかを知らないにしても、祖母たちの心持ちをよく知っている先生に、とってつけたような嘘は言われないと思った。
だが、だが、もしほんとうのことを言ったなら……。
いつになく私の答えは曖昧であった。
「ええ、あの……おばあさんは、農業、百姓なんかすると、着物がやけて仕様がない……と言いました」
すると先生は皮肉な顔に苦笑を浮ばせながら腹立たしそうに言った。
「ふむ、なるほどね、いかにも女王様のような立派な着物をお召しだからな……」
そう言って先生は、プンとして教科書をひッかかえたまま戸を荒々しく引きあけて出て行ってしまった。
みんなはじろじろと私の着物を見た。
私は思わず顔をあかめた。
そして今さらのように自分の着物のお粗末なのに驚いた。
白地に藍の、柄のわるい浴衣だ。
型はもうすっかり剥げて、あっちこっちにつぎさえあててある。
私はしかし先生を恨んだ。
先生はどうして私を人の前で恥をかかしたのだろう。
農業の時間に自分で育てるものへの愛を説いた先生ではないか、それだのに……それだのに……。
私は家に帰った。
学校でのことが胸にこびりついて離れない。
その上、私の答えたことが、祖母たちにわるいことでなかったかを心配した。
それを心配すればするほど、黙っていてはいけないことを感じたので、今日学校で起ったことの実際を語った。
祖母たちは怒らなかった。
勝ち誇ったような顔さえした。
ただ叔母と顔を見合わせながら祖母は、こう言った。
「やれやれ、こんなお馬鹿さんには全く降参だよ。
他人に言っていいこととわるいこととの見境がちっともつかないんだからなあ。
ねえ、これからさきは、この子の前ではうっかり真実のことは言えないよ、何でも彼でも喋べるんだから……」
祖母たちはこれまで、自分らの言ったりしたりすることは絶対に間違いのないことだと私に信じさせていた。
少くともそう信ずることを強制していた。
だが、私は今初めて、そしてはっきりと、祖母たちもやはり、人の前にうっかり話されてはならないことをしたり言ったりしているのだということを知った。
私はもう、うっかりと祖母たちの言葉を信じまい。
無批判には受け取るまい。
朧げながら私は、そういった感じを自分の胸の中で感じた。
その十四
私はもう一切を奪われてしまった。
学校も家庭も、今の私にとっては一つの地獄にしか過ぎなくなってしまった。
だが私は小さい時から、どんなに打たれても打たれても全くは打ちのめされない剛情な子であったのに違いない。
だからこうした時にもなお一つの楽しい世界を持つことができた。
それは私が人と離れて、ただ一人でいることであった。
そうだ、ただそれだけであった。
こうした苦しみを回顧していると、私はついその頃味わったたった一つの楽しい経験を思い出さずにはいられない。
台山は叔母の家の持ち山だった。
叔父が以前鉄道に勤めていた頃買っておいたとかいう山で、栗の木が植え込まれていた。
そしてそれがもうこの頃では、かなり大きな収入を叔母の家にあげさせているのだった。
栗の木の株間株間には、刈萱や薄が背丈ほども伸びて、毎年秋になると人夫を雇って刈らせるのだったが、その収入もかなりあるようだった。
秋、栗の実がはじけて落ちる頃になると、誰かしらうちの者が出かけて行っては、栗拾いをするのだった。
その仕事は大抵、身体の弱い叔父の役目だったが、叔父は時々、その山にさえ登れぬほど身体の調子のわるいことがあった。
そうした時には私は、自分から進んでその役目を引き受けることにしていた。
なぜなら、私はそこで、ほんとに自由な自分を見出すことができるからだった。
一切を奪われた年の秋だった。
叔父はまたしても身体をひどくわるくしていた。
私は祖母に乞うて、学校を休んで幾度となく栗拾いに出かけた。
山に行くときは、私はまず、足袋を穿き脚絆を捲きつけ、草履を足に縛りつけるのだった。
――なぜなら、その山には蝮がいて、時々人を咬むので……鎌や、棒切れや、拾った栗を入れる袋なども用意するのだった。
そして私はいそいそと家を出るのだった。
子供たちは学校に行く。
けれど、私はもう学校を休むのをそう悲しいこととは思っていなかった。
それよりも独り山に登るのがどんなに楽しいか知れないと思っていた。
木の枝に褪紅色の栗の実が、今にも落ちそうにイガの外にはみ出している。
私はそれを尖端が二叉になった棒切れでねじ折る。
そしてそれを草履の下で揉んで栗の実を採り出す。
それでも出ないものは鍬の背で皮を押しひらく。
はじけかかった枝の実をとると、今度は眼を地上に落して、落ちた実を拾う。
そうして私は、木から木へと移って行った。
時には草一本ないところに出るかと思えば、時には深い草叢のところに出くわした。
そんなところからは雉子が驚いては飛び立ったり、兎が跳び出したりした。
私は驚いて立ち止まるが、じきにまた、それらの動物に懐しみを感じ始める。
そして、
「なんだ、びっくりさせるじゃないか。
そんなに遁げ出さなくってもいいよ。
私達はお友達じゃないの?」と声を出して呟くのだった。
無論、兎も雉子も私には何とも答えずに遁げて行く。
けれど私は、別にそれを寂しいとは思わない。
かえって微笑ましくなる。
そして「可笑しな奴!」と再びまた呟いて、その草叢の栗は彼らのために残しておいて、もっと他のところに移って行く。
袋は重くなる。
足が疲れて来る。
私はそこで、持って来たすべてのものをおっぽり出して、一直線に山のてっぺんにまで駆け上って行く。
そしてそこで休む。
頂上には、木というほどの木がなく、黄色い花の女郎花や、紫の桔梗だの萩だのが咲き乱れている。
先生が、「あれは山ではない、丘だ」と定義をしたことがあるくらいで、この山は決して高い山ではなかったが、それでも位置がいいので頂上に登ると、芙江が眼の下に一目に見える。
西北に当っては畑や田を隔てて停車場や宿屋やその他の建物が列なっている。
町の形をなした村だ。
