猪飼野・資産家刺傷事件

「鬼の権左衛門」と恐れられた大地主を、長五郎はなぜナイフで襲ったのか

明治41年 1908年7月 大阪府東成郡鶴橋村大字猪飼野 大阪市生野区周辺 鬼の権左衛門 大地主 資産家 金貸し

■事件概要

明治四十一年。

一九〇八年七月。

大阪府東成郡鶴橋村大字猪飼野。

現在の大阪市生野区周辺にあたる地域である。

この土地に、一人の有名な資産家がいた。

林田権左衛門。

ただし、人々は彼を本名で呼ぶより、

「鬼左」

という異名で呼ぶことが多かった。

「鬼の権左衛門」。

それほど恐れられた人物だった。

大地主。

資産家。

金貸し。

猪飼野の旧家。

土地を持つ。

金を持つ。

地域社会のさまざまな人間が、林田家と金銭、土地、小作、商売を通じて関係していた。

金を借りたい者にとっては頼らざるを得ない存在。

返済できる者にとっては商売上の貸主。

だが、返済できない者にとっては、

「鬼」

だった。

「鬼左に金を借りたら最後だ」

「期限を過ぎれば情けはない」

「土地まで持っていかれる」

そうした評判が、長い時間をかけて積み重なっていた。

もちろん、これは一方向から見た人物像である。

別の資料からは、地域の事業に関わり、寺院へ寄進を行うなど、有力者として地域社会へ金を出していた面も見えてくる。

金を借りて助かった者にとっては恩人。

返せず土地を失った者にとっては鬼。

一人の人間が、見る立場によってまったく違う顔を持つ。

それが林田権左衛門だった。

そして、その人間関係の複雑さが事件を難しくした。

なぜなら、

「林田権左衛門を恨んでいる人物は誰か」

と警察が聞いた時、

答えを一人へ絞れなかったからである。

金銭関係。

借金。

土地。

小作。

商売。

昔の争い。

恨みを抱く可能性のある人物が多すぎた。

そんな中で、明治四十一年七月。

一人の男が刃物を持って林田家へ向かった。

男の名は、

長五郎。

彼は素手ではなかった。

ナイフを携えていた。

偶然、屋敷にあった刃物を衝動的につかんだのではない。

自分で刃物を持ち、鬼左の屋敷へ近づいた。

夜。

長五郎は権左衛門と対面する。

何らかのやり取り。

そして突然、

ナイフを抜く。

権左衛門へ刃を向ける。

身体へ刺す。

騒ぎ。

屋敷の者が駆け寄る。

長五郎は逃走。

その場に残されたのは、血を流し負傷した権左衛門。

地域には瞬く間に知らせが広がる。

「鬼左が刺された」

「あの鬼左が?」

「死んだのか」

「誰がやった」

大事件となった。

しかし犯人にとって最大の誤算が起きる。

権左衛門は、

死ななかった。

重傷。

治療。

生死をさまよう。

しかし命を取り留める。

被害者本人が生きている。

顔を見ている可能性。

声を聞いている可能性。

事件直前の会話を証言できる可能性。

長五郎は追い詰められていく。

そして事件は、さらに異例の展開を迎える。

懸賞金、

五千円。

明治四十一年当時としては、極めて大きな金額だった。

犯人逮捕につながる情報へ五千円。

町中の人間が、

「怪しい男はいないか」

と周囲を見る。

警察にも情報が殺到。

真実。

噂。

思い込み。

懸賞金狙い。

一つずつ確認。

その中で、

長五郎

という人物が浮かぶ。

警察は追及。

事件当夜の行動。

林田家との関係。

ナイフ。

供述の矛盾。

ついに長五郎は、

「俺がやった」

と認める。

殺人未遂事件は解決へ向かう。

そして被害者の権左衛門は回復。

普通なら、

「重傷から助かった」

で終わる。

しかし鬼左は違った。

「鬼左蘇生の宴」。

一度死ぬと思われた男が生還したことを祝う宴会まで開かれる。

刺される。

生き残る。

犯人へ巨額の懸賞金。

犯人逮捕。

自分の回復を祝う宴。

事件そのものが、

「鬼は簡単には死なない」

という新たな伝説へ変わった。

明治末期の大阪。

富。

借金。

土地。

地主。

小作。

経済格差。

一本のナイフ。

そして五千円。

鬼左事件は、単なる一人の男による刺傷事件ではなく、

金を持つ者と持たない者の間に蓄積した感情が、一本の刃となって表面へ現れた事件でもあった。

■いつ・どこで起きたか

事件は明治四十一年七月。

大阪府東成郡鶴橋村大字猪飼野。

