女子高生コンクリート詰め殺人事件
――40日間の監禁、裁判、そして4人のその後――

事件概要

1988年11月25日、埼玉県三郷市。アルバイトを終え、自転車で帰宅していた高校3年生の古田順子さん、17歳が、宮野裕史、小倉譲、湊伸治、渡邊恭史を中心とする少年グループに連れ去られた。

順子さんは東京都足立区綾瀬にあった湊伸治の自宅2階へ連れ込まれ、約40日間にわたって監禁された。その間に暴力や性的暴行が繰り返され、逃走や通報を試みればさらに暴力を受けた。年末になるころには食事も十分に与えられず、火傷や負傷が悪化し、自力で動くことさえ難しい状態へ追い込まれていった。

1989年1月4日、極度に衰弱していた順子さんに少年らは長時間の集団暴行を加え、順子さんはその日のうちに死亡した。翌日、遺体はドラム缶に入れられてコンクリートで固められ、東京都江東区若洲の埋立地へ遺棄された。

事件が発覚したのは約3か月後の1989年3月だった。別件で警察の取調べを受けていた宮野の供述から若洲が捜索され、3月29日、コンクリートの詰まったドラム缶から順子さんの遺体が発見された。

ここから捜査は一気に進み、宮野、小倉、湊、渡邊の4人は刑事裁判へ送られることになる。事件の全体像を見るには、まず彼らがどこで順子さんと接触し、どの場所で40日間が進み、どこへ遺体を隠したのかを整理しておく必要がある。

いつ・どこで起きたか

事件の発端は、1988年11月25日夜、埼玉県三郷市だった。

順子さんが襲われたのはアルバイトから自転車で帰宅している途中だった。

そして日付が変わった11月26日未明、宮野、小倉、湊、渡邊の4人による監禁の意思が固まり、順子さんは東京都足立区綾瀬にあった湊伸治の自宅2階の六畳間へ連れて行かれた。

裁判所は、4人が11月26日から翌1989年1月4日まで順子さんを監禁し、11月28日ごろには複数人による性的暴行が行われ、1月4日に4人が未必の殺意をもって殺害したと認定した。

さらに翌1月5日には宮野、小倉、湊らが遺体をコンクリート詰めにし、江東区内へ遺棄したと認定している。

したがって、事件には大きく分けて三つの場所が存在する。

最初の襲撃場所――埼玉県三郷市。

40日間の監禁と殺害現場――東京都足立区綾瀬。

遺体遺棄現場――東京都江東区若洲。

わずか数十キロほどの範囲の中で、ひとりの女子高校生が家族から切り離され、40日間にわたって社会から消されていたのである。

登場人物

事件を追ううえで中心となるのは、被害者の古田順子さんと、主要加害者として刑事裁判にかけられた4人である。さらに、監禁場所となった湊家の家族も、事件が40日間続いた背景を考えるうえで欠かせない存在となる。

古田順子――被害者、17歳

古田順子さんは高校3年生だった。

父、母、兄、弟と暮らす5人家族で、卒業旅行の資金を貯めるため、放課後にプラスチック成型工場でアルバイトをしていた。

裁判資料では、事件当時、すでに就職が内定していたことも記されている。

高校生活は、まもなく終わろうとしていた。

高校を卒業し、働き始める。

家を出るかもしれない。

給料をもらう。

友人と旅行をする。

17歳ならば、そんな未来がいくらでも考えられた。

しかし1988年11月25日、その未来は突然断ち切られた。裁判所も、順子さんには事件に巻き込まれるような落ち度は一切なく、アルバイトから帰宅していただけだったことを明確に認定している。

