下関通り魔殺人事件
上部康明 挫折と被害者意識の果てに起きた無差別殺傷
■事件概要
1999年9月29日午後4時25分ごろ。
山口県下関市の下関駅周辺で、一人の男がレンタカーを運転し、駅前の歩道へ突入した。
男の名は、上部康明。
当時35歳。
かつて九州大学工学部建築学科を卒業し、一級建築士の資格を取得して設計事務所を開いたこともある人物だった。
だが、その人生は長く安定しなかった。
大学時代から人の視線や対人関係に強い苦痛を感じ、卒業後は就職できずに実家へ戻った。治療を受け、一時は建築設計の仕事に適応した。結婚し、独立し、自分の事務所を持った。しかし仕事上の人間関係の破綻から取引を失い、収入は減少した。妻との関係も壊れ、やがて事実上の離婚状態となった。
それでも上部には、最後の支えが残っていた。
軽貨物運送の仕事である。
営業や複雑な人間関係を避け、一人で車を走らせて荷物を運ぶ仕事は、対人関係に苦しんできた上部に比較的合っていた。彼は配送の仕事で金を貯め、いつかニュージーランドへ移住し、人生をやり直そうと考えていた。
しかし1999年9月24日、台風18号による高潮で仕事用の軽貨物車が海水に浸かった。
車は故障した。
修理は困難と告げられた。
車両保険には加入しておらず、約130万円のローンが残った。
上部は両親に金銭的援助を求めたが、父はそれを拒み、実家の車を使って運送業を続け、自分でローンを返すよう求めた。
ここで上部は、自分の人生が行き詰まった原因を、自分だけの問題として受け止めることをやめた。
両親が悪い。
妻が去ったのも両親のせいだ。
台風で車を失ったのに政府は助けてくれない。
運送会社も助けてくれない。
世間は自分を冷遇してきた。
自分だけが貧乏くじを引かされている。
その不満は、自殺願望と結びつき、さらに「自分一人で死ぬだけでは足りない」という身勝手な発想へ変わった。
誰でもいいから巻き込む。
できるだけ多くの人間を殺す。
そうすれば両親にも社会にも、自分の怒りを思い知らせることができる。
裁判所が認定した犯行計画は、突発的なものではなかった。
上部は下関駅を下見した。
駅東口のガラスドアの幅を確認した。
自動車が構内へ侵入できるか確かめた。
凶器となる刃体約18センチの包丁を購入した。
大量殺傷に向いた車種まで考えてレンタカーを借りた。
人が多く、なおかつ車が渋滞しすぎない時間帯を選んだ。
犯行直前には睡眠薬120錠を服用した。
そして9月29日午後4時25分ごろ、上部はレンタカーを駅前歩道へ乗り上げた。
車は通行人を次々とはね、下関駅東口のガラスドアを突破してコンコースへ進入した。
車が使えなくなると、上部は車内から包丁を取り出した。
改札へ向かった。
階段へ向かった。
そして6番・7番ホームへ上がり、そこにいた人々を次々と切りつけ、刺した。
犠牲者たちは、上部と面識のない人々だった。
上部の仕事の失敗とは無関係だった。
妻との別離とも無関係だった。
両親との確執とも、台風とも、借金とも、ニュージーランド移住の夢とも、何の関係もなかった。
ただ、その日の夕方、下関駅を利用していた。
それだけだった。
最終的に5人が死亡し、10人が重軽傷を負った。
上部は現場で取り押さえられ、警察官に現行犯逮捕された。
のちに殺人、殺人未遂、銃刀法違反の罪に問われ、刑事裁判では犯行そのものとともに、上部に完全な刑事責任能力があったのかが大きく争われた。
第一審の山口地方裁判所下関支部は、上部が犯行方法を具体的に考え、現場を下見し、凶器を購入し、車種と時間帯まで選択して実行したことなどから、犯行時に行為の意味を理解する能力を失っていたとは認めなかった。
2002年9月20日。
裁判所は死刑を言い渡した。
その後も責任能力を中心に争いは続いたが、最高裁は2008年7月11日に上告を棄却。
同年8月27日、死刑が確定した。
2012年3月29日。
広島拘置所で、上部康明の死刑が執行された。
48歳だった。
だが、刑が執行されたことによって事件が消えるわけではない。
駅で命を奪われた5人は戻らない。
傷を負った10人の身体と記憶が、判決によって事件前の状態に戻ることもない。
下関通り魔殺人事件は、一人の人間が自分の失敗と苦痛を周囲への憎しみにすり替え、その憎しみを何の関係もない人々へ向けた事件だった。
■いつ・どこで起きたか
事件が起きたのは、1999年9月29日。
平成11年の秋だった。
主な犯行開始時刻は午後4時25分ごろ。
場所は山口県下関市の下関駅と、その東口周辺である。
上部はまず駅東口に近い歩道へレンタカーで進入し、通行人を次々とはねた。
そのまま車を駅東口方向へ走らせ、ガラスドアを突破してコンコースへ侵入した。
コンコースでも複数の人を車ではね、ある被害者を車体の下に巻き込みながら進んだ。
そして車がそれ以上使えなくなると、上部は包丁を持って降車した。