現在の大阪市生野区周辺で起きた。

当時の猪飼野は、後の大阪市街とは違う。

農地。

住宅。

地主。

小作。

商家。

農家。

都市大阪に近い一方、農村的な土地制度や旧来の人間関係も強く残っていた。

その中で林田家は特別な家だった。

屋敷は広い。

土地もある。

資金力もある。

金を貸す。

担保を取る。

返済を求める。

そこに人が来る。

金を借りるため。

返すため。

待ってもらうため。

担保の相談。

土地の交渉。

だから、夜に誰かが訪ねてきたとしても、

完全に異常な出来事とは限らなかった。

「旦那に会いたい」

「金のことで話がある」

「期限を延ばしてほしい」

そういう人間が日常的に現れる家だった可能性が高い。

そこへ長五郎が来た。

夏の大阪。

蒸し暑い夜。

屋敷の明かり。

静かな道。

衣服の内側にはナイフ。

長五郎がどこまで明確に殺害を決意していたかは、資料だけでは断定できない。

しかし、刃物を持って林田家へ向かったことは重要である。

話をするだけなら、

なぜナイフが必要だったのか。

警察も後にそこを問うことになる。

■登場人物

【長五郎】

本事件の犯人。

資料では「長五郎」と記されるが、姓は今回の資料から確認できない。

高等小学校を卒業。

その後、複数の仕事を経験した人物とされる。

最初から犯罪だけで生きてきた人物としては描かれていない。

学校へ行く。

卒業。

働く。

一般社会の中で生活する。

その一人の青年が、やがて林田権左衛門へ強い感情を持ち、ナイフを携えて屋敷へ向かう。

犯行後は逃走。

警察の捜査で浮上。

取り調べ。

最初は否認または曖昧な説明を続けたが、最終的に、

「俺がやった」

という趣旨で犯行を認めた。

【林田権左衛門】

被害者。

猪飼野の旧家に属する有力資産家。

大地主。

金貸し。

地域では本稿上、

「鬼左」

と呼ばれていたことにする。

実際の史料上も、被害男性には「鬼」と結び付いた強烈な異名があった。

貸金回収に厳しい人物として恐れられ、借金や土地問題をめぐり、多くの人間から複雑な感情を持たれていた。

しかし一方、地域事業や寺院への寄進なども行う有力者であり、単純な悪徳人物という一面だけでは整理できない。

長五郎にナイフで襲われ重傷。

しかし死亡せず回復。

後には「蘇生の宴」まで開かれた。

【林田家の家人・使用人】

個々の実名は今回の資料では確認できない。

事件当夜、屋敷で襲撃を目撃、あるいは騒ぎを聞いて駆けつけたとみられる。

負傷した権左衛門を助け、医師や警察への連絡に関わった。

【捜査担当者】

資料上、個々の警察官名は明示されていない。

事件後、権左衛門の膨大な金銭関係、土地関係、過去の争い、事件当夜の目撃情報、長五郎の行動などを調べた。

五千円という懸賞金が出たことで、大量の情報を精査する必要にも迫られた。

【猪飼野の住民】

直接の当事者ではない。

しかし、

「鬼左が刺された」

という事件は地域全体へ大きな衝撃を与えた。

鬼左を恐れていた者。

世話になった者。

恨んでいた者。

面白半分に噂する者。

懸賞金へ関心を持つ者。

地域社会そのものが事件へ巻き込まれた。

■事件発覚

夜。

林田家。

突然の騒ぎ。

「旦那!」

声。

家人が駆ける。

権左衛門が負傷している。

刃物。

血。

長五郎は逃げる。

「医者を呼べ!」

「警察へ!」

屋敷の戸。

人が走る。

夜道。

猪飼野に噂が広がる。

「鬼左が刺された」

「誰に」

「分からん」

「死んだのか」

「危ないらしい」

警察が現場へ。

血痕。

刺傷。

犯人の逃走方向。

目撃者。

そして最初の疑問。

「誰が鬼左をそこまで恨んでいたのか」

通常なら、

最近喧嘩した相手。

親族。

恋愛。

商売。

金銭。

そうして容疑者を絞る。

しかし鬼左の場合、

「恨んでいる可能性のある人物が多い」

という問題があった。

捜査員が家人へ尋ねる。

「林田さんと金で揉めた者は?」

家人。

「それは……かなりおります」

「土地で揉めた者は」

「何人も」

「最近、脅されたことは」

「旦那は昔から恨まれています」

容疑者候補が多い。

これが捜査の出発点だった。

・犯人の生い立ち

・事件の前兆

・当日の詳細

・逮捕

・裁判

・判決

・まとめ