宮野裕史――主犯格、18歳

グループの中心人物。

裁判資料では「被告人A」。

4人の中で最年長だった。

他の少年たちを圧倒し、グループの中で主導的な立場にいた。

拉致のきっかけを作ったのも宮野だった。

最終日の暴行を始めることを提案したのも宮野だった。

遺体処理のためにトラックやセメントを調達したのも宮野だった。

東京高裁は、4人の中でも宮野の刑事責任が「ひときわ抜きんでている」と評価している。

小倉譲――17歳

裁判資料の「被告人B」。

グループ内では宮野に次ぐ位置にいた。

宮野がいないときには、湊や渡邊より上の立場に立っていたと裁判所は認定している。

事件初日の深夜、宮野が順子さんをどうするか相談した際、

「さらっちゃいましょうよ」

と監禁を積極的に提案した人物でもあった。

裁判所は、小倉について単に宮野に従っただけではなく、宮野がいない場面でも自発的に強い暴力を加えていたと認定した。

湊伸治――当時15歳、監禁中に16歳

裁判資料の「被告人C」。

事件現場となった家の住人である。

1988年12月16日に16歳になったため、事件開始時点では15歳だった。

4人の中では最年少。

しかし、年齢が最も若いから関与が軽かったわけではない。

順子さんを最初に自転車ごと蹴り倒したのは、宮野の命令を受けた湊だった。

その後、自分の部屋を監禁場所として提供する。

監禁中にも激しい暴力に加わる。

東京高裁は、湊について単に宮野の命令に仕方なく従ったのではなく、宮野がいない場面でも積極的に暴力を加えていたと判断している。

渡邊恭史――当時16歳、監禁中に17歳

裁判資料の「被告人D」。

4人の中では比較的追従的な立場だったと認定されている。

しかし、監禁中の見張りにも加わり、性的暴行にも関与し、殺害当日の暴力では極めて強い攻撃を加えている。

裁判所は、他の3人より関与が低い面があったことを認めながらも、「関与が低い」という言葉で済ませられないほど重大な行為を行ったと判断した。

湊の兄

裁判資料では匿名の「F」として登場する。

湊と同じ家の2階に部屋を持っていた。

事件途中から順子さんの監視役を任される場面があり、死亡後の遺体処理にも関与したと裁判資料に記録されている。

ただし、主犯格4人とは刑事責任の扱いが異なるため、本稿では裁判資料に従い実名を断定しない。

湊の両親

監禁場所となった住宅に暮らしていた。

両親は共働きで家を空けることが多かった。

さらに湊の家庭内暴力が激しく、両親は息子を十分に統制できない状態になっていたと裁判資料は認定している。

しかし問題は、家の2階に少女が長期間存在したことに、途中でまったく気づかなかったわけではないことである。

裁判資料によれば、湊の母親は順子さんが家にいることを知り、順子さんの家族へ偽名を使って電話をかけたことさえあった。

それでも、順子さんは救出されなかった。

4人は同じ地域の先輩・後輩としてつながり、湊の部屋をたまり場にしていた。次に、順子さんが失踪した直後、家族から見た事件がどのように進んでいたのかを追う。

事件発覚まで

11月25日の夜、順子さんは家へ帰らなかった。家族にとっては、何の前触れもない突然の失踪だった。学校へ行き、アルバイトを終えた娘が帰宅しない。携帯電話や位置情報サービスが一般化していない1988年、家族が自力で居場所を追跡する手段はほとんどなかった。

11月27日、両親は警察へ捜索願を出した。そのころ順子さんは、すでに東京都足立区綾瀬の住宅2階に閉じ込められていた。

少年たちは、警察が自分たちへ近づくことを恐れ、順子さん自身に家へ電話をかけさせた。11月末から12月16日ごろまでの間に少なくとも3回、「家出しているんだから捜索願いを出さないで」「捜索願いを取り下げて」という趣旨の言葉を言わせている。

家族が聞いたのは、確かに娘の声だった。しかし、それは自由意思で発せられた言葉ではない。娘は生きている。だが場所が分からない。声は届いているのに、助けを求めていることさえ確認できない。両親は捜索を続けたが、決定的な手掛かりにはたどり着けなかった。

しかも監禁場所は山奥でも廃工場でもなかった。人が暮らす普通の住宅街の、家族も生活する家の2階だった。近隣では夜中のバイクの音や騒ぐ声が聞かれ、玄関を使わず電柱をよじ登ったり、ベランダの脚立を使ったりして2階へ出入りする少年の姿も後に証言されている。

それでも事件は表面化しなかった。年を越し、1989年1月4日に順子さんが死亡し、翌日には遺体まで隠された。家族にはその事実が知らされないまま、1月、2月と時間だけが過ぎていった。

この時点で世間から見れば、順子さんは依然として「行方不明の高校生」だった。では、その密室をつくった4人は、事件以前にどのような生活を送っていたのか。そこをたどると、11月25日の犯罪が完全な突発事件ではなかったことが見えてくる。

犯人の生い立ち

家庭環境や生育歴は、犯罪の責任を免除する理由ではない。しかし、4人がどのように出会い、なぜ湊宅が不良グループのたまり場になり、宮野を頂点とする上下関係ができたのかを理解するためには、事件以前の生活を見ておく必要がある。

