会津若松母親殺害事件
17歳の高校生は、なぜ母親を殺害し、その頭部を警察署へ持参したのか

■事件概要

 2007年5月15日午前7時ごろ。

 福島県会津若松市の会津若松警察署へ、一人の高校生が現れた。

 17歳。

 県立高校3年生。

 氏名は、栗田恭平。

 彼は警察官の前で、異様なほど重大な言葉を口にした。

「母親を殺害しました」

 さらに、持っていた黒い布製のショルダーバッグを示し、

「首を持ってきた」

 と告げたと報じられている。

 そのバッグは、少年が普段学校へ通うときに使っていたものだった。

 そして中には、母親である47歳の保育士・はるみさんの切断された頭部が入っていた。

 一部資料では、バッグを開いた際に対応した女性警察官が強い衝撃を受け、医務室へ運ばれたとも伝えられている。

 警察官が少年の暮らす会津若松市内のアパートへ向かうと、室内には頭部を失った女性の遺体が残されていた。

 右腕も肩付近から切断されていた。

 さらに、その右腕には白いスプレー式塗料が吹きつけられ、室内の植木鉢へ差し込まれていた。

 遺体の近くには、血の付着した包丁とのこぎり。

 首や頭部には複数の刺し傷。

 手には、襲撃から身を守ろうとした際にできたとみられる傷があった。

 司法解剖などから、はるみさんの死因は頸動脈を切断されたことによる失血死とされた。

 犯行時刻は同日午前1時30分ごろ。

 少年自身も、

「寝ているところを包丁で刺して殺した」

「首はのこぎりで切断した」

 という趣旨の供述をしている。

 殺害後、少年は首だけではなく、右腕も切断した。

 左腕についても切断しようとしたが、途中で断念したとされる。

 さらに右腕を白く塗り、植木鉢へ差した。

 その理由について、確定できる説明は資料には残されていない。

 なぜ、そのような行動を取ったのか。

 なぜ母親を殺したのか。

 なぜ遺体を切断したのか。

 なぜ頭部を警察署へ運んだのか。

 この事件は、犯行の事実そのもの以上に、「動機の分かりにくさ」が長く残る事件となった。

 少年は頭部を持参した理由について、

「どうせ捕まると思った。証拠として頭を持って行った」

 と供述したと報じられている。

 さらに動機については、

「誰でもいいから殺そうと考えていた」

「戦争やテロが起きないかなと思っていた」

 などと話したとされる。

 別の報道では表現が異なり、戦争やテロについて少年が何を意味していたのかは一貫していない。

 重要なのは、少年が「母親への明確な怨恨」を単純な形で語った事件ではなかったことである。

 母親を強く憎み、口論の末に衝動的に殺した。

 そのような理解しやすい構図ではなかった。

 少年は中学時代までは、周囲から「真面目な優等生」と見られていた。

 勉強に熱心だった。

 地元でも上位とされる進学校へ合格した。

 ところが高校へ進学すると、人間関係にうまく溶け込めず、次第に孤立していった。

 高校2年の秋ごろから欠席が増え、高校3年になると登校したのはわずか数日。

 事件直前の5月1日には体調不良を訴えて病院を受診し、「精神的に不安定な状態」とみられていた。

 医師は周囲に、

「精神的に不安定なので、登校を強く促さないように」

 と伝えたとされる。

 事件の数日前には、会津若松市内のホームセンターでのこぎりを購入していた。

 そして5月15日未明。

 母親を殺害。

 遺体を切断。

 頭部を通学用バッグに入れる。

 アパートを出る。

 カラオケ店やインターネットカフェへ立ち寄る。

 午前6時20分ごろに携帯電話でタクシーを予約。

 午前6時50分ごろ乗車。

 午前7時ごろ会津若松警察署へ到着。

 自首。

 午前9時40分ごろ、殺人容疑で緊急逮捕。

 翌5月16日、殺人と死体損壊の疑いで送検された。

 その後の最大の争点は、少年の精神状態だった。

 検察側の精神鑑定は、軽度の障害はあるものの刑事責任能力に問題はないという結論。

 ところが家庭裁判所が実施した2回目の鑑定では、明らかな精神障害があり、刑事責任能力はないという大きく異なる判断が出た。

 しかし最終的な福島家庭裁判所会津若松支部の決定は、どちらか一方をそのまま採用したものではなかった。

 2008年2月26日。

 増永謙一郎裁判長は、少年に完全な責任能力を認める一方、

「比較的軽度なある種の精神障害があり、障害抜きに非行は生じなかった」

 という趣旨の判断を示した。

 そして、刑罰による応報よりも治療と教育を優先する必要があるとして、医療少年院送致という保護処分を決定した。

 事件から15年以上が経過した2022年には、この事件の少年審判記録がすでに廃棄されていたことも明らかになった。

 重大な少年事件。

 二度の精神鑑定。

 異なる責任能力判断。

 特殊な審判経過。

 それにもかかわらず、資料は永久に保存されなかった。

 事件は、犯行そのものだけでなく、少年司法、精神鑑定、記録保存という別の問題まで残すことになった。

