京都小学生殺害事件――「てるくはのる」を残した男
事件概要
1999年12月21日。
京都市伏見区。
冬休みを目前にした京都市立日野小学校の校庭では、放課後を迎えた子どもたちがいつものように遊んでいた。
この日は、学校で保護者と担任による個人懇談会も行われていた。
校庭にはおよそ30人の児童が残っていた。
その中に、小学2年生の中村俊樹くん、7歳(仮名)がいた。
俊樹くんは、校庭北側にあるジャングルジムの近くで同級生と遊んでいた。
そこへ、一人の若い男が近づいてくる。
男は黒い目出し帽のようなものを身につけていたとされる。
午後1時55分ごろ。
男は突然、俊樹くんへ襲いかかった。
手にしていたのは文化包丁だった。
男は7歳の身体に何度も刃を振るった。
俊樹くんは十数か所に傷を負い、首から大量の血を流して倒れた。
そして男は、助けようともせず、そのまま校庭から逃走した。
あまりに突然の出来事だった。
周囲にいた児童たちは、何が起きたのか理解できないまま立ち尽くした。
その中で女児二人が職員室へ走った。
「俊樹くんが切られた」
その知らせを受けた教頭らが校庭へ駆け出した。
倒れている俊樹くんへ上着をかける。
そして校舎へ向かって、
「校長、たいへんなことが起きた」
と叫んだ。
さらに悲惨だったのは、この日、俊樹くんの母親も個人懇談会のため学校に来ていたことである。
校長が現場へ到着した時には、すでに母親と担任教諭が息子のそばにいた。
母親は我が子の名前を呼び続けた。
「早く救急車を」
俊樹くんは救急搬送された。
しかし傷はあまりにも深かった。
病院到着時には心肺停止状態。
懸命な救命措置が行われたが、事件発生から約30分後、死亡が確認された。
7歳だった。
事件現場には、不可解なものが残されていた。
文化包丁。
金槌。
農薬の入った瓶。
そして、複数枚の犯行声明。
そこには、
「私は日野小学校を攻げきします」
「理由はうらみがあるからです」
「今はにげますがあとで名前を言うつもりでいます」
「だから今は追わないでください」
などと書かれていた。
そして最後に、
「私を識別する記号→てるくはのる」
という意味不明の言葉が記されていた。
「てるくはのる」
この言葉は瞬く間に全国へ広がった。
暗号なのか。
人名なのか。
アナグラムなのか。
何らかのメッセージなのか。
マスコミも世間も、その意味を追った。
しかし、犯人はその意味を説明することなく死ぬことになる。
犯人として捜査線上に浮上したのは、当時21歳の岡村浩昌。
京都市伏見区の団地で母親と暮らしていた浪人生だった。
岡村は、事件の数年前から学校という存在に異常なほど執着していた。
高校へ何度も足を運び、
「卒業を取り消してほしい」
と要求していた。
事件の約1年前には、自分とは関係のない奈良県内の高校へ侵入。
窓ガラスを大量に割り、カーテンを切り裂き、消火器を壊し、そこにも学校への恨みを書いた犯行声明と奇妙な「識別記号」を残していた。
そして日野小学校事件。
捜査は徐々に岡村へ近づいた。
自転車。
偽名。
防犯カメラ。
筆跡。
犯行道具。
高校への執着。
2000年2月5日。
警察は岡村の自宅を訪れた。
だが岡村は任意同行を拒否した。
数時間に及ぶ説得。
その裏で行われる自宅捜索。
「山室学」という偽名を書いたメモが発見され、警察は逮捕状を請求した。
ところが、そのわずか後。
岡村は捜査員の目の前から突然逃走する。
追跡する警察。
岡村は高層住宅へ逃げ込んだ。
そして逮捕される直前、自ら命を絶った。
結局、
「なぜ、日野小学校だったのか」
「なぜ、7歳の俊樹くんだったのか」
その答えを、岡村本人が語ることはなかった。
いつ・どこで起きたか
事件が発生したのは、
1999年12月21日午後1時55分ごろ。
場所は、
京都府京都市伏見区にある京都市立日野小学校。
事件現場は、校舎の奥に隠された場所でもなかった。
人気のない裏庭でもない。
学校の校庭だった。
しかも白昼である。
校庭には約30人の子どもがいた。
学校内では個人懇談会が行われ、複数の保護者も来校していた。
そのような時間帯に、外部から入ってきた男が小学2年生を襲ったのである。
犯行後、岡村は学校から逃走したとみられる。
そこから約300メートル離れた醍醐辰巳児童公園周辺では、
血の付いた青色の衣類。
手袋。
ナイフ。
マフラー。
帽子。
そして自転車。
などが発見された。
つまり事件には、三つの重要な場所が存在する。
第一が、
日野小学校。
殺害現場である。
第二が、
醍醐辰巳児童公園周辺。
犯人が逃走途中に衣類や自転車などを捨てたとみられる場所。
そして事件から約1か月半後、最後の舞台となったのが、
京都市伏見区の向島地区。
岡村が暮らしていた団地。
任意同行の説得が行われた向島東公園。
そして逃走後に岡村が死亡することになる向島ニュータウン。
事件そのものは日野小学校で起きた。
しかしその痕跡は、京都から大阪、奈良へと広がっていた。
逃走用とみられる自転車は大阪府枚方市で購入されていた。
事件に関連する道具は京都府城陽市や宇治市で買われていた。
そして事件の約1年前には、奈良市内の高校でも岡村によるものとされる侵入・器物損壊事件が起きていた。