宮野裕史の生い立ち

宮野裕史は1970年4月30日生まれ。

父親は証券会社勤務。

母親はピアノ教師だった。

経済的には困窮した家庭ではなかった。

父親は営業マンとして高い収入を得ており、母親もピアノを教えて収入を得ていた。

しかし、父母の仲は円満ではなかった。

宮野自身にも、小学生のころから問題行動があった。

万引き。

校内の器物損壊。

周囲の児童を威圧し、いわゆる「番長」のように振る舞うこともあった。

家庭内暴力もあり、父親が学校へ相談したことさえあった。

ところが、中学生になると一時的に状況が変わる。

宮野は柔道に打ち込んだ。

大会では優勝や準優勝を経験した。

中学時代には、それまで見られたような大きな問題行動が目立たなくなった。

柔道の実績を評価され、1986年4月、東京都内の私立高校へ特待生として推薦入学した。

このまま柔道を続けていれば、その後の人生はまったく違っていた可能性もある。

しかし高校の柔道部では厳しい練習が続き、先輩からのいじめもあったと裁判資料には記されている。

入学した年の9月。

宮野は柔道部を辞めた。

翌1987年3月には高校そのものを退学した。

その後、自宅近くのタイル工業所へ就職した。

この時期、宮野には傷害や学校荒らし、窃盗などの非行歴があり、保護観察処分も受けていた。

それでも、しばらくすると生活は落ち着いた。

暴走族から離れた。

タイル工として約1年間、比較的真面目に働いた。

雇用主も勤務態度を評価していた。

交際していた女性との結婚を夢見ていた。

その女性は、のちに共犯となる渡邊恭史の姉だった。

宮野は結婚資金などとして約200万円を貯めていたという。

1988年5月には運転免許を取った。

7月には父親から約350万円の新車を買ってもらった。

一見すれば、社会へ戻りかけていた。

ところが1988年夏ごろから、再び崩れ始める。

「給料が安い」

そう不満を抱き、仕事を怠けるようになった。

保護司の指導も聞かなくなった。

そして中学時代の同級生を通して、暴力団関係者へ接近していく。

「一日3万円になる仕事がある」

そんな話を持ちかけられ、的屋の仕事を始めた。

偽ブランド品の販売。

街頭での花売り。

暴力団関係者が経営する花屋の店番。

暴力団事務所の当番。

同じころ、シンナー吸引も繰り返すようになった。

そして、宮野の周囲へ少年たちが集まっていった。

小倉譲の生い立ち

小倉譲は1971年5月11日生まれ。

幼いころに両親が別居し、主として母親のもとで育った。

小学生時代からスポーツが得意だった。

野球チームに所属し、中学校では陸上部にも入った。

中学時代までは、目立った問題行動はあまりなかったとされる。

転機のひとつは、1986年1月だった。

スキーで右足を複雑骨折した。

スポーツで活躍する機会を失った。

1987年4月に私立高校へ入ったものの、次第に学校へ行かなくなり、同年11月には除籍された。

電工見習いとして働いたこともある。

1988年4月には都立の定時制高校へ入り直した。

しかし約2か月で登校しなくなった。

同年5月ごろから、ほとんど働かず学校にも通わない生活となった。

7月にはバイクの無免許運転。

10月14日には交通短期保護観察処分を受けている。

のちの4人組の中では、宮野に次ぐ位置にいた。

湊伸治の生い立ち

湊伸治は1972年12月16日生まれ。

事件開始時には15歳だった。