中でも一番眼につくのは憲兵隊の建築だ。
カーキイ服の憲兵が庭へ鮮人を引き出して、着物を引きはいで裸にしたお尻を鞭でひっぱたいている。
ひとーつ、ふたーつ、憲兵の疳高い声がきこえて来る。
打たれる鮮人の泣き声もきこえるような気がする。
それは余りいい気持ちのものではない。
私はそこで、くるりと後に向きかわって、南の方を見る。
格好のいい芙蓉峰が遥か彼方に聳えている。
その裾を繞って東から西へと、秋の太陽の光線を反射させて銀色に光る白川が、白絹を晒したようにゆったりと流れている。
その砂原を荷を負うた驢馬が懶そうに通っている。
山裾には木の間をすかして鮮人部落の低い藁屋根が、ちらほらと見える。
霞の中にぼかされた静かな村だ。
南画に見るような景色である。
それをじっと眺めていると、初めて私は、自分がほんとに生れて生きているような気がする。
ゆったりとした気分になって草の上にごろりと横わって、空を眺める。
深い深い空だ。
私はその底を知りたいと思う。
私は眼を閉じて考える。
涼しい風が吹いて来る。
草がさわさわと風に鳴る。
再び眼を開けると、蜻蛉が鼻の先で飛んでいる。
耳もとで鈴虫や松虫が鳴いている。
学校はおひる休みになったのであろう。
子供達の騒ぐ声がきこえて来る。
私は立ち上ってすぐ眼の下に見える校庭を見る。
子供たちはフットボールをやっている。
ボールが地に落ちてからしばらくしてやっとその跳ね上る音が聞えて来る。
落ちたボールを奪い合って子供達は騒ぐ。
愉快そうなその遊びよ。
私は今まで、学校で、ただ悲しげにそれを見ていなければならなかったのだ。
けれど今はもう悲しいとも嬉しいとも感じない。
ただそのうちに融け入っている自分を見出す。
何だか腹の底から力が湧いて来るような気がして、私は思わず「おーい」と誰にと言うのではなく叫んでみる。
けれど無論誰もそれに答えるはずはない。
私は独り山にいるのだ。
ベルが鳴って子供たちはまた教室の中に這入って行く。
私もまた、頂からおりて栗林の中に這入る。
晴やかな気持ちになった私は、我知らず学校でならった唱歌を歌い始める。
誰もそれを咎めるものがない、小鳥のように私は自由だ。
歌い、歌い、声の嗄れるまで歌い続ける。
時には即興に自分の歌を歌う、常々の押し込められた感情が自由に奔放に腹の底から噴き上げて来る。
そしてそれが私を慰める。
咽が渇くと栗番小屋の側の梨畑から採って来た梨を、皮も脱かずに、滓ぐるみ呑み込んでしまう。
そしてまた地上にごろりと寝そべって木の間から漏れる雲間を眺める。
咽ぶほど強烈な草いきれや、茸のかおりが鼻につく、私はそれを貪るように吸い込む。
ああ自然! 自然には嘘いつわりがない。
自然は率直で、自由で、人間のように人間を歪めない。
心から私はこう感じた、「ありがとう」と山に感謝したくなる。
同時にまた、ふと今の生活を思い出しては泣きたくなる。
そしてその時には思う存分泣くのであった。
だが、いずれにしても山に暮す一日ほど私の私を取りかえす日はなかった。
その日ばかりが私の解放された日だった。
その十五
暑い夏のまさかりだった。
江景というところで独力で病院を経営している福原という人の細君が、祖母を訪ねて来た。
その女は操といって、祖母の姪の一人である。
操さんはこれまで一度も訪ねて来たことがなかった。
手紙の往復さえろくにしていなかったように私は思う。
だが、操さんは私のような下司な貧乏人ではなかった。
祖母を初め、岩下家は上を下への大騒ぎでこの珍客をもてなした。
操さんは二十四、五の美しい女だった。
一人の乳呑子をつれていた。
着いたとき彼女は、胸から裾にかけて派手な秋草模様のついた絽縮緬の単衣に、けばけばしく金紙や銀紙を張りつめた帯を背負っていた。
その上、暑苦しいのに錦紗縮緬の半コートまでも羽織っていた。
首には金鎖、指には金の指環、調和はとれないが一眼見てどこかの貴婦人だと思わせるような服装だった。
一通り挨拶がすむと祖母はすぐ操さんの着物に汗が泌み出ているのを認めた。
「おやまあ、みいさん、帯から着物から汗びッしょりじゃないか。
脱いでお着更えなさいよ」
こう祖母が言うと、操さんも、
「そうですね、着かえましょうか」
と答えて、今着て来た着物をぬぎ捨てた。
祖母は自分でそれを持って行って、一枚一枚叮嚀にひろげて日光にあてた。
近所の貧乏なおかみさん達が水をもらいに来る井戸端からよく見えるところへ……。
操さんは嫁入り先の裕福な生活について祖母たちに話した。
「ふん、ふん、そりゃ結構だねえ、お前さんは仕合せだよ。
旦那さんの世話をよく見てあげて大切にしなきゃいかんよ」などと祖母たちは祝福の言葉と、そして親切な忠告とを与えた。
と同時に自分の家の暮し向きや、芙江における地位などについて誇らしげに語った。
そうした話は一日や二日では尽きなかった。
その間には祖母たちは操さんをつれて庭内を散歩したり、所有地を見せたりなどもした。
私のこともまた話されたのに相違ない。
操さんは私を尻目にかけて碌に言葉すらもかけてくれなかった。
私は別に操さんを憎みはしなかった。
けれど余り感じのいい女だとは思わなかった。
芙江から十里ばかり離れたところに操さんの知人が住んでいた。
操さんはその人を訪ねようかどうしようかと迷っているようであった。
「そんなら行ってお出でよ。
汽車に乗って行けばわけがないんだから……」と祖母が傍から元気づけるように言った。
「だけど、この子があるんでねえ、面倒臭くて……」と操さんはまだ躊っていた。
それは明らかに、子守として私をつれて行きたかったのであった。
それを察した祖母は操さんに言った。
「いいじゃないか、坊やはふみにおんぶさせて行けば……」
困ったことになったと私は思った。
この暑いのに、余り好きでない乳呑子を縛りつけられて、そして勝ち誇ったクィーンのような女の尻にくッついて行くなんて!