日野小学校事件は、一点だけを見ても理解しにくい。
岡村浩昌という一人の青年が、何年もかけて「学校」という言葉へ執着し続けた末に起きた事件だった。
登場人物
岡村浩昌――21歳
1978年、京都市伏見区生まれ。
事件当時21歳。
無職、あるいは浪人生活を送っていた青年だった。
小学生のころは成績が良く、足も速かった。
学校代表として駅伝大会に出場するほどだった。
高校では陸上部に入り、持久走大会で校内4位になるほどの運動能力もあった。
数学や化学では100点を取ることもあった。
一時期の彼だけを見れば、
「将来、小学校へ侵入して7歳の児童を殺害する人物になる」
などと想像するのは難しい。
ところが高校2年ごろから不登校となる。
留年。
復学。
卒業への拒絶。
そして卒業後、
「自分を卒業させた学校が悪い」
という方向へ強い執着を示すようになった。
洛水高校へ何度も押しかけ、
「なぜ高校を卒業させたのか」
「卒業を取り消してくれ」
「大検を受けたい」
と繰り返した。
やがてその怒りは、自分が通った高校だけではなく、
「学校そのもの」
へ広がっていったとみられる。
中村俊樹くん――7歳〔仮名〕
京都市立日野小学校2年生。
事件当時7歳。
岡村との個人的な接点は、添付資料では確認されていない。
岡村が通っていた小学校でもない。
岡村の高校問題とも無関係だった。
学校への恨みも、岡村の卒業への執着も知らない。
事件当日の俊樹くんは、ただ放課後の校庭で同級生と遊んでいただけだった。
実況見分では、事件直前、友人との鬼ごっこで疲れてしゃがみ込んでいたところを襲われたことが分かったとされている。
俊樹くんの母親
事件当日、日野小学校の個人懇談会に参加するため校内にいた。
事件発生後、倒れている息子のもとへ駆けつけ、
「早く救急車を」
と叫んだ。
病院まで息子に付き添った。
後に両親は、なぜ息子が殺されたのかを知るため、捜査資料の開示などを求めることになる。
しかし岡村が死亡したため、事件の核心となる動機を本人から聞くことはできなかった。
岡村の母親
夫を早くに亡くしたあと、実家の工場を手伝いながら家庭を支えた。
長男から家庭内暴力を受けた時期もあったとされる。
浩昌の不登校が始まると、一緒に高校へ出向き、
「学校をやめたいと言っている」
「何を言っているのか理解できない」
と教師へ相談した。
事件後の2000年2月5日には、警察から息子を説得するよう求められる。
さらに、岡村宅の捜索についても協力したとされる。
岡村の兄
浩昌より5歳年上。
父親死亡後、母親へ家庭内暴力を繰り返したと資料には記されている。
その後は就職して家を離れた。
岡村死亡後には母親とともに被害者宅を訪れ、遺族へ謝罪したとする資料もある。
洛水高校の教師たち
岡村が在籍していた京都府立洛水高等学校の教師たち。
岡村の不登校に対応し、カウンセリングを勧めた。
卒業後は、何度も学校へ現れて卒業取り消しを求める岡村の対応を続けた。
校長は岡村へ、
「本校の全員の先生方が君の卒業を決定した」
「温情で卒業させたわけではない」
「大学を受験する資格はすでにある」
「大検を受ける必要はない」
という趣旨で説明した。
しかし岡村は納得しなかった。
事件発覚まで
1999年12月21日。
午後1時55分。
犯行は、多くの児童がいる目の前で始まった。
そのため、この事件には一般的な殺人事件のような、
「数日後に遺体が発見された」
という意味での発覚までの空白はない。
犯行と発覚は、ほぼ同時だった。
男が少年を襲う。
俊樹くんが倒れる。
男が逃げる。
子どもたちが立ち尽くす。
そして女児二人が職員室へ走る。
「俊樹くんが切られた」
教頭らが外へ飛び出した。
校庭には、血を流して倒れている7歳の児童がいた。
母親も駆けつける。
救急車。
警察。
学校関係者。
一瞬で日常が事件現場へ変わった。
俊樹くんは病院へ運ばれた。
しかし首には極めて深い傷があった。
資料では、動脈や静脈まで損傷する致命傷があり、出血は激しかったとされる。
司法解剖では、首の切創による失血死と判断された。
遺族によれば、当初は即死したと思われていた。
ところが後になり、その場にいた子どもたちの証言から、俊樹くんが襲撃直後にも、
「痛い……」
などと声を発していたことが分かったという。
彼は何が起きたのか分からなかったはずである。
目の前に知らない大人が現れた。
突然刃物を向けられた。
身体を切られた。
首から血が流れる。
痛い。
助けてほしい。
母親は同じ学校の中にいた。
しかし、そのわずかな距離が間に合わなかった。
事件が社会へ知られると、もう一つのものが大きく報道された。
犯行声明だった。
「てるくはのる」
この六文字が、事件の象徴となった。
しかしその時点で警察が本当に必要としていたのは、「暗号解読」ではない。
男そのものへつながる証拠だった。
そして犯人は、自分では気づかなかったのか、あるいは意図的だったのか、驚くほど多くの物を残していた。
その残された物が、やがて岡村浩昌へつながっていく。
次の文章
・犯人の生い立ち
・事件当日の詳細
・捜査
・逃亡、死亡
・まとめ