監禁中の12月16日に16歳になる。

父親は診療所に勤務し、母親は看護師。

兄が一人いた。

小学生時代から恐喝、万引きなどの非行があった。

中学へ進学すると、母親に対する暴言や暴力が激しくなった。

父親にも反抗した。

1988年4月、都立の化学工業系高校へ進学。

しかし無断外泊、怠学、不良交友、家庭内暴力が悪化し、同年9月に退学した。

そして湊と兄の部屋は、いつしか不良少年たちのたまり場になった。

両親は共働きだった。

しかも息子から暴力を受ける状態にあり、十分に統制できなくなっていた。

事件直前の1988年11月18日。

湊はバイクの無免許運転で、交通短期保護観察処分を受けている。

そのわずか1週間後。

湊の部屋は、一人の少女を閉じ込める監禁場所となる。

渡邊恭史の生い立ち

渡邊恭史は1971年12月18日生まれ。

事件開始時は16歳。

監禁期間中に17歳となった。

幼いころに両親が別居。

その後離婚し、父親は離婚後ほどなく死亡した。

渡邊は姉とともに母親に育てられた。

1987年4月、都立工業高校の定時制へ進学。

しかし、わずか1週間ほどで学校へ行かなくなった。

同年9月に退学。

その後、何か所かで働いたが、いずれも長く続かなかった。

中学時代には怠学や家庭内暴力などで保護観察処分を受け、さらに学校荒らしなどの非行歴もあった。

4人が集まる

4人は地元の同じ中学校の先輩、後輩だった。

宮野が最年長。

小倉と渡邊が一学年下。

湊はさらに一学年下。

1988年夏ごろから、小倉は湊の兄を通じて湊宅へ頻繁に出入りするようになる。

渡邊もそこへ加わった。

宮野は渡邊の姉と交際していたこともあり、以前から彼らと面識があった。

そして1988年10月ごろ。

湊の兄が盗まれたバイクを探すのを宮野が手伝った。

それをきっかけとして宮野も湊宅へ頻繁に出入りするようになる。

そこから宮野を中心とするグループが急速に形づくられていった。

宮野は他の少年を圧倒した。

年齢も上。

身体能力もある。

柔道経験もある。

暴力団関係者とのつながりも持っている。

少年たちは宮野を恐れながら、同時にその周囲へ集まった。

小倉は宮野に次ぐ立場。

湊と渡邊はその下にいる。

そうした上下関係ができていった。

事件前から繰り返されていた犯罪

順子さんの事件は、彼らにとって最初の犯罪ではなかった。

1988年10月23日。

小倉や湊らは仲間と自動車を盗んでいる。

10月26日。

宮野、小倉、湊らは店舗へ侵入。

窓ガラスを割り、ジャンパーなど144点、約200万円相当を盗んだとされる。

そして11月8日。

順子さんが襲われる17日前。

宮野らは車で若い女性を探していた。

自転車で帰宅していた19歳の女性を見つける。

車を幅寄せして止める。

小倉が自転車の鍵を抜く。

女性を無理やり車へ乗せる。

宮野は車内で脅迫した。

「俺は最近少年院を出てきたばかりだ」

などと凄み、ホテルへ連れ込み、複数人で性的暴行を加えたと認定されている。

つまり11月25日の事件は、突然何もない場所から発生したわけではない。

犯罪への抵抗感は、すでに失われつつあった。

そして11月25日が来る。

つまり、11月25日の夜に突然「普通の少年たち」が凶悪事件へ変貌したわけではない。窃盗、ひったくり、女性を狙った犯罪を重ねる中で、犯罪への抵抗感はすでに低下していた。その状態で、アルバイト帰りの順子さんを見つけたのである。