「そうですねえ、そうしていただければほんとうに結構ですけれど、……でも、ふみちゃんは行ってくれるかしら……」と操さんはそれとなく私の同意を求めた。
私は当惑して、はっきりと返事をしかねた。
と、いつもなら祖母からがんというほど怒鳴りつけられるのであるが、なぜだか、今日に限って祖母は、むしろ私の機嫌をとるように、「行っておあげよ、ふみ」と平常の命令でなく、ただそう勧めた。
そして操さんの姿がちょっと見えなくなるとすぐ、小さな声で、言葉やさしく私に言うのだった。
「なに、いやならいやとはっきり言えばいいんだよ。
いやなものを無理にやろうとは言わないんだから」
温い言葉に飢えていた私は、そう言われた時、妙に柔かい素直な心になった。
祖母の胸に縋りついて泣いて見たいような気にもなった。
子供が母親に甘えるような気で私ははっきりと答えた。
「ほんとうは私、行かなくってもいいんなら行きたくないの」
「何だと?」と祖母はいきなり、その疳癪玉を破裂させた。
そして私の胸倉を捉えて小突きまわした。
不意を喰った私は縁側から地べたへ仰向けざまに落ちた。
それを気味よがしに眺めながら祖母はまた例の通り罵り始めた。
「何だと! 行きたくないと! 少しやさしい言葉をかけてやれば図にのってすぐこれだ。
行きたくないもあるもあったものじゃない。
行くのが当りまえじゃないか。
百姓の鼻たれっ児の子守だった癖にさ。
だが行きたくなきゃ無理にお願いしないよ。
お前が行かなくったってこっちはちっとも困りゃしないよ。
その代りお前はもう、うちにゃ用はないから出て行ってもらおうよ。
さあ出て行っておくれ、たった今出て行っておくれ!」
祖母はいつの間にか庭下駄を穿いて私の側に来ていた。
そして私をさんざん踏んだり蹴ったりしていた。
私は倒れたままただぼんやりとしていた。
祖母は台所の方に駆け去ったがすぐにまた戻って来て、下男用の縁のかけた木椀を一つ私の懐にねじ込んだ。
そして私の襟髪を掴んで、地べたをずるずると裏門のところまで引きずって行って、門の外に突き出したかと思うと、荒々しく閂を掛け、自分はさっさと庭の方へ歩いて行った。
私はすっかり疲れてしまっていた。
身体が痛んで身動きさえもできなくなっていた。
鮮人が二、三人何か言いながら通ったようだったが、私は起き上りもしないで、俯向けに倒れたまま力なく泣いていた。
が、いつまで泣いていたって仕様がない。
誰も人は通らない。
誰も家の中から呼びに来てはくれない。
今や私の頼るべきものはただ、祖母が私の懐にねじ込んだ欠けた木椀一つである。
それは余りにも頼りにならぬ頼り手だ。
「そうだ、やっぱり帰って謝るより他に途はない」こう思って私は、勇気を起して立ち上った。
そしてよろめきながら塀に沿うて表門のところまで辿りついて、そこから中に這入った。
襷をかけて、汚れている縁側を、私は叮嚀に拭き始めた。
祖母はそれを見るとすぐ高を呼んで私の拭いている先を拭かせた。
私は茶碗を洗い始めた。
すると祖母自身がそこに来て、私を突きのけて自分で洗った。
庭を掃き始めると、祖母は何も言わずに私の手から箒を奪いとってしまった。
絶望した野良犬のように私はのろのろと自分の巣――部屋に帰った。
ぐんにゃりと横になって霊の抜けた人形のようにただ壁の古新聞に眼を注いでいたが、思い出しては涙に咽んだ。
そうした長い苦しみの後やっと夕方になった。
祖母は私の部屋と庭一重で向い合った母家の広い軒下に七輪を持ち出して、天ぷらを揚げ始めた。
油の香が焼けつくように私の空腹に浸み込んで来た。
思えば朝から私は御飯を頂いていなかったのだ。
高の小さい男の子が何か余りものを貰った空笊を返しにやって来た。
「おお、よう来た、いい子だ、いい子だ」
こう言って祖母は天ぷらを二つ三つ子供の手に握らせた。
そして私の方を見てくすりと肩をすぼめて笑った。
私はこっそりと家を出た。
出ても行き場がない。
すぐ下の路傍にある鮮人の共同井戸の側へ行って、わけもなく中を覗いて見たりなんかした。
そこへ、知合いの鮮人のおかみさんが、青い菜をかめに入れて洗いに来た。
私の顔を見ると、
「また、おばあさんに叱られたのですか」と親切に声をかけてくれた。
私は黙って頷いた。
「かわいそうに!」おかみさんはじろじろと私の哀れな姿を同情ある眼で眺めながら言った。
「うちへ遊びに来ませんか、娘もうちにいますから」
私はまた泣きたくなった。
悲しくて泣くのではなく、ただ大きな慈悲心に融かされた感激の涙で……。
「ありがとう、行って見ましょう」こう感謝して、私はふらふらとおかみさんの後に従いて行った。
おかみさんの家は、叔母の家の後ろの崖上にあった。
そこからは叔母の家の中がよく見られた。
そこで私はまた、叔母の家のものに見つけられるのでないかと、心配し始めた。
「失礼ですが、お昼御飯いただきましたか?」
「いいえ。
朝から……」
「まあ、朝っから……」と娘は驚いたように叫んだ。
「まあ、可哀相に!」とおかみさんは再びまたこの言葉を繰り返した。
「麦御飯でよければ、おあがりになりませんか。
御飯はたくさんありますから……」
さっきからの感情はもう胸の中に押し込んでおくことのできないほど高まった。
私は思わず声を出して泣いた。
朝鮮にいた永い永い七ヶ年の間を通じて、この時ほど私は人間の愛というものに感動したことはなかった。
私は心の中で感謝した。
胃から手の出るほど御飯を頂きたかった。
けれど私は祖母たちの眼を恐れた。
――鮮人の家などで貰って食うような乞食はうちに置かれない、と怒り出すにきまっている祖母を恐れた。
私はそれを辞退した。
そして空腹をかかえたまま鮮人の家を出た。
が、家に帰る気にはなれなかった。
裏の草原をあてどもなくうろついた。
どう考えても途がない。
私はまた家に帰った。
日はとっぷりと暮れて、家の中にはランプが灯っていた。
茶の間ではみんなが声高に話しながら食事をしていた。
私はいつもするように茶の間の外の縁側に手をついて、私の不心得を詫びた。
返事がなかった。
再び、三度、私は詫びごとを繰り返した。
が、私の願いは遂にきき入れられなかった。
「うるさいじゃないか、黙っといで」と祖母はとうとう私をどなりつけるのだった。
「昼間遊べるだけは遊んでおきながら、そろそろ日が暮れて行き場がなくなると帰って来て、そして、殊勝らしく詫びたり泣きごとを並べたりするのがお前のおはこだ。
どうだい、ただの一膳でも御飯を食べさせてくれた家があったかい? うちも同じことだ。
お前のお椀に御飯を入れてやるわけには行かんよ……」
私は叔母に縋りついて詫びてもらおうと思った。
が、叔母は先手を打って、祖母と一緒に私を罵り始めた。
操さんも一緒にいたが、これももちろん、何一つ口添えしてはくれなかった。
みんなは食事をすました。