■いつ・どこで起きたか

 事件が起きたのは、2007年5月15日未明。

 主な犯行時刻は午前1時30分ごろとされる。

 場所は福島県会津若松市内のアパート。

 栗田恭平は、実家のある福島県大沼郡金山町から約60キロ離れた会津若松市の高校へ通うため、アパートで生活していた。

 資料によれば、弟の一人も同じアパートで暮らしていた。

 犯行時、弟は別の部屋におり、事件に気づかなかったとされる。

 母・はるみさんは、金山町側で保育士として働いていた。

 事件前日の5月14日。

 午後6時過ぎに仕事を終えた後、息子たちが暮らす会津若松市のアパートへ来て、その夜はそこに泊まった。

 日付が変わる。

 5月15日。

 この日は、はるみさんの47歳の誕生日だった。

 その誕生日を迎えて間もない午前1時30分ごろ、眠っている母親を少年が襲った。

 犯行現場となったのは、特別な廃墟でも、人気のない山中でもない。

 高校生の兄弟が生活するために借りられていたアパートの一室だった。

 そこで母親が眠っていた。

 同じ建物の中には弟もいた。

 家族の生活空間そのものが殺害現場となった。

 そして事件が社会に発覚した場所は、会津若松警察署だった。

 午前7時ごろ。

 犯行から約5時間半後。

 少年自身が、母親の頭部をバッグに入れて警察署へ現れたことで、事件は一気に表面化した。

■事件発覚まで

 事件の発覚は、警察への通報ではなかった。

 近隣住民が悲鳴を聞いて110番したわけでもない。

 弟が部屋へ入って母親の遺体を発見したわけでもない。

 犯人自身が、切断された頭部を持って警察署へ行った。

 そこから事件は始まったように見えた。

 しかし、実際の始まりはもっと前にある。

 中学生だった少年の内側に、すでに「殺人」という危険な空想が生じていたと家庭裁判所は後に認定している。

 高校へ進学すると、少年を取り巻く生活は大きく変わった。

 実家から学校までは約60キロ。

 毎日通うには遠い。

 そのため、少年は会津若松市内で生活することになった。

 家族と暮らしてきた山間部の町から離れる。

 新しい学校。

 新しいクラス。

 新しい人間関係。

 そこで少年は、周囲へうまく入っていけなかった。

 同級生から見れば、

「ちょっと静かな子」

 だった。

 暴力を振るって回る生徒ではない。

 学校中で知られた問題児でもない。

 むしろ目立たない。

 静か。

 一人でいる。

 そのまま、少しずつ学校へ行かなくなっていった。

 高校2年の9月ごろ。

 風邪。

 頭痛。

 体調不良。

 そうした理由で欠席が増えた。

 高校3年になると、さらに悪化。

 新学期になってから登校したのはわずか5日程度。

 4月中旬以降は、ほとんど姿を見せなかった。

 4月27日。

 学校関係者がアパートを訪れた。

 直接会って話をしようとした。

 しかし少年は不在だった。

 学校側は精神的な不安定さを把握していた。

 ただし、「人を殺す」「母親を殺す」といった重大事件を予告する言動は確認されていなかったという。

 5月1日。

 少年は体調不良を訴え、会津若松市内の病院を受診した。

 そこで精神的に不安定な状態にあると判断された。

 医師は周囲に、

「精神的に不安定なので、登校を強く促さないように」

 と伝えたとされる。

 異変には気づかれていた。

 しかし、その異変が何を意味するかまでは分からなかった。

 学校を休んでいる高校生。

 人付き合いが苦手な高校生。

 精神的に不安定な高校生。

 そこから、「数日後に母親を殺害し、遺体を切断する」という未来を予測することは容易ではない。

 だが少年の側では、より具体的な準備が始まっていた。

 事件の数日前。

 会津若松市内のホームセンター。

 少年はのこぎりを購入した。

 後に自ら、

「のこぎりは数日前に市内のホームセンターで買った」

 という趣旨の供述をしている。

 この購入が殺害そのものを目的にしたのか、遺体切断を目的にしたのか、その細部までは資料だけでは確定できない。

 しかし、少なくともそののこぎりは、数日後、母親の頭部と右腕を切断するために使用された。

 5月14日。

 はるみさんが仕事を終えた。

 午後6時過ぎ。

 息子たちのアパートへ向かった。

 母親が息子たちの生活を気にかけ、アパートへ訪れること自体は珍しくなかったと報じられている。

 その夜、母親は泊まった。

 少年の頭の中に、この段階でどこまで具体的な殺害計画があったのか。

 母親が来るのを待っていたのか。

 その夜に決断したのか。

 資料から完全に確定することはできない。

 そして日付が変わった。

 5月15日。

 母親の47歳の誕生日。

 午前1時30分ごろ。

 少年は刃物を手にした。

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・判決
・まとめ