事件当日の詳細

1988年11月25日。ここからは、順子さんが自転車で帰宅していた時点から、4人の間で監禁の意思が固まる11月26日未明までを、時間の流れに沿って追う。

1988年11月25日――拉致当日

金曜日だった。

午後6時ごろ。

宮野裕史は湊伸治の家へやって来た。

資料では、宮野は湊へこう持ちかけたとされる。

「今日は給料日だから、金を持っている人が多いんじゃないか。ひったくりをしに行こう」

湊は友人から原付バイクを借りた。

2人はバイクで街へ出た。

目的は金だった。

しかし街を走るうち、目的は別のものへ変わった。

午後8時すぎ。

埼玉県三郷市。

前方に、自転車に乗った女子高校生がいた。

古田順子さんだった。

アルバイトを終え、家へ帰る途中。

宮野は湊へ言った。

「あの女、蹴飛ばしてこい」

湊は原付を加速させた。

順子さんの自転車へ近づく。

そして、走行中の順子さんを蹴りつけた。

突然の衝撃。

自転車は大きくバランスを崩した。

順子さんは自転車ごと倒れ、側溝へ転落した。

湊はそのまま離れた。

順子さんには、なぜ突然自分が蹴られたのか分からなかっただろう。

そこへ、もう一人の少年が近づいてきた。

宮野だった。

だが宮野は、湊の仲間であることを隠した。

心配した通行人のような顔をして近づく。

「今、蹴飛ばしたのは危ない奴だ」

「俺もさっきナイフで脅された」

「危ないから送ってやる」

先ほど自分が命令して襲わせたにもかかわらず、今度は自分が助ける側を装ったのである。

順子さんは宮野を信用した。

それが罠だった。

親切を装った宮野

宮野は順子さんを近くの倉庫へ連れていった。

人目から離れたところで態度を変えた。

先ほどまでの親切な口調は消えた。

「自分はさっきの奴の仲間だ」

「お前を狙っているやくざだ」

「俺は幹部だから、俺の言うことを聞けば命だけは助けてやる」

さらに、声を出せば殺すという趣旨の脅迫を加えた。

そして午後9時50分ごろ。

順子さんをホテルへ連れて行き、性的暴行を加えた。

この時点で宮野が順子さんを解放していれば、事件はここで終わっていた。

もちろん、それでも重大犯罪である。

しかし順子さんは生きて家へ帰れた。

宮野は帰さなかった。

午後11時ごろ。

宮野はホテルから湊の家へ電話をかけた。

電話に出たのは小倉だった。

宮野は、自分が狙っていた女性を捕まえ、性的暴行を加えたという趣旨の話をした。

小倉は言った。

「女を帰さないでください」

この一言によって事件はさらに深い段階へ進んでいった。

「さらっちゃいましょうよ」

宮野は順子さんを連れ、小倉、湊、渡邊と合流した。

4人と順子さんは公園へ移動する。

11月26日午前0時30分ごろ。

宮野は、

「ジュースを買ってくる」

という名目で、小倉だけを少し離れた自動販売機付近へ連れていった。

そこで宮野が尋ねた。

「あの女どうする」

小倉が答える。

「さらっちゃいましょうよ」

宮野と小倉は、順子さんを帰さず、監禁する意思を固めた。

さらに湊も自分の部屋を使うことを了承した。

渡邊も、それまでの流れから目的を理解した。

宮野は順子さんへ嘘を重ねる。

「お前はやくざに狙われている」

「仲間がお前の家の前をうろうろしている」

「だから匿ってやる」

順子さんにとって、家へ帰れば家族まで危険にさらされると思わせるための嘘だった。

そして4人は、順子さんを東京都足立区綾瀬にある湊伸治の自宅へ連れていった。

2階。

六畳間。

そこが監禁場所となった。

順子さんは、この部屋で年を越すことになる。

そして生きて家へ帰ることはなかった。

日付が変わった時点で、一度の性的暴行事件は「帰さない」という共同意思を伴う監禁事件へ変わった。順子さんが連れて行かれた六畳間では、ここから約40日間、暴力が少しずつ日常へ変わっていく。

40日間の監禁

監禁開始直後から、順子さんの自由は奪われた。しかし、最初から最後まで同じ強さの暴力が続いたわけではない。日が経つにつれ、性的暴行、逃走への報復、心理的な嫌がらせ、火傷、飢餓へと内容が変化し、身体と精神の両方が削られていった。