後片づけも叔母と祖母とで大急ぎですました。
そしていつものようにベンチを持ち出して庭に夕涼みに出た。
独り家の中に残された私は、この間に何か食べようと思った。
が、食べものは何も見つからなかった。
やっと私は、祖母の部屋の真うらの、広い廂の梁に、いつも金網張りの四角な「蠅入らず」があることを思い出した。
私はそっとそれを覗いて見た。
が、その中には何もなかった。
そこで台所の隅に置いてある「鼠入らず」の戸を音のしないようにそっとあけて見た。
が、そこにもやはり何もなかった。
いつもあるはずの砂糖壺すらも。
私はまた自分の部屋に帰った。
部屋に這入ると、手探りで蒲団を敷いて蚊帳を吊った。
寝間着に着かえる力もなく、そのまま私はふとんの上に寝そべった。
庭では、近くの南さん夫婦の声も交って陽気な話し声や笑い声があがっていた。
その声が耳についてなかなか眠れなかった。
私は祖母たちを恨んだ。
がまた、自分のしたことはほんとに、わるかったのだろうかと考えても見た。
何とかして、ほんとにわるかったということがわかってほしいと思った。
が、わからなかった。
一時すぎになって私はやっと眠りついた。
翌朝、眼が覚めたときはもう、朝日が上っていた。
高はいつものように庭掃除に忙しく、祖母は台所で朝御飯の仕度をし、叔母は私の役目である部屋の掃除に障子や置物をバタバタとはたいていた。
「わびるのは今だ! 今出て行って、何と罵られても精出して働けばきっと赦される。
そうだ今だこの機会をのがしては駄目だ!」
けれど、私の精神も肉体も全く疲れ果てていた。
幾度起き上ろうとしても自然とまた倒れた。
何しろ前々日の晩に食事をとったきりなので、おなかが空いて空いて、空いたのがわからないくらいだったから、その身体のだるさったらなかった。
起きて働くどころか足を持ち上げることさえ大儀だった……。
そうこうしているうちに食事もすんだと見えて、操さんと叔父とは外出し、祖母や叔母も庭園の野菜畑にでも出かけたのだろう、家の中はしんとして声がなかった。
私はとうとう、機会を遁がして[#「遁がして」はママ]しまったのだ。
「ああ、もう仕様がない!」私は思わず溜息をついた。
そして「ええッどうにでもなれ」といった風に自分の身を運命に任せてしまった。
幾分私は楽な気になった。
だるい身体で寝返りを打ったり、裾の方へ蹴やった掛蒲団の上に足を載せて天井を見つめたりなんかしながら、夢ともなく現ともなく幾時間を過した。
何かの音にふと眼をさますと、それは茶碗のかち合った音であった。
うちでは今、おひる時であるらしかった。
「今度こそは」とやっとのことで私は起き上った。
くらくらする眩暈に抵抗しながら、私はその食事の場所へ行った。
そしてまたしても板の間に額をこすりつけて、
「私がわるうございました、もうこれからは決して我儘は言いませんから……」と真心こめて詫びた。
いや、真心こめてどころではない。
今まさに首をはねられようとしている罪人が、あらん限りの力をもって生命乞いをするような、そんな真剣さをもってであった。
ああ、けれど結局それも無効であった。
至誠は天に通ずというが、祖母や叔母は天ではなかった。
「きょうのお肴はいきがいいね」と祖母は叔母に、空嘯いて話しかけた。
……私の言葉が祖母の耳には這入らないかのように……。
「そんなに自分のわるいことがわかっているのなら、なぜ今朝でも早く起きてせっせと用をしなかったんだ。
お前はまだほんとうにわるかったと思っていないんだろう。
そんな根性でいる限り、わしは祖母さんに詫びてあげることもできん……」と叔母は私をねめつけて叱った。
大方こんなことだろうと思っていたものの、きっぱりとこう振り放されるともう生きた心地もしなかった。
すごすごと自分の部屋に帰って来て、私はまた打伏して泣いた。
もう、涙もろくに出なかった。
窓わきの壁に背を凭せて、私はややしばらく、ただぼんやりと投げ出した自分の足を瞶めていた。
と、ぼおっと気抜けした心のどこかに「死」という観念が、ふいと顔を出した。
「そうだ、いっそ死んでしまおう……その方がどんなに楽かしれない」
こう思った瞬間、私は全く救われたような気がした。
いや、全く救われていた。
私の身体にも精神にも力が漲って来た。
萎えた手足がぴんとなって、わけなく私は立ち上れた、空腹などは永久に忘れてしまったようでもあった。
十二時半の急行がまだ通らない。
それだ。
それにしよう。
眼をつぶって一思いに跳び込めばいい。
が、それにしてもこのままでは余りにも身窄らしい。
突嗟の間にも私はこう思いついた。
そこで大急ぎで腰巻だけを取り替えて、部屋の隅の箱から、袂のついた単衣とモスリンの半幅帯とを引き出して、それを小さく折って風呂敷に包んだ。
急がなければ時間に間に合わない。
風呂敷を脇の下に隠し持って、私は裏門から出た。
そして夢中で走った。
一切を捨てて、死の救いへと、すがすがしい晴やかな心で……。
駅に近い東側の踏切りまで来た。
シグナルがまだ下ってない。
ちょうどいい。
もう来るだろう。
叔母の家の東の高台から見られぬよう、私は、踏切り近くの土手の陰に隠れて着物を着替えた。
前の着物はくるくると捲いて風呂敷の中に包み、土手脇の草叢の中に突込んで置いた。
土手の陰に蹲って私は汽車を待った。
だがいつまで経っても汽車は来なかった。
やっと私は汽車がもう通過した後だということを知った。
それを知ると、私は、今にも誰かに追跡せられ、捕えられるように思って気が気でなかった。
「どうしようか……。
どうすればいいのか……」
澄みきった頭の働きは敏速だった。
私はじきに今一つの途を思い出した。
「白川へ! 白川へ! あの底知れぬ蒼い川底へ……」
私は踏切りを突っ切って駆け出した。
土手や並木や高粱畑の陰を伝わって、裏道から十四、五町の道程を、白川の淵のある旧市場の方へと息もつかずに走った。
淵のあたりには幸い誰も人はいなかった。
私はほっと一息ついて砂利の上に殪れた。
焼けつく熱さにも私は何の感じもしなかった。
心臓の鼓動がおさまると私は起き上った、砂利を袂の中に入れ始めた。
袂はかなり重くなったけれど、ややともすればそれが滑り出そうであったので、赤いメリンスの腰巻を外して、それを地上に展げて、石をその中に入れた。
それからそれをくるくると捲いて帯のように胴腹に縛りつけた。
用意は出来た。
そこで私は、岸の柳の木に掴まって、淵の中をそおっと覗いて見た。
淵の水は蒼黒く油のようにおっとりとしていた。
小波一つ立っていなかった。
じっと瞶めていると、伝説にある龍がその底にいて、落ちて来る私を待ち構えているように思われた。
私は何だか気味がわるかった。
足がわなわなと、微かに慄えた。
突然、頭の上でじいじいと油蝉が鳴き出した。
私は今一度あたりを見まわした。
何と美しい自然であろう。
