梼原村の素封家殺し事件

一枚の十円札から始まり、二発の銃声と死刑判決で終わった事件

事件概要

大正四年の暮れ。

高知県高岡郡梼原村。

現在の高知県高岡郡梼原町にあたる山間の村で、一人の女中が主人から年末賞与を受け取った。

女中の名は、輝。

彼女が奉公していたのは、村内でも資産家として知られていた中川政二郎の家だった。

土地の者たちは、中川政二郎を「政二郎旦那」と呼んでいた。

いわゆる素封家である。

現在でいう巨大企業の経営者や大財閥の当主という意味ではない。しかし村の中では相当に裕福な人物であり、土地や財産を持ち、日常的に多額の現金を扱う立場にあった。

その年の暮れ、政二郎は一年働いた輝へ褒美を渡した。

十円札だった。

現在の十円とは比較にならない。

しかも昔の事件史によれば、その十円札は当時まだ珍しい紙幣だった。

輝はそれを兄へ見せた。

兄は川村定吉。

木挽職をしていた男である。

定吉は政二郎から板の木挽きを請け負うこともあった。

つまり定吉は、被害者とは無縁の流れ者ではなかった。

仕事上の関係があった。

さらに妹が政二郎宅で働いていた。

だからこそ、政二郎の暮らしについて、普通の村人より詳しく知ることのできる位置にいた。

妹の手にある新しい十円札を見た定吉は尋ねた。

「政二郎旦那は金を沢山持っているのか」

輝は、何気なく答えた。

政二郎は、いつも五百円から六百円ほどの現金を肌身につけている――。

その言葉が定吉の頭から離れなくなった。

五百円。

六百円。

当時としては大金だった。

やがて定吉の中に、ある考えが生まれる。

盗もう。

しかし、単純に盗みに入れば見つかる。

政二郎は自分の顔を知っている。

捕まる。

ならば――。

殺して奪えばいい。

一枚の十円札を見たことから生まれた欲望は、数か月のうちに殺人計画へ成長した。

しかも定吉は、一人で計画を抱えていたのではない。

妻の夏江へ打ち明けた。

夏江は二十歳だった。

定吉が妻へ持ち掛けたのは、単なる窃盗ではない。

「政二郎を殺して金を奪う」

という計画だった。

昔の事件史によれば、夏江はこれに同意した。

夫が殺す。

妻が見張る。

夫婦二人による計画的な強盗殺人が、ここで具体化した。

そして大正五年四月九日。

夫婦は計画を実行した。

定吉は仕事の話を口実に政二郎を山中へ誘い出した。

政二郎は、自分が仕事を頼んでいる木挽職人から呼び出されただけだと思っていた。

疑う理由はなかった。

午前七時ごろ。

現場へ現れた政二郎を、定吉は村田銃で襲った。

一発。

さらに一発。

銃弾は政二郎の頭部を撃ち抜いた。

政二郎は即死した。

定吉夫婦は、倒れた政二郎から胴巻きを奪った。

だが、そこに入っていた金は、期待していた五百円でも六百円でもなかった。

百二円余りだった。

それでも殺人は取り消せない。

夫婦は遺体を犯行現場から約八キロ離れた山中へ運び、密林の中へ埋めた。

金は床下へ。

銃は別の場所へ。

財布は雑木林へ。

証拠を分散させた。

そして定吉は、驚くべきことに、行方不明になった政二郎を探す村人たちの捜索にも参加した。

だが、その態度があまりに不自然だった。

村人の中から、

「あれは定吉ではないか」

という疑いが生まれた。

警察も定吉夫婦へ目を向ける。

しかし二人は否認した。

何を聞かれても知らない。

やっていない。

関係ない。

一度は決め手を欠き、帰宅させざるを得なかった。

そこへ投入されたのが、須崎署の専任刑事・村木伝吾巡査だった。

村木は夫ではなく、妻の夏江から崩す。

深夜。

区長宅の奥座敷。

周囲の捜査員が眠ってしまった中、村木と夏江だけが残った。

そして村木は言った。

「君、両眼を閉じてみたまえ」

夏江は目を閉じた。

しかし一分と耐えることができなかった。

夫が政二郎を撃った瞬間。

銃。

死体。

山。

埋めた遺体。

自分だけが知る光景。

目を閉じた瞬間、その記憶から逃げられなくなった。

ついに夏江は泣き崩れ、事件の全貌を語った。

その供述に基づいて捜索すると、床下から現金、山野から銃、雑木林から財布が次々と発見された。

物証が揃った。

最後まで否認していた定吉も、ついに犯行を認めた。

裁判の結果、川村定吉には死刑判決が下された。

十円札から始まった欲望は、最後には一人の人間の命を奪い、自らも死刑判決へたどり着くことになったのである。

いつ・どこで起きたか

事件が起きたのは、

大正五年四月九日。

西暦一九一六年である。

舞台は高知県高岡郡梼原村。

現在の梼原町にあたる。

四国山地の山々に囲まれた土地であり、現在でも森林の多い地域である。

まして大正時代である。

現在のような舗装道路はない。

自動車が自由に走り回る時代でもない。

深い山。

林。

谷。

細い道。

集落。

人々はそうした地形の中で暮らしていた。

山林の多い土地だけに、木材は重要な産業だった。

木を伐り出し、製材し、板へ加工する。

その仕事に従事する木挽職人もいた。

川村定吉も、その一人である。

木挽とは、大きな鋸などを使って丸太を板材などへ加工する職人だった。

中川政二郎は、そうした職人へ仕事を頼む側だった。

資産家であり、周囲からは、

「政二郎旦那」

と呼ばれていた。

定吉は、その政二郎から木挽き仕事を請け負っていた。

だから、

「板が出来上がったので見に来てください」

と言えば不自然ではない。

これが事件の重要なところだった。

犯人と被害者は見知らぬ人間ではない。

仕事を頼む側。

仕事を請け負う側。

信頼関係があった。

政二郎が定吉に呼ばれて山へ向かったのは、定吉を信用していたからである。

そして、その信用こそが、犯人にとって最も強力な凶器になった。

・事件発覚まで
・犯人の生い立ち
・事件の前兆
・事件当日の詳細
・捜査
・逮捕
・裁判
・まとめ