改札を通り、6番・7番線ホームへ通じる階段へ向かう。
階段上で人を切りつけ、ホームへ上がってからも、ベンチに座っていた人、歩いていた人、家族と一緒にいた人を次々と襲った。
事件は「駅前の車両暴走」と「駅構内・ホームでの刃物による殺傷」という二段階で進行した。
車だけではなかった。
包丁だけでもなかった。
上部は最初から、自動車が使えなくなれば包丁に切り替えることを考えていた。
そこに、この事件の計画性が表れている。
事件当日の下関駅は、もちろん戦場ではなかった。
人々が帰宅し、買い物をし、列車を待ち、家族と移動する普通の場所だった。
午後4時台という時間も、特別な時間ではない。
夕方の駅。
一日の用事を終えた人が帰り始める時間。
学生が帰る時間。
高齢者が病院や買い物から戻る時間。
家族が列車を待つ時間。
その日常へ、一台の車が突っ込んだ。
■事件発覚まで
下関駅で事件が起きる数日前まで、上部康明は、少なくとも外形上は仕事を続けていた。
軽貨物運送。
荷物を受け取る。
届ける。
車を走らせる。
帰宅する。
事件の後から見れば、その日常のすぐ裏側で大量殺人の計画が組み立てられていたことになる。
だが、駅を利用する人々がそれを知ることはできなかった。
9月24日、台風18号が下関を通過した。
高潮の中、上部は仕事のため軽貨物車で配送ターミナルへ向かおうとした。
その途中で車が海水に浸かった。
動かない。
上部は修理工場に連絡し、代車を借りて、その日の配送を続けた。
ここだけを切り取れば、仕事上の災難だった。
車が壊れた。
保険に入っていなかった。
ローンが残った。
決して小さな問題ではない。
だが、通常ならば家族や金融、保険、仕事の再設計など、現実的な方法を探すべき問題でもある。
上部は違った方向へ進んだ。
9月27日。
修理工場から、仕事用車両の故障が深刻で修理不能と告げられた。
修理工場の担当者が、車の状態を説明する。
「かなりひどい状態です」
上部は聞く。
「直せないんですか」
「修理は難しいです」
その答えを聞いた瞬間、上部の頭には約130万円のローンが浮かんだ。
車両保険はない。
新しい車を買えば金が必要になる。
ニュージーランドへ行くために貯めたい金が消える。
妻と再会できるかもしれないという希望も遠のく。
上部はその夜、両親へ金の相談をした。
だが父は援助を拒否した。
上部が言う。
「ローンがまだ残っている。金を何とかしてほしい」
父は応じない。
「実家の車を使えば仕事は続けられる。自分で働いて返しなさい」
上部には、それが現実的な助言とは聞こえなかった。
また拒絶された。
また自分だけが助けてもらえない。
そう受け止めた。
そして、過去の不満が一つにつながり始める。
医者になれなかった。
大学へ行っても友人ができなかった。
就職が続かなかった。
自分の事務所も失敗した。
妻は去った。
両親は妻との同居を認めなかった。
離婚にも反対した。
今度は車まで失った。
金も貸してくれない。
上部の中で、「自分の選択や行動の積み重ね」という視点が薄れ、「自分は周囲によってこんな人生にされた」という考えが強くなった。
その夜、上部は自殺を考えた。
しかし、それで終わらなかった。
自分だけが死ぬのでは社会へ何も返せない。
誰かを巻き込む。
大量に殺す。
両親に衝撃を与える。
世間にもダメージを与える。
それから自分も死ぬ。
思考はそこまで進んだ。
犯行予定日は10月3日の日曜日。
人出が多いと考えたからだった。
そして9月28日。
上部は仕事を続ける一方で、犯行のための準備を始めた。
銀行から金を引き出す。
包丁を買う。
下関駅を下見する。
車で駅へ突入できる場所を確認する。
駅東口の両開きガラスドアを見る。
車幅と扉の幅を比較する。
構内を歩く。
平日だったため、駅は思ったほど混雑していなかった。
上部は、日曜日ならもっと人がいると考えた。
自動車で駅構内まで入れば、複数の人間を殺せる。
車が止まったら、降りて包丁を使う。
改札を越え、ホームへ行けば、さらに人を襲える。
これは怒りに任せた数秒間の暴発ではなかった。
駅を実際に歩き、侵入できる場所と扉の幅を確かめている。
上部は帰宅後、カレンダーの10月3日の欄に「スクランブルアウト」と書いた。
最後は死に、人生の舞台から退場する。
そのような意味を込めた言葉だったと裁判資料は認定している。
この時点で、下関駅を利用する人々は何も知らなかった。
翌日の夕方、自分たちのいる場所が大量殺傷の現場になるとは誰も知らない。
駅員も知らない。
通勤客も知らない。
学生も知らない。
病院から帰る高齢者も知らない。
母娘も知らない。
事件は、まだ「発覚」していなかった。
しかし、犯人の頭の中ではすでに経路が引かれ、道具が用意され、場所が選ばれていた。
・犯人の生い立ち
・事件の前兆・当日の詳細
・逮捕
・裁判
・判決
・まとめ