私は今一度耳をすました。
何という平和な静かさだろう。
「ああ、もうお別れだ! 山にも、木にも、石にも、花にも、動物にも、この蝉の声にも、一切のものに……」
そう思った刹那、急に私は悲しくなった。
祖母や叔母の無情や冷酷からは脱れられる。
けれど、けれど、世にはまだ愛すべきものが無数にある。
美しいものが無数にある。
私の住む世界も祖母や叔母の家ばかりとは限らない。
世界は広い。
母のこと、父のこと、妹のこと、弟のこと、故郷の友のこと、今までの経歴の一切がひろげられたそれらも懐しい。
私はもう死ぬのがいやになって、柳の木によりかかりながら静かに考え込んだ。
私がもしここで死んだならば、祖母たちは私を何と言うだろう。
母や世間の人々に、私が何のために死んだと言うだろう。
どんな嘘を言われても私はもう、「そうではありません」と言いひらきをすることはできない。
そう思うと私はもう、「死んではならぬ」とさえ考えるようになった。
そうだ、私と同じように苦しめられている人々と一緒に苦しめている人々に復讐をしてやらねばならぬ。
そうだ、死んではならない。
私は再び川原の砂利の上に降りた。
そして袂や腰巻から、石ころを一つ二つと投げ出してしまった。
その十六
年端も行かぬ哀れな少女が死を決して死に損ねた。
若草のように伸び上がるべきそうした年齢の頃に救いを死に求めるということさえ恐ろしい不自然なのに、復讐をただ一つの希望として生き永えたとは何という恐ろしい、また、悲しいことであろう。
私は死の国の閾に片足踏み込んで急に踵を返した。
そしてこの世の地獄である私の叔母の家へと帰った。
帰って来た私には一つの希望の光が――憂鬱な黒い光が――輝いていた。
そして今は、もうどんな苦痛にも耐え得る力をもっているのだった。
私はもう子供ではなかった。
うちに棘をもった小さな悪魔のようなものであった。
知識慾が猛然として私のうちに湧き上ってきた。
一切の知識をだ。
世の中の人はどういう風に生きているのか。
世の中には一体、どんなことが行われているのか。
ただ人間の世の中のことばかりではない。
虫や獣物の世界に、草や木の世界に、星や月の世界に、一口に言えばこの大きな大自然の中に、どんなことが行われているのか。
そういった学校の教科書で教えられるようなそんなけちな知識ではない。
学校においては運動や遊戯を、家庭においては一切の自由を、それらのすべてを奪われた私である、けれど私のうちに生きている生命はそれで萎縮してしまうほど弱いものではなかった。
生命の意慾! それをどこかに私は排口を見出さねばならなかったのだ。
ちょうどその頃であった。
ある日私は、例によって子供達が愉快そうに遊戯している有様を、校舎の壁に凭りかかりながら、退屈を忍んでじっと瞶めていた。
と、そこへ何か旧い雑誌を持って来た友達があった。
「それ、何?」と私はその友達に訊ねた。
「『少年世界』だ」と友達は答えた。
「面白い?」
「うん、面白い」
私はそれを読みたくてたまらなかった。
「ちょっと見せて……貸してくれない?」
「貸してもいい」
それを手に取ると、私はその第一頁から読み始めた。
子供達が遊んでいる間、吸い込まれるように貪り読んだ。
何から何まで一つとして面白くないものはなかった。
授業時間中にもこの本のことが忘れられなかった。
学校がひけてもしばらくは教室に止まって読んだ。
帰る途中も、のろのろと牛のように歩きながら読んだ。
帰ってからもわずかな隙を盗んでは隠れて読んだ。
無論私は祖母に見つけられて叱られた。
けれど私はもうどうしても思いきることができなかった。
それからは家で読むことだけはよしたが、登校の途中や帰り途や学校の遊戯時間や授業時間最中にさえも時々そっと読んだ。
そして次ぎから次ぎへといろいろの友達からいろいろの雑誌や本を借りて読んだ。
困ったのは学校を出てからのことであった。
私は始終家の中にいなければならなかった。
だから誰からも何も借りることができなかった。
何とかして本を読む方法がないかと、私はそればっかり考えていた。
と、そこへ、近所の家の娘さんが月々とっている『婦女界』かなんか持って来た。
私はそれを借りた。
そして旧いのがあればみんな貸してほしいと言った。
娘さんはその後一年分ほどの雑誌を持って来て、祖母たちの前で私に貸してくれた。
私は嬉しくてたまらなかったが、祖母たちの顔を見てもじもじしていた。
と、祖母たちもその人の手前、礼を言って受け取ってくれた。
で、私はそれを公然と読むことができた。
一、二冊読む間は祖母たちも黙認してくれた。
が、そのうちに祖母が言い出した。
「どうもふみに本を読ませると、その方にばかり気をとられて、うちの仕事はそっちのけになって困る。
黙ってりゃいい気になって増長しやがるんだ。
これからは一切本を読まさないことにしよう……」
叔母ももちろん同意であった。
「あら困っちまうわ」と私は泣き出しそうにして、「では昼間は誓って読みませんから夜だけはどうか……」と甘えるように嘆願してみた。
だが、祖母たちは聞き入れなかった。
そして読みさしの雑誌をとりあげて、貸し主の前には体裁のいいことを言って返してしまった。
それ以来、私の眼に触れる読ものとしては、ただ新聞だけだった。
が、その新聞すらも読むことを許されなかった。
子供は新聞なんか読むものでない。
これが祖母たちの「高尚な意見」だった。
私はただ、ルビを拾い拾い読む祖母の音読をたよりにその内容を知ろうと努めた。
時々はこっそり横眼で見て、三面の見出しだけを読んだ。
それからまた、朝晩のお掃除のときを利用して、右の手で障子や棚をはたきながら左の手で新聞を持って、とびとびに連載小説などを読んだ。
面白いと思う記事があると、こッそりと便所の中に持ち込んで読んだ。
叔父の貧弱な本箱の中には数冊の書籍があった。
私はそれを読みたいと常々から心がけていたが、その折がなかった。
ところがあるとき叔父夫婦が旅行して不在になった。
この時だとばかりに私は、そのうちから一冊の本を取り出した。
それはアンデルセンのお伽噺であった。
私は別に童話なんかに趣味をもっていたのではなかったが、でも叔父の本箱の中にはそんなものしかなかったので、仕方なしにこれを撰んだのであった。
持ち出しはしたものの、祖母に気づかれないように読むのは容易なことではなかった。
一日や二日は無事であったが三日目の午後、手隙を見て例の通り裏の畑の隅の便所の脇で夢中に読んでいると、祖母がいつものように足音を忍ばせながらやって来たらしかった。
――私は少しも気づかないでいたのだが。
「ふみや、ちょっとこの木の枝を折っておくれ」と祖母の疳高い声が私を呼んだ。
はっと思って私は慌てて本を懐の中に入れた。
が何しろ四六判四百頁近い本なので懐は不様にふくれ上っていた。
