死刑囚の思ひ出 現代文訳

はしがき

本書に収められている文章は、古田大次郎が残した原稿をまとめたものである。

古田については、すでにいくつかの文章が世に出ており、その思想や行動についてもさまざまな評価がなされている。しかし、彼自身が自分の過去を振り返って書いた文章には、第三者によって語られた古田とは違う、一人の人間としての姿が残されている。

古田を単に一つの事件の犯人として見るだけでは、彼という人間を理解することはできない。なぜ彼が社会運動に入り、なぜそれまでの生活を捨て、しだいに過激な方向へ進んでいったのか。それを知るためにも、本人の言葉を残しておく意味がある。

もちろん、この文章に書かれていることが、すべて客観的な事実だというわけではない。これはあくまで古田自身の記憶であり、自分自身についての考えである。

しかし、それだからこそ価値がある。

一人の青年が、自分の生涯をどのように見ていたのか。

その記録として、できる限り原文を尊重して収録することにした。

覚え書

私は、自分の一生について書こうと思う。

もっとも、私の人生など、それほど長いものではない。

大した経験をした人間でもなければ、世間に誇るような立派な経歴があるわけでもない。

ただ、自分がこれまでどんな道を歩き、何を考え、どのようにして現在の自分になったのか、それを書き残してみたいと思った。

人間が過去を振り返るとき、どうしても現在の自分の考えが入り込む。子どものころには何とも思わなかった出来事でも、今になって考えると、それが自分の性格や思想に大きな影響を与えていたことに気づく場合がある。