11月28日――暴力が日常になっていく

監禁開始から数日。

11月28日ごろ。

宮野は別の不良仲間まで湊の部屋へ呼び入れた。

そして複数人による性的暴行が行われた。

順子さんは必死に抵抗した。

手足を押さえられた。

口をふさがれた。

身体を押さえつけられた。

そして性的暴行だけでなく、性的な屈辱を与える残虐な行為まで加えられた。

少年たちは順子さんが苦しむ様子を見て笑ったと裁判資料は認定している。

順子さんが置かれた状況は、ここから急速に悪化していく。

逃走と通報

12月上旬。

順子さんは逃げようとした。

さらに警察へ通報しようとした。

見つかった。

少年たちは激怒した。

宮野。

小倉。

湊。

3人が顔を何度も殴った。

宮野は順子さんの足首へライターの火を押しつけた。

火傷を負わせた。

逃げようとしたことへの罰だった。

「逃げれば、もっとひどい目に遭う」

そのことを身体へ覚え込ませるような暴力だった。

その後も少年たちは、不良仲間を加えながら暴行を続けた。

真冬の深夜、十分な衣服を着せないままベランダへ出す。

シンナーを吸わせる。

ウイスキーや焼酎を無理に飲ませる。

大量の水や牛乳を飲ませる。

顔へマジックペンで落書きをする。

生きたままのゴキブリを食べさせる。

性的な屈辱を伴う虐待も繰り返された。

自分たちが排出した、精子や尿を飲ませた。

膣に自分らが吸った煙草の火を消したり、中に吸殻を入れるなどして灰皿代わりにしていた。

膣に金属の棒を無理やり突っ込み、内部を強引にかき回した。

肛門にも金属の棒を突っ込み、内部を掻き回した。

花火の火薬を集めて、それを肛門に入れ爆発させた。

もはや、拷問である。

最初は性的暴行を中心として始まった監禁は、次第に目的そのものを失っていった。

少年たちにとって順子さんは、

「暴力を加えてもいい存在」

へと変化していった。

心まで壊そうとする

事件資料には、身体への暴力だけではなく、心理的な嫌がらせも記録されている。

あるとき宮野は、順子さんへ父親について嘘をついた。

「事故の起きた電車に、お前の父親が乗っていた」

「死んだってテレビでやってた」

順子さんは不安そうな表情を見せた。

宮野が聞いた。

「どんな気分?」

順子さんは、

「悲しいです」

と答えた。

すると宮野は、

「実はウソだよ」

と笑ったという。

宮野、小倉、湊らは、父親が「死んだ」「生きている」という話を繰り返し、順子さんを精神的にも揺さぶったと資料には記されている。

順子さんが、

「家に帰りたい」

と言うこともあった。

しかしその言葉すら、暴力の口実にされた。

家族に何と言い訳するのか。

なぜ長期間帰らなかったと説明するのか。

少年たちは問い詰める。

答えても殴られる。

答えなくても殴られる。

徐々に逃げ道は塞がれていった。

十二月中旬――顔が変わる

12月中旬から下旬。

順子さんは衰弱し、排泄もうまくできなくなっていた。

あるとき尿を布団に漏らしたことをきっかけとして、小倉と湊が激しい暴力を加えた。

顔を何度も殴った。

拳が繰り返し顔面へ入った。

やがて顔は大きく腫れ上がった。

輪郭が変わっていく。

それを見た少年たちは心配するどころか笑った。

「でけえ顔になった」

湊は翌日、その腫れ上がった顔を宮野に見せた。

「あんまり面白いから、Aにも見てもらおう」

裁判資料には、そういう趣旨の発言まで記録されている。

宮野は順子さんの変貌に驚いた。

しかし、そこで止めなかった。

逆だった。

自分も暴力へ加わった。

何度も殴った。

太腿や手などへ揮発性の油をかけた。

ライターで火をつけた。

火が消える。

また油をかける。

再び火をつける。

順子さんは耐えきれなくなった。

そして、

「もう殺して」

と哀願することさえあった。

その言葉が意味するものは重い。

助けてほしい、ではなく、

もう殺してほしい。

17歳の少女が、そう口にするほどの状態にまで追い込まれていた。

食事まで奪われる

監禁開始直後には、まだ食べ物が与えられていた。

しかし日が経つにつれ、その量は減っていった。

12月中旬以降。

与えられるのは少量の食物だけになった。

12月末ごろには、わずかな牛乳程度。

順子さんの身体は栄養障害に陥った。

食欲そのものもなくなった。

顔は暴力で腫れている。

手足の火傷は化膿している。

傷口は爛れ、異臭を放つ。

一階のトイレへ行くことさえ困難になった。

部屋の中で、一日中横になっている。

それでも少年たちは病院へ連れて行かなかった。

救急車も呼ばなかった。

警察にも知らせなかった。

なぜか。

病院へ連れていけば、何をしたのか知られる。

解放すれば、警察へ通報される。

だから監禁する。

監禁するから身体はさらに悪化する。

さらに悪化するから、もっと解放できなくなる。

そうして少年たちは、自分たちが作った状況の中へ沈んでいった。

外では普通の生活が続いていた

この事件の異様さは、少年たち自身も40日間ずっと部屋へ閉じこもっていたわけではない点にある。

外へ出ていた。

友人と会った。

遊んだ。

仕事の手伝いもしていた。

宮野を通じて、小倉、湊、渡邊らは暴力団関係者が経営する花屋へ出入りしていた。

街頭で花を売った。

暴力団事務所の当番もした。

外の世界では、人々が年末を過ごしていた。

クリスマスが来た。

街では年末商戦が始まった。

正月の準備が始まった。

そして普通の住宅の2階では、一人の高校生が徐々に身体を壊されていた。

少年たちはその部屋から外へ出て、再び戻ってきた。

それが何週間も続いた。

そして1989年1月。順子さんは、逃げる力どころか、自分の身体を守る力さえ失いつつあった。その状態で迎えたのが、1月4日の朝だった。

1989年1月4日――殺害当日

昭和64年1月4日。

監禁開始から約40日。

続きを読む
・事件当日の詳細
・捜査
・裁判
・判決
・事件後 出所後