祖母はいちはやくそれを見つけて、私の懐の中から本をひったくった。
そしてまず「この盗棒め!」と私を盗棒扱いにしてこう続けた。
「お父さんの大事にしている本を盗み出すなんてお前は何という子だ。
もし汚したり破ったりしたらどう言ってお詫びするつもりだえ? おそろしい子だよ、お前は……」
祖母たちにとっては、本は読むべきものでなくて、部屋の飾りであったのだ。
祖母はそれをもって部屋に帰った。
そしてあたふたと叔父の貧弱な本箱を押入れの中に仕舞い込んで錠をおろした。
私はとうとう、私の最後の友であり世界であるあらゆる書籍から遠ざけられてしまった。
学校を出て叔母の家を去るまでのまる二年の間、私は全く何ものをも読むことができなかった。
私の読み得る字といっては、ただ私の部屋に貼ってある古新聞の途切れ途切れの文句だけであった。
私は毎日のようにそれを読んだ。
すっかり暗誦するまでにそれを読んだ。
祖母たちが子供には新聞なんか読ませてはならない、という高尚な掟をつくりながら、私の部屋――それは後でまた話すが――に古新聞を貼りつけるなんて、随分と可笑しなことでなければならぬ。
だが、理由は簡単である。
女中部屋なんかには金をかけることは馬鹿だ。
古新聞でも貼っておけばたくさんだ。
ただこれだけのことなのである。
祖母たちには、どんな「高尚な掟」でも、自分達の利益の前には平気で蹂み躙っていいのだ。
その十七
こうした境遇のうちに、私はともかくも十四の春、高等小学だけを出た。
甲州に私をつれに来たときに約束した女子大学はおろか、女学校にすらやってくれなかったのだ。
これが私の受けた最大限度の教育であったのだ。
いや、その高等科ですら、授業料が尋常科と同じく四十銭でなかったなら、そして、高等科にもやらないという面目上のことさえなかったなら私はもっと夙く学校をやめさせられていたのである。
卒業後の生活は耐えられないものだった。
学校に通っている時分は、ともかくも半日は祖母の眼の外にいることができたのだが、今はどうしても、朝から晩まで私の全生活を祖母の意地わるい監視のもとに置かれねばならないのだ。
今考えて見ても、私が今こうして牢屋の中にいるよりも遥かに遥かに辛かったように思う。
小学校を出るとすぐ、多分その年の夏時分だったろう、祖母は裏の物置小屋の土間に松丸太かなんかで床をつくり、その上に二、三枚の古畳を敷いて、それを私の部屋にあてがった。
その部屋を祖母たちは、陰で「女中部屋」とよんでいた。
まことに私は、とうとう本ものの女中にまで堕されてしまったのだ。
女中部屋は祖母の部屋と向い合っていた。
壁一重隣は薪小屋で、女中部屋は物置小屋の一部だった。
広さは三畳余りであったから、独り住むのには充分だったが、でも、もともと物置小屋なのだから、女中部屋となってからもなお半分は物置きに使われた。
入口の土間にはバケツや漬物桶やかめなどがごたごたと置かれ、部屋の棚には洗った飯櫃や箱や新聞で包んだいろいろなものが一ぱい載せられていた。
私の物とては、衣類を入れた箱と汚れた色褪めた蒲団ぐらいのもので、机もなければただの一枚の座蒲団すらもなかった。
暗い、じめじめした、黴臭い、陰気な部屋だった。
窓とては、祖母の部屋に向った側の壁に障子半枚ぐらいの大きさの穴がえぐられているばかりだった。
そのいやな部屋で私は昼も夜も雑品と一緒に暮させられた。
母屋の方で仕事のない限り、私はこの陰気な部屋の中で独り、言いつかったほどきものなんかをして日を過したのだった。
とはいえ、私は決して、この物置小屋の陰気さを厭うたのではない。
貧乏と苦痛とには私はもう馴れきっている。
私はただ、この「女中部屋」の生活の無意味さに焦燥を感じたのだ。
一緒に学校を出た友達のうちには、さらに上級の学校に進んだものがある。
何か職業を求めて自活の途を講じているものもある。
その他のものもまた自分の家にいて、何かしら来るべき生活の準備におさおさ怠りがない。
それだのに私は今、この「女中部屋」に押し込められて、叔母の家のくだらぬ仕事をさせられるばかりで、何一つ生活に必要なことを教わることもできない。
私は別に生花や、茶道や、踊りなどいう贅沢な技芸を習いたいとは思わない。
けれどせめて普通の家庭に必要な裁縫とか作法とかぐらいは知っておきたい。
それにもまして本が読みたい。
だが、そうしたことの一切が無視されかつ禁じられているのだ。
たまに何か縫い物をあてがわれてもそれはただ叔母の家に必要なものをその時々に従って縫わされるだけで、一向裁縫のお稽古にはならない。
――学校で私達は、いい先生がなかったために裁縫はほとんど教わらなかったと言ってもよいのだ――料理といっても、私にさせてくれるのはただ、御飯を炊くことと味噌汁を拵えることくらいが関の山であった。
要するに私は、叔母の家のその時々の用を足せば足りる生活にまで追いやられているのだ。
祖母たちは私に、一人前の女として心得ておかねばならぬ生活の途の何一つをも教えてくれようとはしなかったのだ。
親切は、祖母も叔母も爪の垢ほども持ち合わせてはいなかったのだ。
若い生命はぐんぐんと延びたがる。
けれど何一つこれを伸ばしてくれるものがない。
私は遣る瀬ない焦燥を感じる。
このままこの黴臭い息づまるような空気の中で、――女中部屋の中で、一生を過ごさねばならないのではないか、こういった不安に私はしょっちゅう襲われた。
そうして私は遂に神経衰弱にでもかかったようであった。
恐らく私は不眠症になったのであろう。
仕事をして頭が疲れ、身体がだるくなって、よく座睡さえするのに、さていよいよ正式に寝ようとするとなかなか眠れなかった。
一時、二時、時には三時頃までも眠りつけない晩が多かった。
転々と寝返りを打っては苦しんだ、眠ろうとすればするほど、眼はますます冴えて、しまいには神経がぴくぴくと動くのを感じた。
時には夜一夜苦しんで遂に一睡も貪り得ないこともあった。
そうした時の翌る日は、体がだるくて気分が重くて、おまけに頭痛さえもするのであった。
漠然とした不安がしょっちゅう私に襲いかかって来た。
暗い生活が一入暗く感じられた。
その十八
思えば、朝鮮に来てからの私は苛められどおしであった。
その間に私は一度だって柔しい愛を祖母たちから受けたことはなかった。
それは今までの私の記録によってもほぼ諒解されると思う。
が今まで私の記してきたことは私の受けた呵責の歴史の、ほんの一部分にすぎないのだ。
それも最も代表的な、もっとも残酷な呵責の記録ではないのだ。
私はわざとそれを書かなかった。
そうしたことを書くと、私が嘘を言っているのだとしか思われないだろうと思ったからである。
少くとも「もう飽き飽きだ。
要するにそれは、お前のいじけたひねくれ根性のおかげだ。
いかに冷酷なお前の祖母さんだってまさかそれほどでもあるまい」と言われるだろうと思ったからである。