だから私は、自分を美化するつもりもなければ、必要以上に悪く書くつもりもない。

できるだけ、自分が覚えているままを書いていこうと思う。

一 生い立ち

私は、ごく普通の家庭に生まれた。

父は軍関係の仕事をしており、家庭にはどこか役人の家らしい堅苦しさがあった。私は兄弟の中の次男として育った。

子どものころの私は、特別に変わった子どもだったとは思わない。

しかし、今から考えてみると、かなり頑固なところがあった。

自分が納得できないことを、人から命令されたというだけで素直に受け入れることができなかった。

大人が、

「子どもなのだから黙って言うことを聞け」

という態度を取ると、かえって反抗したくなった。

学校へ行くようになってからも、それは変わらなかった。

当時の学校では、教師の権威は非常に強かった。特に軍隊的な規律を当然のように押しつける教師に対して、私は強い反感を持った。

もちろん、そのころの私は社会主義も無政府主義も知らない。

政治思想など何も知らなかった。

ただ、

「どうして偉い人の言うことには無条件で従わなければならないのか」

という疑問だけは、子どもながらに持っていた。

先生だから正しい。

父親だから正しい。

軍人だから偉い。

そういう考え方が、どうにも気に入らなかった。

私は決して勉強熱心な少年ではなかった。

むしろ、学校で教えられることより、自分の頭の中でさまざまなことを考えている時間のほうが好きだった。

人と一緒に騒ぐこともあったが、一人でいることも多かった。

後になって振り返れば、このころから私は、人の集団の中に入りながら、完全にはその集団になじめない性格だったのだと思う。

二 中学生時代

私は麻布中学校へ入った。

しかし、中学に入ったからといって、急に勉強好きになったわけではない。

むしろ、それまで以上に勉強を怠けるようになった。

学校の成績や将来の出世というものに、どうしても強い関心を持つことができなかった。

周囲の生徒たちは、上級学校へ進み、立派な職業につくことを当然の目標としていた。

しかし私には、

「その先に何があるのだろう」

という気持ちがあった。

良い学校を出て、良い会社や役所に入り、給料をもらい、結婚して家庭を持つ。

世間では、それを成功した人生という。

けれども私は、それだけで人間は満足できるのだろうかと思った。

もっとも、このころの私は、そうした疑問に答えを出せるほど成熟してはいなかった。

ただ漠然と不満を抱いていたにすぎない。

中学時代の私は、かなり孤独だった。

友人がまったくいなかったわけではない。

しかし、大勢の人間の中にいても、どこか自分だけが離れているような感覚があった。

人と付き合いたい気持ちと、一人でいたい気持ちが、自分の中でいつもぶつかっていた。

私は本を読むようになった。

学校の教科書よりも、自分で選んだ本のほうがおもしろかった。

文学や思想に触れるにつれて、それまで言葉にできなかった社会への違和感が、少しずつ形を持ちはじめた。

やがて私は中学校を卒業し、早稲田へ進むことになる。

そこで私の人生は、それまでとはまったく違う方向へ動き始めた。

三 社会運動の半生

早稲田へ入ってから、私はさまざまな思想に触れるようになった。

その中でも私に大きな衝撃を与えたのが、社会主義に関する本だった。

それまで私が漠然と感じていた、

「なぜ世の中には、豊かな人間と貧しい人間がいるのか」

「なぜ働いている人間ほど苦しい生活をしているのか」

「なぜ一部の人間だけが権力を持っているのか」

という疑問について、そこには一つの説明があった。

私は夢中になった。

それまで自分の中にあった不満が、初めて社会というものと結びついたように感じた。

大学では雄弁会などにも関係し、やがて社会問題に関心を持つ学生たちと交わるようになった。

そのころ、高津正道をはじめとする学生たちが活動しており、私は堀江や高津らから勧められて民人同盟会に加わった。

そこで中名生幸力や和田らを知った。

最初のころは、学生が集まって社会問題を論じたり、講演会を開いたりすることだけでも新鮮だった。

自分たちは新しい時代を作っている。

そんな興奮もあった。

しかし、しばらくすると私は疑問を持つようになった。

議論はいくらでもできる。

演説もできる。

社会改革について立派な言葉を並べることもできる。

だが、それで実際の社会は何か変わったのか。

学生たちが教室や集会場の中で革命について語っていても、その外では労働者が毎日働き、小作人が苦しい生活を続けている。

私は次第に、言葉だけの社会運動に満足できなくなった。

民人同盟会の内部にも意見の違いが生まれた。

講演会などをきっかけに脱退者も増え、組織は小さくなっていった。

それでも高津や中名生らは活動を続け、別の形で実際の運動へ進んでいった。

私はそうした人々を見ながら、

「社会運動をするのなら、もっと現実の生活の中へ入っていかなければならない」

と考えるようになった。

四 建設者同盟

その後、私は建設者同盟に加わった。

建設者同盟には、単に学生だけで議論しているのではなく、労働者や民衆の中へ入って実際の社会運動を行おうという考えがあった。

私はそこに魅力を感じた。

社会について本を読み、講義を受け、演説をするだけでは足りない。

現実に苦しんでいる人間と一緒に生活しなければ、本当の社会問題など分からない。

私はそう考えていた。

しかし、活動を続けているうちに、ここでも私は疑問を持つようになった。

学生や知識人が労働者のところへ行き、

「あなたたちはこうするべきだ」

と教える。

そこには結局、教える側と教えられる側という関係ができてしまう。

民衆を解放すると言いながら、知識人が指導者になろうとしているのではないか。

私はそこに矛盾を感じた。

さらに、社会主義者の間でも意見はばらばらだった。

同じ社会改革を主張していても、方法論が違えば激しく対立する。

ある者は議会運動を重視し、ある者は労働組合を重視し、ある者は革命を主張する。

そして、それぞれが自分の思想だけを正しいものと考える。

私は、こうした思想上の争いそのものにも次第に嫌気がさした。

人間を自由にするための思想が、いつの間にか人間を一つの考えに縛りつけてしまう。

それでは意味がないのではないか。

こうした疑問から、私は建設者同盟からも離れていくことになる。

そして、より個人の自由を重視する思想へ関心を向けるようになった。

五 母の死

そのころ、母が病気になった。

社会運動に関わるようになってから、私は家にいる時間が少なくなっていた。

自分では大きな問題について考えているつもりだった。

社会をどうするか。

