慈恵医大生殺し(銀めし)事件 敗戦翌年、北アルプスの山小屋で起きた強盗殺人
事件概要
昭和二十一年 一九四六年。
日本が太平洋戦争に敗れてから、まだ一年も経っていなかった。
東京には焼け跡が残っていた。
空襲は終わった。
B29はもう飛んでこない。
防空壕へ逃げ込む必要もない。
だが、人々の暮らしから戦争が消えたわけではなかった。
家を失った者。
家族を失った者。
戦地から戻ったものの、仕事のない復員兵。
海外から引き揚げてきた人々。
操業を停止した軍需工場。
そして、何より深刻だったのが食糧不足だった。
米がない。
肉がない。
砂糖がない。
配給だけでは腹を満たすことができない。
人々は衣服や家財を農村へ持っていき、米や芋と交換した。
身の回りの物を一つ、また一つと売って食料に換える。
いわゆる「タケノコ生活」である。
都市部では闇市が膨れ上がった。
正規の配給では手に入らない米。
煙草。
酒。
薬品。
衣類。
金さえ出せば手に入る。
だが、その金を持たない者も大勢いた。
そんな時代、白い米を炊いた飯は、
「銀めし」
と呼ばれた。
白く輝く米。
現在なら茶碗一杯の白飯を見ても、特別なぜいたくだとは思わない。
しかし昭和二十一年の日本では、白米を腹いっぱい食べられること自体が豊かさだった。
その「銀めし」が、二人の若者を犯罪へ向かわせる大きな要因の一つとなった。
昭和二十一年七月九日から十日にかけて。
長野県北部。
北アルプスの烏帽子岳方面。
山中にあった「濁小屋」。
そこに東京慈恵会医科大学の学生四人が宿泊していた。
その中には、
原震治、二十五歳。
助川佐、二十二歳。
がいた。
医学を学ぶ若者たちだった。
学生たちは北アルプスを縦走するため、山へ入っていた。
当然、リュックには何日分もの食料が入っていた。
米。
その他の食べ物。
現金。
衣類。
登山用品。
当時、それだけの食料を持って山を歩いているということは、現在とはまったく違う意味を持っていた。
そこへ二人の若い男が現れる。
香川義春。
斉藤和一。
香川は造船工員。
斉藤は無職と記録されている。
二人も当初は山へ入るつもりで来た若者だった。
だが、まともな登山を続けられるだけの食料も金も装備も持っていなかった。
二人は腹を空かせていた。
途中では農作物や芋などで飢えをしのいでいた。
そこへ現れたのが、食料を大量に背負った四人の医学生だった。
香川と斉藤の目には、学生たちのリュックが単なる登山装備には見えなかったのだろう。
食料。
米。
金。
衣類。
奪えば、自分たちのものになる。
二人の思考はそこから犯罪へ傾いていく。
そして重要なのは、事件がその場の突発的な喧嘩ではなかったことだ。
二人は一度学生たちのもとを離れている。
近くの営林関係のセメント小屋へ行き、襲撃に使う棒状の凶器を準備したとされる。
その時間、二人には考え直す機会があった。
やめることができた。
山を下りることもできた。
学生たちに食べ物を分けてくれと頼むこともできた。
しかし二人は凶器を持って濁小屋へ戻った。
そして四人の学生が眠るのを待った。
七月十日午前零時ごろ。
小屋の中は暗い。
外には山と森しかない。
街灯もない。
助けを求めても、すぐ近くに人家があるわけではない。
眠っている学生たちに棒状の凶器が振り下ろされた。
一人。
さらに一人。
何が起きているのか理解する前に、頭部などへ激しい打撃が加えられた。
原震治は死亡。
助川佐も死亡。
残った二人の学生も重傷を負った。
香川と斉藤は、学生たちが持っていた食料、現金、衣類などを奪い、小屋から逃げた。
犯行は成功したように見えた。
だが、二人にとって決定的な誤算があった。
学生二人が生きていた。
重傷を負いながら、そのうちの一人は助けを求め、事件を外部へ知らせた。
警察が動く。
そして山へ向かう警察官と、山から逃げる香川・斉藤が偶然同じ山道で出会う。
職務質問。
荷物を確認する。
学生たちから奪ったとみられる品物が出てくる。
事件からそれほど時間が経たないうちに、二人は検挙された。
その後、裁判は驚くほど速く進む。
昭和二十一年十一月二十八日。
長野地方裁判所。
判決は、
香川義春、死刑。
斉藤和一、死刑。
二人は控訴した。
翌昭和二十二年八月十一日。
東京高等裁判所。
再び、
死刑。
そして死刑が確定。
昭和二十三年七月十三日。
資料によれば、二人の死刑は執行された。
事件から約二年。
四人の若者を襲い、二人の命を奪った二人の若者もまた、刑事司法によって生命を失った。
これが、敗戦直後の犯罪史に、
「慈恵医大生殺し(銀めし)事件」
として残された事件である。
いつ・どこで起きたか
事件が起きたのは、
昭和二十一年七月九日深夜から七月十日未明。
一九四六年。
場所は長野県北部、北アルプスの山中。
烏帽子岳への登山口に近い、
濁小屋
だった。
現在であれば北アルプス登山には整備された登山道がある。
山小屋もある。
気象情報も確認できる。
携帯電話がつながる場所もある。
位置情報も使える。
しかし昭和二十一年はまったく違った。
山深く入れば、人間社会から切り離される。
電気も十分ではない。
電話もない。
夜は完全な闇になる。
雨。
川の流れ。
風。
森の音。
それだけである。
濁小屋も、現在の設備の整った山荘のような建物ではなかった。
木造の簡素な小屋。
登山者や山仕事をする人間が利用する程度の建物だった。
事件前日の七月九日は雨だった。
東京慈恵会医科大学の学生四人は雨の中を進み、午後になって濁小屋へ到着した。
荷物を下ろす。
濡れた衣類を整える。
食料を確認する。
翌日の登山ルートについて話したかもしれない。
再現会話なら、
「明日は天気、少し回復するかな」
「雨が止めば早めに出よう」
「食料は足りるだろ」
「米はまだ十分ある」
そんな学生らしいやり取りがあったとしても不思議ではない。
彼らにとって七月九日の夜は、
これから始まる登山旅行の最初の夜
だった。
誰一人として、
「今夜、自分は殺される」
などとは考えていなかった。
・事件発覚
・犯人の生い立ち
・事件の前兆
・事件当日の詳細
・捜査
・逮捕
・裁判
・まとめ