かように割引して書いてきたものを読んだだけでもやはり、そう思われる人が多いだろう。
そして私も決して、私がいじけていなかったとも、ひねくれていなかったとも言わない。
事実私はいじけていた。
また、ひねくれてもいた。
だが、どうして私はそんなにも歪められたのであろう。
小さい時から私は人一倍のお転婆であった。
私は男の子と男らしい遊びをするのが好きであった。
私は今も決して、陰気な女でもなければ憂鬱な羞みやでもないつもりだ。
だのに、朝鮮にいた七年の間は全くその反対であった。
愛されないで苛められたがゆえに私はひねくれて来たのだ。
一切の自由を奪われ、抑えつけられたがゆえにいじけても来たのだ。
学校ではそうでもなかったが、家にいるときには物一つ言うにも用心しいしい私は言った。
今はこんなに何でもつけつけ言うのにその頃は決してそんなことはできなかったのだ。
私はまず、祖母や叔母の気持ちを察した。
そしてそれに抵触しないように心配しいしい物を言った。
いや、ただに言葉の上のことばかりではなく、一切の行為そのものがそうであった。
そしてそのために私は、つい嘘も言い、影日和もし、最後にはとうとう、盗みまでもするようになった。
「懺悔録」の中でルッソオが告白しているように、私もまた、散々いじめられた揚句、いじけにいじけて、果てはとうとう盗みをするようにさえなったのだ。
盗みはいいか悪いか、私は今そんなことを考えまい。
けれど、徹底的に真実と率直と正義とを求める私としては、人のものを盗むなどいうことを徹底的に排斥しもするし無論盗みなんかしない。
朝鮮から東京に来て、どんなに困った時でも、私は実に、他人の藁すべ一つだってひそかに自分のものとしたことはない。
そうした私が、この叔母の家にいるうちに、盗みをさえするようになったのだ。
どうして私がそんなさもしい根性になったのであろう。
一通り私はその事情を話さねばならない。
子供に現金を持たせて買い物をさせるなどは下司の貧乏人のすることで、上品な金持階級のすることでない。
こういうのが祖母達の処世哲学であり、衿持でも[#「衿持でも」はママ]あった。
それゆえに私は、私の欲しいと思うものを買うのに金を持たされたことがなかった。
大抵はうちの誰かが買って来てくれるか、そうでなかったら「通い」で取って来るのであった。
ところがこれは、私が私自身のものを買う時のことに限っていて、祖母たちの家の必要なものを買う時にはこの限りではなかった。
ことに私が学校を卒えて「女中部屋」の住人となってからはなおさらそうであった。
私はよく金を持って買い物に遣わされた。
「市」の立つ日などは必ずそうであった。
朝鮮の田舎には普通月五、六回の市が立つが、芙江の市は旧暦十六の日に立った。
市場は以前、白川近くの方にあって、朝鮮でも指を折られるほどの大きな市が立ったそうであるが、鉄道が敷かれてからはずっと寂れたので、場所も村の中央に移し、今ではせいぜい三、四里以内にある村々の人々が集まって来るだけであった。
といってもやはり千や二千の人出はあった。
で、そうした人たちを相手に、肉屋や飲食店や呉服屋や菓子屋や薬屋や八百屋や、その他各種各類に亘って四方八方から集まって来て店を出した。
日人の小商人達ももちろん、こんないい機会を見のがすはずはなかった。
同様にまた、住民の多くが市場の安い品を買うために、出かけないというはずもなかった。
上品な家柄をもって任じている叔母の家では、そんなところに店を出すようなみっともないことはしなかったが、さらに、「下等社会のおかみさん」達のように自分で市場に物を買いに行くようなことさえ恥としていた。
といっても、根が人一倍けちと来ているのだから、どうかしてその市場の安い品物を買って来る必要があった。
で、その役目を私は、いつでも引き受けさせられるのであった。
そしてこれが私を、盗むことの余儀ない破目に陥れた唯一の理由なのである。
何でも私が十四歳ぐらいの年の暮であった。
その頃は魚が少くて値段が高いというので、叔母の家では、魚の代りに卵をなるべく多くお正月の御馳走に使おうということにきめた。
卵の相場は普通十箇が十銭内外であった。
で、私はそれを買いに市日ごとに市場に遣わされた。
そして出かけるたびに私は、「懸引きを上手にしてできるだけ安く買って来るんだよ。
高いのを買って来ては駄目だよ」と祖母たちから注意されるのだった。
だが、子供の私にはその懸引きなんか上手にやれるはずはなかった。
第一、品物が高いのか安いのかさえほんとうはわからないのだった。
時々は私も安いのを買って来ることがあった。
すると祖母は「うんこれは安い」と喜んでくれたが、大抵のときは祖母から「ちと高すぎるようだな」と不機嫌な顔で叱られるのだった。
ある日も私は、言いつかっただけの卵を買って来た。
すると祖母はそれを、自分の掌に載せて目分量で目方を量ってみながらこう言った。
「この卵は馬鹿に小さいじゃないか。
だからこれはいつもより高いよ。
今しがた三浦のおかみが市場から帰って来て、今日は卵が馬鹿に安いと言っていたがねえ……大方お前は、今川焼でも買って食べたんだろう、貧乏人の子の仲間になってさ……」
何という無慈悲な疑いであろう。
私は値切れるだけ値切ったのである。
相手がじれったがるほどきまりのわるい思いをして値切ったのである。
しかも、いよいよ買ってしまってからでも、高く買ったのではないかと、他人の買い値を訊ねてみたり、帰り途ではそっと卵を藁づとの中から取り出して大きさを量ってみたりなんかしてまでも精一ぱい祖母の気に入ろうと努めたのではないか。
それだのにそれだのに、やっぱり私は高く買って来たのであろうか。
私は祖母に痛くない腹まで探られなければならないのだろうか。
とはいえ、何といっても私はまだ子供である。
事実、多くの場合、何を買っても大人のようには安く買い入れることができなかったようであった。
私はそれが辛かった。
そこで私は、どうすれば祖母に喜んでもらえるだろう? といろいろと思案した。
そしてその思案の揚句思いついた一つの手段がすなわち、私に盗みをさせる唯一の動機となったのである。
市場にやられる日には私は、まず、家の者の気づかない時を見計らって、そっと押入れの小遣銭の函の中から銅貨を七、八ツ盗み出した。
そしてそれを帯の間へまるめ込んで置き、帰ったときにはそれを、そのまま、釣銭の中に加えて祖母の前に出すのであった。
そんな時には、祖母はもちろん笑顔を見せた。
喜んでくれないまでもふくれ面をすることだけはなかった。
で、私はそれから一、二ヵ月はこの手段で祖母の歓心を買っていた。
だが、無論内心ではすこぶる不安であった。
いつ発覚されるかも知れないと思ってびくびくものであった。
のみならず、都合のわるいことさえあった。