労働者をどうするか。

国家とは何か。

革命とは何か。

そんなことばかり考えていた。

しかし、母の病気を前にすると、そうした大きな言葉が急に遠いものに思えた。

母は私にとって、当たり前のようにそこにいる人だった。

その母がいなくなるかもしれない。

そう考えることは、私には耐えがたいことだった。

そして母は死んだ。

私は非常に寂しくなった。

それまでにも孤独を感じたことはあった。

だが母を失ったあとの孤独は、それまでとは違っていた。

もう二度と会うことができない。

どれほど後悔しても、何かをしてやることはできない。

死というものの前では、人間はどうすることもできない。

私はその事実を突きつけられた。

母の死後、私はむしろ社会運動へ自分を投げ込もうとした。

何かに夢中になっていれば、寂しさを忘れられると思ったからである。

しかし、この出来事は私の考え方を大きく変えた。

それ以前にも世の中を悲観的に見るところはあったが、母の死によって、人間の生命そのものについて考えるようになった。

どれほど努力しても人間は死ぬ。

愛する人も死ぬ。

自分自身もいつか死ぬ。

それなら、人間は何のために生きるのか。

社会が理想的なものになったとして、それで人間の苦しみはすべて消えるのか。

私は次第に、単純な社会改革論だけでは納得できなくなっていった。

六 小作人社時代

私は学生運動の世界から離れ、今度は農村へ目を向けた。

当時、農村では地主と小作人との関係が大きな社会問題になっていた。

土地を持たない農民は、地主から土地を借りて耕し、収穫の相当部分を小作料として納めなければならなかった。

都会の学生が農民問題について議論するだけでは意味がない。

実際に農村へ行き、小作人と一緒に生活しなければ何も分からない。

私はそう考えた。

長島新、渡辺善寿らとともに、私たちは小作人社を作った。

そして機関紙として『小作人』を発行することになり、私はその編集にも携わった。

私たちは特定の一つの思想だけに縛られるつもりはなかった。

無政府主義者であろうと、ボルシェビキであろうと、本当に小作人のために行動しようとする者なら一緒にやればいい。

少なくとも私は、そのように考えていた。

しかし、現実は簡単ではなかった。

農民には農民の生活がある。

都会からやって来た若者が、

「社会を変えよう」

と言ったところで、すぐについて来るわけではない。

農民にしてみれば、運動に加わったことで地主との関係が悪くなれば、明日の生活そのものが成り立たなくなる。

私たちが理屈で考えていた以上に、現実の生活は重かった。

警察の監視や干渉もあった。

運動内部にも意見の違いがあった。

資金もなかった。

理想だけでは人間は生活できない。

次第に小作人社の活動は行き詰まっていった。

私はここでも、自分が信じようとした運動と現実との間に、大きな距離があることを思い知らされた。

学生運動にも満足できなかった。

建設者同盟にも満足できなかった。

農村運動にも、自分が求めていた答えはなかった。

では、自分はいったい何をすればいいのか。

組織を作れば社会は変わるのか。

新聞を出せば人間は変わるのか。

演説をすれば革命が起きるのか。

私は次第に、そうした方法そのものを疑うようになった。

小作人社時代は、私にとって一つの大きな転換点だった。

それまで私は、どこかに正しい思想があり、正しい運動があり、それを見つけさえすれば人生の答えが得られると思っていた。

しかし現実には、どの思想にも矛盾があり、どの組織にも人間の弱さがあった。

そして私は、このころから以前とは違う方向へ歩き始めることになった。

七 叛逆者倶楽部

小作人社の仕事を続けていたころ、私は中浜哲と知り合った。

中浜は、私とはかなり性格の違う男だった。

私はどちらかといえば、物事を考えすぎるところがあった。行動する前にあれこれ考え、迷い、時には自分自身を疑った。

それに対して中浜には、非常に激しいところがあった。

自分が正しいと思えば、すぐに行動しようとする。

理屈よりも、まず実行だった。

だからこそ私は、彼に強くひかれたのだと思う。

私たちは何度も話し合った。

社会運動とは何なのか。

革命とは何なのか。

自分たちは何をするべきなのか。

それまで私は、学生運動や農民運動に参加してきた。

しかし、どれも自分の中では十分なものにならなかった。

声明を出す。

雑誌を発行する。

集会を開く。

演説する。

そうしたことを何度繰り返しても、国家という巨大なものは少しも揺らがない。

権力者は相変わらず権力者であり、貧しい者は相変わらず貧しいままだった。

それならば、もっと直接的な行動が必要なのではないか。

中浜との話は、次第にそこへ向かっていった。

当時の私たちは若かった。

若いということは、恐ろしいことである。

社会全体を相手にしているつもりでいながら、自分たち自身の力がどの程度のものなのかを正確に見ることができなかった。

しかし、そのころの私には、自分たちだけは本気で生きているという自負があった。

世間の多くの人間は、毎日働き、金を稼ぎ、家庭を持ち、それだけで人生を終える。

それが悪いとは言わない。

だが、私はそういう人生だけでは満足できなかった。

中浜も同じだった。

こうして私たちは、既成の社会運動とは違う形の集まりを作ることになった。

それが、のちに「叛逆者倶楽部」と呼ばれるようになる仲間たちだった。

そこには河合をはじめ、さまざまな人間が集まってきた。

性格も違えば、考え方も違う。

経歴も違った。

ただ一つ共通していたのは、現在の社会に対する強い反抗心だった。

私たちは、社会を批評しているだけの人間ではなく、自分自身を賭けて行動する者になろうとしていた。

しかし今になって考えると、その「行動する」という言葉の中には、すでに危険なものが含まれていた。

言葉では世の中が変わらない。

ならば行動する。

行動しても変わらない。

ならば、もっと激しい行動をする。

そうやって一歩ずつ進んでいけば、最後には暴力に行き着く。

当時の私は、そのことを十分に恐れてはいなかった。

八 三色の家

私たちはやがて、一つの家に集まって生活するようになった。

仲間たちの間では、その家を「三色の家」と呼んでいた。

その家には、いろいろな人間が出入りした。

金のある者などほとんどいなかった。

まともな職業についている者も少なかった。

それでも食べなければならない。

家賃も払わなければならない。

雑誌を出したり、活動をしたりするにも金が必要だった。

私たちの生活は、決して立派なものではなかった。

むしろ世間一般から見れば、だらしのない若者の共同生活に見えただろう。