というのは、小遣銭の函の中には銀貨ばかりあって銅貨のない時がしばしばあったからであった。
銀貨をもって行っては小遣銭の減り方が目立って一層早く発覚される恐れがある。
もっといい方法がないかと、私はまた思案し始めた。
そしてまた一策を案じ出した。
たしか十五歳の冬だったと思う。
市日の朝、私は、何か他の用事にかこつけて庭先の米倉へ這入った。
倉庫の左手には籾俵が高く積み上げられており、右手には私の胸のあたりまでも高い玄米入の箱が五つ六つ並べられていた。
入口に一番近い箱の蓋を私は取った。
そして窓明りを透かしてその米の表面を眺めた。
平らにならされた面の上には「寿」という字が指で書かれてあった。
――これは、下男の高がしばしば米倉の中に這入るので、高が米を盗んで行きはせぬかと、その予防策に祖母がやっておく手段であったが、私はそれを前から知っていた。
米の上の字を私はじっと瞶めた。
そして祖母の書いた字の真似を指先でやって見た。
どうやら似せ字がかけるという自信がついたとき、私は手早くその米を五升桝に掬って袋に入れた。
そして、袋を俵の陰に隠しておいて米の面をもと通りに均らした。
それからかねて稽古しておいた「寿」の字を祖母の手つきに似せて指で書きつけた。
いよいよ市場に出かける時が来た。
辺りに人のいないのを見届けた時、私は、かねて隠してあった袋を裏門から持ち出した。
袋は無論羽織の下に隠して持った。
その上、うちの者に見つからぬようにと、同じく市場に向って行く鮮人達の間に混って、こそこそと市場の人込みの中へもぐり込んだ。
市場は例によって賑やかだった。
人々は店から店へと渡り歩いていた。
店にはいつもの売り手がいつもの場所に陣取っていた。
私はもう、どこに何が売られているかを大抵は暗で覚えている。
どこで何が取り引きされるかも見知っている。
だが、私の持って来た米はどう処分したらいいか。
早く金に替えたい。
でないと、知った人に怪しまれるだろう。
叔父が時たま市場の方に廻って来ることがあるから、それに見つかっては大変だ。
米市へ持って行こうか。
でも、余りにこれは分量が少なすぎる。
第一、そんなところに行って取引きするだけの勇気がない。
時たま隣近所の知人に逢った。
そうするとそれらの人々は皆、叔母の家の「まわし者」のような気がした。
私の心は鼬のように全く怯えきっていた。
いっそのことドブの中にでも投げ捨ててしまおうかとさえ私は考えた。
右往左往しているうちに時間は駆け足で進んで行った。
もう四時にも近いであろう。
日はだんだんと傾いて行った。
早く帰らねばならない。
「何をしていた、何かまた買い食いでもしていたろう」こう言ってまた叱られるだろう。
村々のおかみさん達が、物々交換のように、品物を持って行っては金にかえ、それでまた必要なものを買っているのを私は知っていた。
私もそれをやればいいのだ。
だがそれがなかなかできなかった。
一つには私にもやはり見栄があるから。
今一つには、そうしていることを誰か知った人に見つけられて祖母に告げ口されたらどうしようという心配があったから。
が、もう時間がなかった。
絶体絶命だと私は考えた。
そこで私は、ありったけの勇気を出して、おかみさん達のやっている当り前のことをやって見ようと決心した。
ふと気がついて見ると、私は今、知合いの鮮人のおかみさんのやっている飲食店の前に立っていた。
ここだ! ここへ這入ろう! と私は考えた。
だが、客はまだ残っていた。
早く帰ってくれればいい。
後の客が来なければいい。
そう心の中で願いながら、私はその辺を二、三度も往来した。
そして、やっと客の途絶えた隙を見出した時、そっと私はその飲食店の中に這入って、耳まで熱くほてった極まりわるさと自責とを無理強いに圧しつけて、おずおずと私は小声で頼んでみた。
「あの……おかみさん、米を買ってくれませんか。
好い米です……いくらにでもいいんです……」
おかみさんは驚いたような顔をして私を見た。
その顔を見ると私はまた一層おびえた。
断られたらどうしよう、祖母に言いつけられたらどうしよう、私はもう穴があったら這入り込みたいような気がした。
が、何という救いであったろう。
おかみさんは答えた。
「どんな米だか、見せて下さい」
ああ、たすかったと、私はほっとして胸を撫でおろした。
そして散々もて余した揚句、近くの肉屋の小屋の影に匿しておいた米の袋を持って来ておかみさんに見せた。
おかみさんは袋の口をあけて、一握みの米を握み出した。
「なるほど良い米ですねえ、どれだけあるのですか」
「五升あります」
「たしかに五升ありますね、大丈夫ですね」
米はたしかに五升以上はある。
袋に入れるとき私はたっぷりと五升量って、なおその上少し足し米をさえして置いたのだ。
だが、今はそんなことはどうでもいいんだ。
早く取り引きをすまして、いくらでもいいからお金に替えたいのだ。
私は答えた。
「ええ、充分あります……でも、何だったら、お金はいくらでもいいんです」
やっとのことでおかみさんはそれを引き取ってくれた。
代価を払われると私は、その金を引ッ掴んだまま計えもせずに店を出た。
そしてまた人込みの中に自分の身をかくした。
だが、何という浅間しさであろう。
これほどおびえた私であるのに、その後もやはり、自分の高買いの埋め合わせをつけて、祖母の機嫌を取るために、幾度か私はこれを繰り返した。
次第に図々しくなって行く自分の心に恐れを懐きながら……。
「あの時もしあれが発覚したら……」と私は今でも時々そのことを思い出してはぞっとする。
けれど不思議に私は、そうした時の結果の恐ろしさを考えるだけで、私自身たいしてわるいことをしたとは思わない。
私は、私がああいうことをしたのは、それをするようにさせられただけで、私自身にさほどの責任が課せられるべきでないと今でも思っているのだ。
むしろ私は、私にああした汚点を浸み込ませたのだ――と思うところの、――私の祖母のけちと因業とに無限の憤りを感ぜずにはいられないのだ。
その十九
朝鮮における私の生活記録が余りにも長すぎはしなかったかと思う。
けれど私は、私としてはせめてこれくらいのことは書かないではいられなかったのだ。
と私というものが、朝鮮にいた足掛け七年の間に、どうしてこうもいじけたひねくれものになったかという理由を解ってもらうためにだけでも……。
とはいえ、今や私は、私の地獄であった叔母の家に別れを告げる時が来た。
私を苛め、さいなみ、あらゆる自由と独立とを私から奪い、私のよいところを片っ端から打ち壊し、私の成長を阻み、私を撓じ曲げ、歪め、ひねくれさせ、そしてしまいにはとうとう、盗みをするような女にまでも私をしたところの私の祖母たちの手からも遁れられる時が……。
十六の春が私に訪れた頃であった。
ある日祖母は、私を彼女の部屋に呼んでこう言うのであった。